僕の好きな人
いつもは食事中に鬱陶しいほど喋るであるが、今日は何故か物思いに耽っているように黙り込んでいる。箸もあまり進んでいないようで、具合でも悪いのかと縁は首を傾げる。と、が意を決したように茶碗と箸を置いた。そして真っ直ぐに縁を見据えて、
「縁、好きな人がいるの?」
「は?」
いきなりの質問に、縁はぽかんとした顔で箸を止める。
「この前、東京のお友達が来た時に言ってたでしょ。好きな人がいるって、本当なの?」
「…………………」
の言う“東京のお友達”とは、緋村剣心と神谷薫のことだ。別に彼らは友達でも何でもないのだが、彼女は二人の言葉を信じて“わざわざ東京から遊びに来るような、とても親しい友達”と信じているらしい。
珍しく何を真剣に考え込んでいるのかと思っていたら、そんなことを考えていたのか。やることが無いと、そういう下らないことを真剣に考えてしまうものらしい。
馬鹿馬鹿しすぎて鼻で笑い飛ばしたくなったが、真顔でじっと見詰められるとそういうわけにもいかず、縁は黙り込んでしまう。
好きな人がいるのか、と訊かれても縁は困ってしまう。剣心たちが言う“縁の好きな人”はのことなのだが、彼自身が本当に好きなのかと問われると、一寸微妙である。
のことは良い人だと思う。身元も判らない縁を助手として引き取って、今でも過去のことを訊かないまま一緒に暮らしているくらいなのだ。落人群から拾ってきた男がこれまでどんな人生を送ってきたか気にならないはずはないだろうに、そんな素振りさえ見せないところは感謝している。
けれど女として好きかと訊かれたら、微妙だ。料理は超弩級に下手、掃除も下手、片付けもできない(隣の部屋の荷物は、今もあのままだ)、そのくせ大喰らいで大酒飲みで、女としての欠点が多すぎる。こんな女を好きになって、うっかりくっ付いてしまったら、縁は一生のお世話係確定である。出来ればそういう人生は避けたい。
避けたいと思いながら、ずるずるとこの家に居座っているのは自分でも不思議だが、それはまあ何だかんだ言いながら居心地が良いからだろう。家事を切り盛りする日々は荒んだ過去を忘れさせてくれるし、何よりもが笑顔で感謝してくれることが嬉しい。初めは巴に似た彼女が笑ってくれるのが嬉しかったけれど、この生活に馴染んだ今は、彼女が笑ってくれるのが嬉しい。
「あ………」
自分のに対する思いを改めて考えて、縁は愕然とする。
相手の喜ぶ顔を見たい、笑顔を見るのが嬉しいという気持ちも“好き”というのだろうか。この気持ちを“恋”と呼ぶのなら、縁は確実にに恋している。
恋というのは、天使みたいな女が突然目の前に降ってきて始まるようなものだと思っていた。こんな所帯染みた環境で、しかも天使とは程遠い女を相手に始まるものではないと思う。少なくとも、これは縁が望む恋の始まりではない。
この思いをどう解釈すればいいのか縁が真剣に悩んでいると、は不安そうな顔を見せた。
「やっぱり本当に好きな人ができたの?」
「イヤ、あの………」
この気持ちを“恋”と呼ぶのなら、縁はのことが好きなのだろう。けれど本人を目の前にして、そんなことは言えない。
そんなことより気になるのは、の反応だ。からかいたくてそんなことを訊いているのかと思いきや、意外にも不安そうな顔をしている。それは、縁に好きな女ができたらが困るということなのか。
縁に好きな人が困るというのは、もしかしても彼のことを好きだと思っているのだろうか。もしそうだとしたら―――――
自分の発想に、縁は耳まで紅くする。一つ屋根の下で暮らしている男女が、いつの間にやら好き合っているなんて、三文小説でも使わない。けれど現実の展開は、案外三文小説以下のものらしい。
縁がのことを好きだったとして、も縁のことを好きなのだとしたら、このまま一生一緒にいるのも良いかもしれない。少なくとも今の縁は、来年も再来年も彼女と一緒にいたいと思っている。
とずっと一緒にいるということは、ずっと彼女の世話係をするということだが、それはそれで充実した人生のような気がしてきた。少なくとも、上海時代よりは実りのある生活のような気がする。
「好キな人は……多分………」
紅い顔のまま、縁は口の中でもそもそと呟くようにして小さく頷く。
この気持ちを恋だとはまだ言い切れないけれど、でも多分、のことは好きだと思う。それをどうやって言葉にしようかと考えていると、の顔がますます不安そうに曇った。
「じゃあ、そのうちこの家を出て行っちゃうの?」
「え?」
何故そんな展開になるのか解らずに、縁は頓狂な声を上げる。だから慌てて、
「そンなわけないだろウ! ずっと此処にいル」
への気持ちが本当に恋なら当然此処にいるし、たとえ恋でなかったとしても、縁はずっと此処にいるつもりだ。
その力強い声に、は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに嬉しそうな笑顔を見せた。
「よかったぁ。縁がいなくなっちゃったらどうしようかと思ったわ。
あ、好きな人、いつか私にも紹介してね。縁が好きになるくらいだから、きっと可愛い人なんだろうなあ」
「………え?」
楽しげに言うの言葉に、縁はびっくりして固まってしまった。
縁の好きな人は、多分で間違いないと思う。そしても実は縁のことを憎からず思っていたと考えていたのに、この反応は一体何なのか。縁に好きな人がいるということを喜んでいるようなその言葉は、彼のことはただの同居人としか思っていないということなのだろうか。
呆然としている縁の様子など全く気にも留めていないように、は華やいだ声を上げる。
「彼女のことで困ったことがあったら、いつでも相談してね。お金の相談は無理だけど、恋の相談ならいつでも乗るわよ」
「ア……アリガトウ………」
反論する言葉も気力も無く、縁はがっくりと項垂れて礼を言ってしまうのだった。
縁がやっと自分の恋心に気付いたというのに、主人公さんは相変わらず………。
だけど本当に主人公さんは何も気付いていないのかな? 結構思わせぶりな言動をしてると思うんですけど。解っててやってたら悪い女だし、素で気付いてないのなら、それはそれで性質が悪いな(笑)。
お邪魔虫が二人いるだけでも大変なのに、肝心の彼女がこれじゃあ、縁の恋は前途多難です。