春の嵐
春が来ない冬は無い。山の春は平地よりも遅いけれど、それでも春は間違いなくやってくる。「先生、桜が咲いてますよ」
山の頂き付近に白く煙るような部分を見つけて、がはしゃいだ声を上げた。
「暖かくなったなあと思ってたけど、もう春なんですねぇ」
「ふーん、そりゃ良かったな。で、お前はいつ帰るんだ?」
土を捏ねながら、比古は関心無さそうに言う。
結局冬の間は道が凍っているということでの滞在を許したが、桜が咲いてしまえば女の足でも簡単に山を下りることができる。春までは置いてやると約束したが、それ以降の居座りはもう許さない。
しかしとて、春が来ました、じゃあ帰ります、というわけにはいかない。何度も比古に話しているが、彼女は出戻りな上に実家を飛び出してきているのだ。出戻りというだけでも肩身が狭いというのに、強引に飛び出した実家に今更ノコノコ帰ったところで、父親も敷居を跨がせてはくれないだろう。
つまりには、もう帰る所は無いのだ。何処にも行く所が無いのだから、此処にいるしかない。弟子として扱ってもらえなくても、鬱陶しがられても、彼女にはもう此処しか居場所は無いのだ。
「私には帰る場所なんかありません。何度言ったら解るんですか。もう惚けちゃったんですか?」
この弟子志望女は、いつでも一言多い。まだ40代で恍惚の人になるわけがないではないか。だからこいつのことは嫌いなのだと、比古は忌々しく思う。
大体、弟子にして欲しいなら、もう少し腰を低くしろと言いたい。相変わらず師匠よりも先に飯を食うし、常に一言多いし、細かい嫌がらせは繰り返すしで、こんな女の何処をどうしたら弟子にしてやろうと思えるのか。尤も、腰を低くしたところで、比古には弟子をとる気はさらさら無いのだが。
「弟子をとる気は無え。何度言ったら解るんだ。お前こそ惚けたのか?」
忌々しいので、が言ったそっくりそのまま返してやる。が、彼女はしれっとして、
「何言ってるんですか。私は先生よりも一回りも若いんですよ。惚けるわけないでしょう。
それより、早く私にも器を焼かせてくださいよ。一寸窯の中を空けてくれるだけで良いんですから」
実はは、冬の間は空いた時間に独学で土を捏ねたり
冬の間は、今後の生活費のためとも我慢していたが、もう纏まった金が作れるほどには作品も出来上がっているのだから、そろそろ自分の作品を焼かせてもらえるくらいの場所が欲しい。比古が作ったものに較べればつまらない作品かもしれないが、それでも自分が作った焼き物を見てみたいのだ。
そんなの熱意など全く伝わっていないように、比古は素っ気無く、
「そんなに焼きたいなら、町の陶芸教室にでも行け。何なら、知り合いの陶芸家を紹介してやるぞ」
人付き合いは殆どしない比古だが、知り合いの陶芸家も一応いる。片手間に陶芸教室をやっている者もいるし、本格的に弟子を取っている者もいるのだ。そういう輩の方が、恐らく比古よりも教え方は上手い。
あらゆる方面に天才的な才能を持っていると自負する比古だが(断じて自惚れではない)、教えることに関してだけは絶対に向いていないと思う。彼の人生で唯一取った弟子は、結局彼が望むものとは違うものに出来上がってしまった。否、ある意味望むものは受け継いだのかもしれないが、まあ方向性の違いというものである。
この弟子志望の女にしても、きっと最終的には彼とは違う方向に進み、いつかは袂を分かつ結果になると思う。それはそれで、一つの師弟関係の形なのかもしれないが、そうなるのを解っていながら弟子として仕込むのは面倒臭い。そんなことをしている時間があるのなら、自分の作品を一つでも多く作ったほうがマシである。
無表情で比古が土を捏ねていると、いきなり腕に鈍い痛みが走った。何と、が作りかけの作品を思いっきり投げつけたのだ。
これまで色々な嫌がらせをされてきたが、暴力を振るわれたのは初めてだ。まだ乾燥していない柔らかな状態とはいえ、投げつけられれば結構痛い。
「てめえ、何しやがるっっ!!」
腕にへばりついた粘土の塊を引っぺがして、比古が怒鳴りつける。
が、それ以上の剣幕で、の方も怒鳴り返した。
「先生、何も解ってないっっ!!」
怒りのためかの全身はぷるぷると震え、顔も真っ赤になっている。此処に来て三日目にいきなりキレられた時以上の激昂ぶりだ。
「私が陶芸をやるのは、先生の下でじゃないと意味が無いんです! 私が感動したのは先生の作品だったから、他の陶芸家じゃ弟子になっても意味がないんです。だからおさんどんばっかりでも、邪魔者扱いされても此処に居続けようって思ってるのに、どうして解ってくれないんですか?!」
目に涙さえ浮かべ、これまで溜まっていたものを一気に吐き出すような彼女の勢いに、比古は唖然として固まってしまった。
彼女が目に涙を浮かべているのを見るのは、初めて此処にやってきた時以来だ。あの時は捨て犬のようなしおらしい姿での涙だったが、今回は恐ろしく攻撃的な涙である。
いつもは比古が何を言ってもせせら笑うように受け流していたが、こんなにも真剣に怒るのは初めて見た。というより、こんな激しい感情を持っている女だとは思わなかった。
言葉も出せずに固まっている比古に、は続けて言う。
「帰れって言われて帰るような中途半端な気持ちだったら、最初から此処には来てません! 何度も言ってますけど、もう家には戻らない覚悟で此処に来てるんです。どうして解ってくれないんですか?! どうしたら本気だってこと解ってくれるんですか?!」
言っているうちに、はボロボロと涙を零し始めた。興奮して泣いているのか、熱意が伝わらないのが悔しくて泣いているのか比古には解らないが、女に泣かれると流石の彼も参ってしまう。たとえそれが、いつも首を絞めてやりたいと思っているような女でもだ。
の言う通り、陶芸に対する熱意、比古の弟子になりたいという気持ちは本物なのだろう。邪険な扱いに黙って耐えるというしおらしい所は微塵も無いけれど、色々なことを覚悟してやってきたということは本当だと思う。出戻りだとはいえ、きちんとした家の女が家を飛び出すというのは余程のことだ。
とはいえ、比古の方としても、正式に弟子をとるという気にはなれない。なれないけれど―――――
「勝手にしろ」
弟子にする気は無いが、それほどまでに激しい想いを抱いているのなら、好きにすれば良い。町に戻ったところで帰る場所も無いからと身を持ち崩すくらいなら、此処で飯炊き女でもさせていた方が比古も安心だ。追い出して、食うために女郎屋に行かれたり犯罪に手を染められたりでもしたら、いくら彼でも寝覚めが悪い。
吐き捨てるような比古の言葉に、の顔が一気に明るくなった。まるで、嵐の後の晴天のような晴れやかさだ。
「此処に居ても良いんですね? 先生のところで陶芸をやってて良いんですね? 嬉しい!」
さっきまでの涙が嘘のようにはしゃいだ声を上げるの様子に、ひょっとしてまた騙されたのか、と釈然としない気持ちになる比古だった。
春が来ましたが、主人公さんは何だかんだで残留決定です。上手くやったな、主人公さん(笑)。
師匠は「弟子は取らねぇ」と何度も言ってますけど、もう弟子だよなあ、これ………。あとは「絶対教えねぇ」という決意をどれだけ守れるかです。これが師匠の最後の砦ですよ。
女の涙に弱いなんて、最強師匠もただの男だねぇ………(苦笑)。