花見酒
花見をしたいとが言ったので、斎藤が桜の枝を買ってきて、彼の家の縁側でささやかに花見をすることになった。今夜は月も煌々と輝いていて、雰囲気は抜群である。「こんなのじゃなくて、公園で夜桜を見たかったんですけど………」
冷酒の入った硝子の器を両手で包み込むように持って、は一寸不満そうに唇を尖らせる。
が、斎藤はそんなの様子など気にも留めていないように冷酒を煽って、
「公園で花見なんて、騒々しいだけだ。特にお前みたいなのは、酔っ払いに絡まれるぞ」
「でもぉ………」
確かに公園で夜桜見物なんて、花見客でごった返しているだろうし、中には辺り憚らずに大声を出して騒ぐ酔っ払いもいるだろう。こんな風に二人で落ち着いて酒を傾けながら桜を見るなんてできないだろうが、それでも花瓶に差された桜ではいかにも寂しい。
こんな綺麗な月の夜には、満開の桜の下を斎藤と二人でそぞろ歩きたい。二人で並んで歩きながら、さり気なく手を繋いでみたり、髪に付いた桜の花びらを取ってもらって、それから―――――
想像しているうちに話が膨らんできて、の顔は次第ににやけてくる。去年の梅雨からずっと足踏み状態が続いているけれど、満開の夜桜の下なら次の一歩を進めることが出来るような気がしてきた。
が何を想像しているのかおおよその見当がついているから、斎藤は無言で小さく溜息をつく。
このところの妄想癖はすっかりなりを潜めていたから油断しきっていたが、やはり生まれ持った素質というものは変えられないらしい。一人で不機嫌になったりご機嫌になったり忙しいものだと、呆れながらも感心してしまう。ひょっとしたら、は妄想している時が一番幸せなのではないかと思うくらいだ。
「俺はああいう騒々しいところは好かん。花を見たいなら―――――」
そこまで言いかけたところで、カタンと小さな音がした。
見ると、盆の上に置かれた酒瓶が倒れていて、零れた酒を兎が音を立てて舐めている。どうやら、自分の分が無いと悟った兎が実力行使に出たらしい。
この兎は兎の癖に大変な酒好きで、斎藤たちが飲んでいると何とか自分もお相伴に預かろうと摺り寄ってくるのだ。以前は斎藤も面白がって飲ませていたのだが、に再三叱られて、最近ではねだられても飲ませないようにしていた。そこで兎も自力で自分の分を調達することにしたらしい。
「あー、駄目だよぉ。兎さんは飲んじゃ駄目」
も少し酔っているのか、いつもなら強い口調で叱るのに、今日は笑いながらそう言って酒瓶を起こし、酒と兎の間を遮るように掌を挟みこんだ。が、兎は折角の飲酒を邪魔されてなるものかと、鼻先での手を押しやって酒を舐め続ける。
今日の酒はの舌に合わせた甘口の酒だから、兎にとっても美味しいものらしい。舐めるだけでは足りなくなったのか、今度はずるずると音をたてて啜り始めた。
「ほらほら、駄目だってばぁ」
流石にこれはまずいと思ったか、は本気で止めにかかった。両手で兎を持ち上げようとするが、兎も四本の足を踏ん張ってそれを食い止める。そうしながらも酒を飲むのは止めないのだから、大したものである。人間だったら、斎藤以上の酒好きになったに違いない。
しかし、いくら大好きでも、兎が酒を飲むというのは良くない。は斎藤がいるのも忘れて、必死の形相で兎を持ち上げた。すると―――――
「痛いっっ!!」
が鋭い悲鳴を上げた。何と、邪魔された兎が腹を立てて、彼女の手に思いっきり噛み付いたのだ。
今まで、ふざけて甘咬みをすることは何度かあったが、血が出るほど噛み付いたのは初めてのことだ。元々人に噛み付くことが少ない兎なだけに、邪魔をされたことによほど腹を立てたらしい。
これにはよりも先に、斎藤の方が反応した。びっくりして固まってしまっている彼女を守るように押し退け、斎藤は兎の頭を拳骨で殴りつけた。
「何てことするんだ、お前は!」
ところが兎は殴られても怯えたり反省したりする様子は無く、それどころか腹を立てたように反抗的な目で睨みつける。そして、仕返しだとでも言うように、彼の手にも思いっきり噛み付いた。
「このっ………!!」
もう一度パンッと叩くと、斎藤は兎の耳を纏めてつかんで持ち上げた。
いつもならこれで大人しくなる兎だが、今夜は酒が入っているせいか相変わらず反抗的な目で睨みつけたまま、更に攻撃をしようとじたばた暴れる。
「いい加減にしないか! お前は酒乱か?!」
その言葉が終わるのを待たず、兎は斎藤の顔を前足でバリバリと引っ掻く。くぐもった声を上げて斎藤が顔を覆った刹那、兎は彼の手から脱出して、とどめのように後ろ足で腹を蹴り上げた。
「ぐぅっ………!!」
「きゃあっ?!」
苦しげな斎藤の声と、彼女の悲鳴が重なる。
そんな声も全く耳に入らないように、兎は皿や花瓶を蹴散らしながら、そこら中をぴょんぴょん跳ね回る。この兎は本当に酒乱らしい。
も斎藤も跳ね回る兎を捕まえようとするが、それを巧みにすり抜けて跳ね回るものだから、余計に辺りは悲惨な状態になっていく。それさえも兎には楽しいのか、二人を小馬鹿にするように跳ね続けた。
「兎さん、止めて!!」
「何がしたいんだ、お前はっ?!」
泣きそうな顔のと激怒する斎藤をよそに、兎は好き放題暴れ回ると、喉が渇いたのかまた酒瓶を倒して、今度は瓶の口に直接口をつけて飲み始める。それを止めようとすると、また噛み付いたり蹴りを入れたりするのだから、何十倍の大きさのある人間二人でも止めることが出来ない。
これまでは酒を飲んでも少しだけだったから酔っ払うことも無かったのだが、酔うととんでもない暴れ兎に豹変するらしい。酒の味を覚えさせたのは斎藤だが、こんなになるんだったら酒なんて飲ませなければ良かったと激しく後悔した。
折角の料理も桜もめちゃくちゃにされ、は唖然として固まってしまっている。本当なら、二人きりの桜を楽しんで、そのまま良い雰囲気に持ち込めるはずだったのに。
良い雰囲気に持ち込みたいと目論んでいたのは斎藤も同じで、それがこんな結果になってしまって、彼も酔っ払い兎を見つめたまま唖然としてしまうのだった。
―――――で、翌日。
昨夜暴れまくっていた兎は、今日は朝からぐったりとしている。どうやら飲みすぎて二日酔いになってしまったらしい。
斎藤は、自業自得だと弱った兎を完全無視しているが、日頃から可愛がっているは昨夜のことなど忘れてしまったかのように甲斐甲斐しく看病をしている。身体を擦ってやったり、人間にするように濡れ手拭いを頭に載せてやったり色々しているが、兎は一向に回復しないようだ。
「そんな奴のことは放っておけ。これでこいつも少しは懲りただろう」
甲斐甲斐しく世話をする彼女に、斎藤は不機嫌に言う。
この酒乱兎のせいで、昨日の夜は散々だったのだ。折角の桜も酒もの手料理も、場の雰囲気まで台無しにされて、しかも今日はこれである。朝からずっと彼女は兎に付きっ切りで、斎藤の方を見ようともしない。いくら相手が兎とはいえ、これでは斎藤も面白くはない。
平日もいつも一緒なのだから、休日の一日くらい兎にを貸してやっても構わないのではないかとも思うが、平日の一日と休日の一日とは違うのだ。貴重な休日の一日を兎なんかのために使うのは、やはり惜しい。
否、それ以上に、昨夜のことである。折角公園で桜を見たいと言う彼女を説き伏せて、自宅での二人きりの花見に持ち込めたというのに、たかだか兎のために台無しにされてしまうとは。ひょっとしたら良い雰囲気に持ち込めて、頬に口付けから少しは前進できたのかもしれないのに、勿体無いというか何というか。
昨夜のことを思い出してむかむかしながら煙草に火をつけると、が漸く彼を見て言った。
「お花見、また別の日にしましょうね。今度はお酒は無しで」
ふふっと笑うの顔は、何もかもお見通しのようで、斎藤はばつの悪そうな顔をして小さく唸ってしまうのだった。
兎さん、酒乱だったみたいです。つか、酒飲むなよ。普通だったら死ぬって(兎って本当はアルコール絶対駄目なんですよ)。
しかし酒の力を借りているとはいえ、斎藤を撃沈させてしまうとは………。兎さん、恐るべし! どんだけ強いんだよ、兎さん(笑)
斎藤がこれに懲りて、次の夜桜見物は兎さん抜きのデートにしてくれると良いですね。っていうか、連れて行ってあげて、斎藤………(涙)