普通じゃない!

 が働いている店の常連客で、酒造の女将さんが、今年の新酒を沢山持ってきてくれた。今年は米が豊作だったので、酒の出来も良いのだとか。店主夫婦だけでは飲みきれないということで、店員であるたちにも一本ずつ配られることになった。
 しかし、いくらが酒好きとはいっても、一人で一升も飲みきれるわけもない。そういうわけで、下戸の蒼紫にも振舞われることになったのだ。
「一度開封したら、早く飲んでしまわないと風味が損なわれるんですって。だから、沢山飲んでね」
 そう言いながら、は蒼紫の猪口に酒を注いだ。
「沢山って………前も言ったと思うが、俺は下戸だぞ?」
 酒を受けながら、蒼紫は困った顔をする。
 時々こうやっての晩酌に付き合うこともあるけれど、基本的に蒼紫は好んで酒は飲まない。一、二杯で身体が浮くような感覚になって、酔いの回りが早いのだろう。それ以上飲むと自分が変わってしまうような気がして、怖くて飲めないのだ。
 まだ蒼紫が“御頭”になりたての頃、ある武家屋敷での宴会を覗いたことがあるのだが、酔っ払いの醜態というのは凄まじいものがあった。踊りだしたり大声で放歌朗吟するのはご愛嬌だが、意味も無くいきなり脱ぎだしたり、呼んだ芸者に無理やり抱きついたり、果ては暴れだす者もいたりと、まだ子供の蒼紫には衝撃的な光景だったのだ。昼間はあんなに折り目正しい者たちがこんな醜態を晒すなど、なんて酒は怖い飲み物なのだろうと子供心に思ったものだ。
 本当は、酒の味自体は嫌いではない。むしろ好きなのだが、子供の頃のあの光景がどうも心に引っかかって、一寸酔ったなと思うとそこで止めてしまう。酔うとその人間の本性が出るというから、もし蒼紫の本性が戦いを求める修羅であったとしたら、に暴力を振るってしまうかもしれない。それが一番恐ろしかった。
 けれどは、蒼紫のそんな不安など全く気付いていない様子で、
「そう思い込んでるだけじゃないの? 蒼紫、一寸飲んだらすぐに止めちゃうから。
 あら、本当に美味しい。癖が無くて飲みやすいわ」
 きゅっと一気に飲んで、ははしゃいだ声を出した。良い酒は水に似ているというけれど、確かにこの酒は水のようにくせがない。それでいて後に口の中に風味が残って、これは本当に上等な酒だ。
「きっと自分で買おうと思っても高くて買えないお酒よ。だからじゃんじゃん飲んでね」
「うーん………」
 そうは言われても、じゃんじゃん飲めるわけがない。蒼紫は猪口の中をじっと見詰めたまま、困ったような唸り声を上げてしまった。
 その反応を見て、はくすっと小さく笑った。
「大丈夫よ。悪酔いして吐いても、ちゃんと介抱してあげるから」
 実はは、本当に酔った蒼紫の姿を見てみたいのだ。いつもピシッとして隙の無い蒼紫が酔ったらどんな醜態を晒してくれるのか、興味がある。笑い上戸だったり泣き上戸だったりしたら面白いし、助平オヤジに豹変しても面白い。それに、先々のことを考えれば、蒼紫の酒癖は知っておいた方が良い。
 蒼紫が猪口を空けるとは即座に酒を注いで、断る隙も与えずに飲ませ続けた。





 そうやってどれくらい飲ませ続けたか、蒼紫はくったりと俯いたまま動かなくなってしまった。どうやら飲ませすぎたらしい。
 もしかして座ったまま意識を失っているのだろうかと、はそっと蒼紫に近付くと、ぺちぺちと頬を叩いてみた。熱があるかのように頬が熱い。
「うー………」
 唸り声のような寝言のような微かな声を漏らすものの、蒼紫は顔を上げない。どうやら本格的に酔い潰してしまったようだ。
 酒癖を見ようと思っていたのに、酒癖が出る前に潰してしまうとは。そんなに大量に飲ませたつもりは無かったのだが、本当に下戸であったらしい。
「気持ち悪い? 外の風に当たる? それとも横になった方が良い?」
 一寸やりすぎたと反省して、は蒼紫の顔を覗き込むように尋ねる。が、蒼紫は何も応えない。
「ねえ………」
 蒼紫の頬に手を当てたまま、は更に顔を近づけた。と、その刹那、の身体は強い力で抱き締められる。
 あまりにも突然の出来事に、何が起こったのか理解できなくて、は頭の中が真っ白になる。その耳元で、くすくすと低い笑い声が聞こえた。
「捕まえた」
 嬉しそうな声と共に上げられた蒼紫の顔は、顔色は変わらぬものの、目が据わっていて完全に酔っ払っている。
 しまった、と思う間も無く、は横向きに蒼紫の膝に乗せられてしまった。逃げようとしても身体をしっかりと押さえ込まれていて、身動きも出来ない。が動けないことを良いことに、蒼紫は頬や額に口付けたり愛玩動物にするように身体を撫で回したり、やりたい放題だ。蒼紫はどうやら酔うと触り魔になるらしい。
 酔うとその人間の本性が出るというけれど、これが蒼紫の本性だったのかと、は撫でられながら蒼紫を見上げる。こうするのはに対してのみなのか、それとも手近にいる女なら誰でも良いのか判断に迷うところであるが。
「ねえ、こうするのって、私にだけ? それとも他の人でもするの?」
 そんなこと、答えは一つしかないはずなのに。こんな当たり前のことを訊いてしまうなんて自分も酔っているなと、は額に手を当てた。
 の言葉に、蒼紫は小さく笑って身体を撫でながら、耳元で優しく囁く。
「他の人って何? 俺にはしか女じゃない」
「…………っ?!」
 歯の浮くようなその台詞に、は真っ赤になって言葉を失ってしまった。蒼紫は時折、あまりにもまっすぐなことを言ってを紅くさせるけれど、こんな歯の浮くようなことを言われたのは初めてのことだ。やはりこれも酔っているせいだろうか。
 言葉が出なくて酸欠の金魚のように口をパクパクさせているに、蒼紫は可愛くて堪らないといった様子で頬擦りをした。こんなことをされるのも初めてのことで、ますますはどうして良いのか分からなくなってしまう。こんなことだったら酔わせなければ良かったと一寸後悔したが、こんなことをされるのは滅多に無いことで、一寸嬉しかったりして微妙な気持ちだ。
「あ……蒼紫、酔ってる? 一寸外の風に当たってみる?」
 歯の浮く台詞を言ってみたり、を撫でたり頬擦りしてみたり、それはそれで嬉しいけれど、あまりにも別人過ぎて一寸怖い。は様子を窺うように上目遣いでそっと言ってみた。
 が、の言葉など全く気にしない様子で、蒼紫は上機嫌のまま彼女の髪を解く。そして手櫛で髪を梳きながら、
「酔ってなんかいないさ。酔っているとしたら……の魅力に酔っているのかも」
「……………っっ?!」
 あまりにもクサ過ぎる台詞に、は悪酔いしたかのように頭痛がしてきた。本当に蒼紫の台詞に悪酔いしているのかもしれない。
 そんなとは正反対に、蒼紫は楽しそうに髪を一房掴んで口付ける。眉間に指先を当てて痛みを堪えるような顔をしているには全く気付いていないようだ。
 一体蒼紫の頭の中のどこをどうしたら、こんな歯の浮くような台詞が出てくるのだろう。通常の蒼紫の喋りを思い出してみるが、直球なことを言うことはあっても、こんなクサいことを言われたことはないと思う。もしかして今までは言わなかっただけで、いつもこんなクサい言い回しを考えたりしていたのだろうか。それで、酔っ払って理性の箍が外れて、ペラペラとこんなことを言っているのかもしれない。
 いつも真面目な顔をしているくせに、実はこんなクサい台詞を考えていたなんて、想像してみると可笑しい。難しい顔をして本を読んでいる時も、何も考えていないように縁側でボーっとしている時も、こんなクサい台詞を一人で考えていたりしたのだろうか。ああ見えて蒼紫は意外と夢見がちな性格なのかもしれない。
「何を考えている?」
 物思いに耽っているのに気付いて、蒼紫が怪訝そうにの顔を覗き込んだ。
「別にぃ………」
 本当のことは言えなくて、はくすくす笑いながら惚けてみせる。
 そんなの顎を指先で軽く持ち上げ、蒼紫は自分に視線を合わせさせて、
「俺と一緒にいる時は、俺だけを見て。俺のことだけを考えて」
 熱っぽく囁きながら、蒼紫はに唇を重ねた。一寸酒臭いと思ったけれど、自身も飲んでいるせいか、あまり気にならない。けれど、蒼紫の身体の匂いと酒の匂いで酔ってしまいそうだ。
 いつもより温かな唇が離れて、は小さく溜息を漏らした。触れるだけの口付けだったのに、うっとりとするような不思議な気分になる。これも酒のせいだろうか。
「私、蒼紫のことしか考えてないよ? 蒼紫のことしか見えないもの」
 そう言いながら、やっぱり酔ってるみたいだとは心の中で自嘲した。そんなに飲んでいないつもりだったけれど、蒼紫の酔いがうつってしまったらしい。それとも蒼紫の言葉じゃないけれど、蒼紫に酔ってしまったのだろうか。
 そんなことを考えてしまう自分も可笑しくて、は小さく笑った。





 軽い吐き気で、蒼紫は目を醒ました。吐くほどではないが胸がむかむかして、頭痛もする。昨日はどうやら飲み過ぎたようだ。
 に強引に酒を勧められたところまでは憶えている。飲み干すとすかさず注がれるものだから断るきっかけを失って、ついつい杯を重ねて―――――それから先が記憶が飛んでしまっている。どんなに記憶の糸を手繰り寄せてみても、そこまでで記憶の糸が切れてしまっているのだ。
 あれから自分は何をしたのだろうか。身体が痛いとか身に覚えの無い痣があるとかは無いようなので、暴れたりはしていないようだ。喉も痛くないし、大声を張り上げたということも無さそうで、それは安心した。
 けれど着衣には乱れがあって、全く憶えていないけれど、昨夜はと男女のことをしたのだろう。まさかとは思うが、酔っ払って無理矢理やったというわけではないと信じたいが………。
「あら。おはようございます」
 昨日のことを思い出そうと必死になって頭を抱えている蒼紫に、厨房から出てきたが暢気な声で声を掛けた。
 顔を上げると、はいつものようににこにこしていて、怒っている様子は全く無い。とりあえず無理矢理何かをしたということは無いようだ。
「お……おはよう………」
 一応挨拶をしてみるが、やっぱり昨日のことは思い出せなくて、何となく気まずい。こんなことをしておいて何も憶えていないとは言いにくいが、でも訊かずにはいられない。
「き…昨日のことなんだが………」
「ああ………」
 の顔がぱっと桜色に染まる。やっぱり昨日はとんでもないことをしてしまっていたらしい。
 もしかして酔った勢いに任せて、とんでもないことをにさせたのだろうか。思いつく限りの“とんでもないこと”をさせられているの姿を想像して、蒼紫も顔を真っ赤にした。やってしまったことは仕方が無いし、も怒ってないようだから助かったが、全く憶えていないのは悔やまれる。
「昨日は何をやらかしたんだろうか。昨日のことは全く憶えてないんだ」
「………何も憶えていないの?」
 顔を紅くして不安げに尋ねる蒼紫の言葉に、は呆れた声を出した。確かにあんなに酔っ払っていたのだから、多少は記憶が飛んでいるところがあるかもしれないとは思っていたが、全く憶えていないとは。
 まあ、あんな恥ずかしい台詞を連発していたのだから、憶えていなくて幸運だったのかもしれない。あれを全部憶えていたら、顔を紅くするどころではなかっただろう。
 蒼紫が言ったクサい台詞は、一字一句違わず憶えている。これを全部言ってやったら面白いと思ったが、流石にそれは可哀想な気がしてやめた。けれど、このまま惚けるのも勿体無いような気がする。
 は含むように笑うと、ゆっくりと蒼紫に近付いた。そして、蒼紫の横に座ると、耳元に唇を寄せて艶っぽい声で囁く。
「昨日は最高だったわ」
「えっ?! なっ、何がっ……?! えぇっ?!」
 ますます顔を紅くして、蒼紫はあからさまにうろたえる。こんな蒼紫を見るなんて滅多に無いことで、は楽しげにくすくすと笑うと、あわあわしている蒼紫を放置して厨房に戻っていくのだった。
<あとがき>
 Web拍手にて、「普段は真面目な(?)蒼紫or斎藤が、人が変わって(頭を打つか酔った勢いで)軟派な台詞を言って、それに困惑する主人公さんを見てみたい」というご意見をいただいて、とりあえず蒼紫編。“とりあえず”ってことは、斎藤編もあるということですね。
 10月分のWeb拍手小説で、酔うと触り魔になる蒼紫という設定を使ったんで、そのまま流用しました。触り魔でクサい言葉を吐く蒼紫………怖っ! しかも頬擦りとかしてるし。髭が痛くないのかなあ……。
 ちなみにクサい台詞は、韓国ドラマのガイド本にあった台詞などを参考にさせていただきました(何故か職場にあったのよ)。韓国人、本当にこんなこと言ってるのか?
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