雪の華
このところの大寒波のせいで、の診療所に担ぎこまれる患者の数が急激に増えた。往診先も増えて、助手の縁も薬箱を片手に彼女の後ろに付いて大忙しだ。診療所や往診先では流感を診ているのだが、定期的に回る落人村では凍傷の治療をすることもある。今年は特に寒さが厳しいと聞くから、掘っ立て小屋でも家がある者は兎も角、野宿生活している者の中には凍死者が出るかもしれないと、は溜息混じりに言っていた。
「今年はどれだけ死人を出さずに済むかね………」
どんよりと重く曇った空を見上げて、は手袋をした手に白い息を吐きかけながら独り言のように呟く。
落人村の人間たちを無料で診療していた父親に付いていたは、毎年何人もの凍死者を見てきた。その中には、此処にいなければ死なずに済んだかもしれなかった者もいた。年の割に多くの遺体を見てきた彼女の言葉は、独り言のような呟きでさえも重い。
縁も多くの死体を見てきたが、それは彼自身が作り出した死体だ。同じ死体を見つめてきた人間でも、縁の感じ方との感じ方は決定的に違う。だから縁は、彼女の呟きには何も答えない。
いつもは明るくて豪放磊落とも見えるであるが、時々ふとこういう寂しげな顔を見せる時がある。そういう時の顔も生前の巴にひどく似ていて、そんな表情を見ていると縁の気持ちも沈んでしまう。
無言で見下ろす縁の視線に気付いて、は取り繕うように慌てて笑顔を作った。
「大丈夫よ。今年は救世軍の炊き出しも去年より増やすって聞いてるし、家が無い人のための収容所も新しく作られるんだって。だから今年は大丈夫よ」
どうやらは、縁の表情が沈んでいるのを、自分と同じように落人群の住人を心配しているせいだと勘違いしているらしい。何故だか彼女は、縁のことを善意の塊のような人間だと信じているようなのだ。世間の荒波に揉まれている割には人を見る目が無いと、そういう勘違いをされるたびに縁は思う。
けれどその手の勘違いは縁にとっては好都合なので、否定も肯定もせずに沈黙を続ける。沈黙をしていれば、少なくとも嘘をつくことにはならない。
「………あ」
ふと、彼女が空に目を向けた。
ふわりと白い綿のようなものが縁の目の前にも舞い降りる。それが今年最初の雪だと気付いたのは、地面に落ちて溶けようとした時だった。
「道理で寒イと思った………」
縁も空を見上げて、小さく呟く。
京都は夏の暑さも厳しいが、冬の寒さも厳しいらしい。きっとこれから雪が降る日が続いて、このあたりは真っ白になるだろう。美しく雪化粧が施されたこの町を、と二人で歩きたいと思う。
巴は雪が似合う女だった。そして、雪が好きな女だった。巴に似たもきっと、雪が好きに違いない。
が、は喜ぶどころか、眉間に皺を寄せて小さく舌打ちをする。
「うわー、雪降るなんて最悪」
「え………?」
予想外の反応に唖然とする縁の方を見て、は心底嫌そうに言葉を続ける。
「あの家、ただでさえ隙間風が入るのに、これ以上寒くなられたらたまらないわ。台所なんて入れないじゃない」
お前がいつ台所に入るんだ、と縁は心の中で突っ込む。彼がこの家に来て以降、が台所に足を踏み入れたところを見たことが無い。彼女はいつも火鉢のある茶の間から動かずに、茶一つ飲むにも縁を使っているのだ。
と巴は違う人間だということは、縁も重々承知している。これまでのの様子を観察しても、二人はあまりにも違いすぎる。二人を重ねるのは止めようといつも思っているのだが、それでも顔が似ているとどうしても二人を重ねてしまって、が期待通りの反応をしてくれないとがっかりしてしまうのだ。
そういう勝手な押し付けは、にははた迷惑なものだとは解っている。縁がいつもそんなことを思っていると知ったら、きっと激怒するだろう。はであって、巴ではないのだ。
気持ちを入れ替えて口を開こうとした縁を遮って、は思いついたように言った。
「台所用に、小さい火鉢を買いましょう。そんなに温まらないかもしれないけど、少しはマシでしょ?」
「火鉢?」
「だって縁、いつも寒そうだもの。雪が降るようになったら凍えちゃうわ。雪が降るのは綺麗だけど、その分冷えるからねぇ」
「ああ………」
の言葉で、漸く縁は自分のことを話題にされていることに気付いた。雪が降るのが嫌なのは縁が寒い思いをするからで、彼女も本当は雪が好きなのだ。
巴と彼女の相違点ばかりに目をやって、それに対していちいち落胆したり時に苛立ちを覚えていた自分を、縁は恥じた。顔は少し似ているが、そもそもと巴は違う人間なのだ。違うところがあって当たり前で、何もかもが同じだったら、それはそれで不気味ではないか。
巴と似ているところは勿論、巴と違うところも含めて、縁はに好感を持っている。だから上海にいた頃には考えられなかった生活でも、出て行かずに一緒に住んでいるのだ。彼女が相手でなければ、きっと愛想をつかしてあの家を飛び出している。
誰が好き好んで、あんな大食いで大酒飲みで、がさつで家事が出来ないどころか縁の手間を増やすしか能のない生活能力皆無女と住みたいものか。それでも今日まで文句一つ言わずにの世話をしてきたのは、彼女の喜ぶ顔を見るのが嬉しかったからだ。相手の喜ぶ顔を見るのが嬉しいのは、今まで巴以外には無かったことだ。
相手の嬉しい顔を見て自分も嬉しいという気持ちが“好き”ということなのだろうか、と縁はふと思った。そして自分の思いつきに愕然とする。
自分が好きになる女は巴のような女だと思っていたのに、こんな巴とは正反対の気性の女を好きになっているかもしれないとは。こんな女を好きになってうっかり結婚でもしようものなら、縁が苦労するのは目に見えている。彼は自分の考えを否定するように、慌てて小さく首を振った。
「どうしたの? 頭に雪積もった?」
縁の思いなど全く気付かないは、可笑しそうにくすくす笑う。そして彼の頭に手を伸ばして雪を払ってやりながら、
「今度の休診日に帽子を買いに行こうか。縁、髪が短いから頭寒いよね。ついでに襟巻きも買おう」
「アリガトウ」
大食いで大酒飲みで、がさつで家事が出来ないどころか縁の手間を増やすしか能のない生活能力皆無女だが、こういう優しいところは巴と同じだ。そして、巴とは違っていつも楽しそうに笑っているところに、きっと彼は惹かれつつあるのだろう。
一通り頭を払ってやると、は自分の手を温めるように両手を口許に当てる。その仕草は巴にとても似ていて、縁はどきりとした。こういう何気無い仕草が、時々巴によく似ている。
「来年の―――――」
両手を口許に当てたまま、は空を見上げる。
「来年の初雪は、家の中で見たいね。外で見るのはやっぱり寒いわ」
来年も一緒にいることを微塵も疑っていないように、彼女は言う。
ただの家主と居候で、一応一緒に働いてはいるが雇用関係を結んでいるわけではない、いつ解消しても互いに文句も言えない関係であるにもかかわらず、は縁がいつまでも一緒にいると信じている。確かに今の彼には行くところなど無いからそう思うのは当然なのかもしれないが、そう思ってくれているのは縁も嬉しい。彼もまた、来年も一緒に雪を見たいと思っているのだ。
来年の今頃はどうなっているのか判らないが、こうやって二人で並んで初雪を見るのは間違いないだろう。その時のことを想像すると、縁は何となく嬉しい。この気持ちは恋ではないと思うけれど、ずっとと時を重ねていけたら良いと思う。
「そうダな………」
ゆっくりと落ちてくる綿のような雪を見上げて、縁は静かに応えた。
主人公さんへの気持ちを本格的に意識し始めた最初のドリーム………かな? それでも「こいつを好きになったら身の破滅だ」と思っているようですが。うん、このヒロインさんとくっ付いたら、お世話係り決定だもんね(笑)。
でも、お世話係な一生を危惧しつつも、来年もこうやって初雪を見るのは決定なんですよ。この気持ちは恋じゃないなんて言いつつ、しっかり恋してますよ、この男は(笑)。来年の初雪は、ラブラブモードで見られると良いですね。