誤解

「あら、今日もあの人のところに行くの?」
 買い物籠一杯に食材を入れて歩いているを見つけて、恵は声を掛けた。
 が仕事帰りに斎藤の家に寄って夕飯を作っていることは、恵も知っている。が、今日は確か彼女も斎藤も非番のはずだ。休みの日まで、斎藤はに食事を作らせているのだろうか。いくら付き合っているとはいえ、図々しいにもほどがある。
 内心腹立たしく思う恵に対し、は嬉しそうに、
「うぅん。今日はね、うちで御飯を食べるんだよ」
「へー……。そうなんだぁ………」
 遂にの家にまで上がりこむようになったのかと残念に思う反面、幸せそうな彼女の顔を見ていると、恵は何も言えなくなってしまう。が尽くすほどの価値が斎藤にあるとはとても思えないのだが、男女の仲というのは当人たちにしか分からないのだから、彼女にとってはそれだけの価値がある男なのかもしれない。
 そういえばが風邪を引いて倒れた時は、日頃の斎藤からは想像できないほど優しく彼女を看病していた。恵の知っている斎藤と、が知っている斎藤は、きっと全くの別物なのだろう。そうでなければ、恵も納得がいかない。
 と斎藤が付き合っていることに恵はまだ納得がいっていないところがあるが、彼女は幸せ一杯といった感じで、買い物籠の中身を見ながら嬉しそうに説明する。
「今日はね、茸汁と焼き魚なの。斎藤さん、お魚が好きだから」
「ふーん………」
 斎藤の好物など知りたくもないが、と話していると恵の中でどうでもいい斎藤情報が不本意ながら更新されてしまう。
 と斎藤が付き合っているのは、親友の恵としては甚だ不本意なことなのだが、肝心の彼女が幸せそうに笑っているのだから、何も言えない。確かに斎藤も、にだけは優しく接していることだし。
 しかし、と斎藤の関係がこのまま進展していって、可愛い兎ちゃんが狼の毒牙にかかるようなことになっては大変だ。の性格からいって、斎藤に迫られたら嫌とは言えないだろう。ここは親友である恵が、しっかりと釘を刺しておかなくては。
「二人の家を行き来するのは良いけど、絶対に最後の一線を許しちゃ駄目よ。あの人が何を言っても、絶対駄目って断るのよ」
 目をじっと見て真剣に言う恵に、は不思議そうに首を傾げる。
「そんなこと、一回も言われたこと無いよ? いつも一緒に御飯を食べるだけだし」
 恵には言っていないことだが、と斎藤は頬に口付けから一歩も進んでいないのだ。それ以上のことを斎藤が仕掛けてくる気配も無いし、どうして恵がこんなに警戒しているのかには理解できない。
 が、そんな事情を知らない恵は、斎藤が何も仕掛けてこないのも作戦のうちだと解釈する。が安心しきったところを一気に戴く算段をしているに違いないと思う。
「それでもいつも毅然としてなきゃ駄目よ。いい」
「わかってるよぉ。もう、恵ちゃんったら心配性なんだから」
 恵の心配をよそに、は可笑しそうにころころと笑う。恵が心配しているようなことなど起こるわけが無いし、もし起こったとしても、にとっては望むところなのだ。
 一頻り笑った後、ははっとしたように、
「あっ、そろそろ帰らないと。じゃ、恵ちゃん、またね」
 ぱたぱたと手を振りながら、は跳ねるような足取りで帰っていった。
 その楽しそうな後ろ姿を見ていると、自分の心配は杞憂なのだろうかと恵は少しだけ思う。が斎藤の話をする時はとても楽しそうだし、毎日御飯を作ってやるのも全く苦にはなっていないようで、外野には判らないけれど斎藤と付き合うのはにとってはとても幸せなことなのかもしれない。恵としては、一寸信じられないことなのだが。
 しかしいくら恵が信じられないと思っていても、現にがあんなにも楽しそうならば、いくら親友でも口を挟めることではないのだ。まだ不安は残るけれど、黙って見守るというのも親友の思いやりというものだろう。
 そうやって自分を納得させたところで、恵は地面に白いものが落ちているのを見つけた。
「あら?」
 拾い上げると、それは兎の匂い袋だった。以前、が男の同僚から兎の匂い袋を土産で貰った時、斎藤が対抗するように違う匂いのものを買ってくれたのだと、彼女が話していたものだ。もう香りは薄くなってしまっているが、それでも肌身離さず持っているらしい。
 斎藤に買ってもらったものなら、失くしたとなったらも悲しむだろう。夕飯の買い物の後にでも、様子見も兼ねて彼女の家に届けてやろうと恵は思った。


 家に上がった瞬間、は買い物籠を下げたまま唖然と立ち尽くしてしまった。
 部屋では朝から遊びに来ていた斎藤が本を読んでいるのだが、問題はその後ろ。兎が荷造り用の紐で柱に括りつけられていたのだ。しかも犬のように括り付けられているのではなく、尻餅をついたような状態で背中を柱に当てた、人間と同じ縛り方である。
「斎藤さんっ、どうしたんですかっっ?!」
 無理な体勢で苦しそうにしている兎を見て、は悲鳴のような声を上げた。
 が、斎藤は本から目を離して平然と、
「柱を齧った罰だ。まったく、他人の家の柱まで齧るとは………。引っ越しの時に大家に何か言われるかもしれないから、何か言われたら俺に言ってくれ」
 最後の方は一寸申し訳無さそうな様子だ。この兎はが面倒が見ているとはいえ斎藤の兎なのだから、飼い主の責任を感じているのだろう。
 最近、兎の歯が伸びてきているらしく、柱だの箪笥だのをやたらと齧りたがるのだ。与える餌を葉物から堅い根菜類に変えたり工夫はしているのだが、それでも追いつかないらしい。も斎藤も、家具や柱を齧ろうとする度にきつく叱っているのだが、叱られても叱られても兎にはどうにも我慢が出来ないようだ。
 とはいえ、兎に悪気があるわけではないし、齧った跡を見てみても、少し歯形が付いているくらいで、ぱっと見た目には判らない。きっと、歯を立てたところで斎藤が引き離したのだろう。
「大丈夫ですよ、これくらいなら。それより、これじゃあ兎さんが可哀想ですよ。もう十分反省しているみたいだから、解きますよ」
 耳をへたらせて目を潤ませている兎にが手を伸ばそうとした時、斎藤がぴしゃりと厳しい口調で言った。
「何度言っても言うことをきかないんだから、今日は帰るまでこのままだ。これくらいしないと懲りないからな、こいつは」
「でもぉ………」
 悲しそうな目をして、は兎をちらりと見る。
 悪いことをしたら罰を受けるのは当然だけれど、兎はとても苦しそうだ。どれくらい縛られていたのかは判らないが、ぐったりするくらい縛られ続けていたのだから、もう懲りたと思う。
 今にも紐を解きそうなに、斎藤は念を押すように言う。
「俺の兎だ。俺のやり方で躾ける。もし解いたら、お前も一緒に縛り付けるからな」
 斎藤の一方的な宣言に、は反論しようと口を開きかけたが、それを制するように音を立てて本を閉じられると、言葉を飲み込んでしまった。怒鳴りこそはしないけれど、彼が本気で怒っているのが判ったからだ。こういう時は何を言っても聞き入れてくれないことは、も経験上よく解っている。
 斎藤は乱暴に本を畳に投げ出すと、袂に手を突っ込んで探るようにごそごそ動かす。煙草を吸うつもりなのだろうが、どうやら切らしていたらしく、手を抜くと忌々しげに舌打ちをした。
「一寸煙草を買ってくる」
「………いってらっしゃ〜い」
 不機嫌なまま出て行く斎藤を遠慮がちに見送って、は兎の前にぺたんと座った。
 兎は相変わらずぐったりとしていて、悲しそうに項垂れている。縛られた時に少し暴れたのか、紐に当たっている部分の毛が擦り切れたように毛羽立っていた。
「斎藤さんが帰ってくるまで、解いちゃおうか。一寸の間だったら、分かんないよね」
 誰もいないのに小声で呟くと、それまでへたっていた兎の耳がぴくっと動いた。悪いことをして何度叱っても言うことを聞かないくせに、人間の言葉は判っているらしい。
 縛っている紐を手早く解いてやると、兎は開放感を味わうようにぶるぶると体を揺すって、大きく全身を伸ばした。擦れて毛羽立った所を舐めて毛繕いをしたり、さっきまでぐったりしていた割には、そう弱ってはいなかったようだ。
 せっせと毛繕いする兎の頭を撫でながら、は優しく諭すように、
「もうこれからは家のものを齧っちゃ駄目だよ」
「………出て行って三分もせんうちにそうくるか」
 背後から地を這うような斎藤の低い声がして、も兎もびくっと固まってしまった。恐る恐る振り返ると、玄関には腕を組んで仁王立ちしている斎藤の姿が―――――
「あっ……あのっ、兎さんがあんまり苦しそうだったから………」
 笑って誤魔化そうとするが、気まずさで引き攣り笑いになってしまう。兎はというと、それまで開放感たっぷりだったのが、再び耳をへたらせての後ろで小さくなっている。
 大きな兎と小さな兎が寄り添って怯えているような姿に、斎藤は思わず噴き出しそうになってしまったが、ここで笑ってしまっては示しがつかない。
 笑いを誤魔化すために、見せ付けるように大袈裟な溜息をつくと、斎藤はゆっくりと部屋に上がって解かれた紐を拾い上げた。そして紐を弄びながら、嗜虐的な笑みを浮かべて、
「解いたらどうなるか、言ってたよな?」
「……………っっ!!」
 てっきり冗談だと思っていたのに、斎藤が本気で縛る気でいることが判って、も兎も声も出せずに固まってしまう。が、斎藤が一歩踏み出した瞬間、弾かれたようにそれぞれ別方向に逃げ出した。
「こら、待てっ!」
 斎藤は迷わずを追いかけると、捕縛する時のようにうつ伏せに押し倒す。そしてじたばたと暴れる彼女の両手首を後ろ手に纏めると、実に楽しそうに、
「さあ、大人しくお縄を頂戴しろ」
 笑いを堪えるような声音といい、斎藤らしからぬ芝居がかった物言いといい、どうやら彼はこの状況を楽しんでいるらしい。本気で怒っているからではなく、遊びの一環で縛ろうとしているようだ。
 乱暴な遊びだと思わないでもないが、押し倒された時も痛くないように倒されたし、一寸変わったじゃれ合いみたいなものなのだろう。傍から見たら馬鹿っぽいだろうけど、斎藤とじゃれ合えるなんて、また一歩前進したようで、は嬉しくなる。
 大人しく縛られるよりも、軽く抵抗した方が盛り上がるかな、とは子供みたいな悲鳴を上げながら、脚をぱたぱたさせる。そうすると斎藤の気分も益々盛り上がってくるようで、彼女の上に乗って、楽しげに軽く縛り始めた。
「きゃ〜! ごめんなさい〜!」
「ごめんで済むなら、警察はいらんだろうが」
「きゃぁああああっっ?!」
 いい感じに盛り上がってきたところで、女の悲鳴で中断されてしまった。見ると、玄関で恵が真っ青な顔をして立ち尽くしている。
 斎藤が玄関を開けっ放しにしていたから、いつ入ってきたのか全く気付かなかった。思いっきり馬鹿っぽいところを見られて、斎藤ももそのまま固まっていると、驚きで蒼白だった恵の顔が見る見る怒りで赤くなって、足を踏み鳴らしながら部屋に上がってきた。
「ご…誤解してるようだが、これは違うぞっ」
 とじゃれているところをよりにもよって恵に見られ、斎藤は目は泳ぐわ、声は上擦るわで大変なことになっている。何がどう違うのかと突っ込まれたら困るのだが、とにかく誤解であることを伝えるので必死だ。
 が、恵には斎藤が何と言おうと、を虐待しようとしているとしか見えない。虐待ならまだしも、体の自由を奪って手籠めにしようとしていたとさえ考えられるのだ。いや、そこまで酷くはなくても、女を縛って楽しむ趣味を持っているのかもしれない。
 が幸せそうだから黙って見ていたけれど、陰でこんな虐待をしていたなんて許せない。虐待でなくて趣味の問題だったとしても、そんな変態的な趣味に純真なを付き合わせるなんて許せない。恵は怒りで全身を震わせながら、持っていた巾着袋を大きく振りかぶった。
「落し物を届けに来たら、こんなことしてるなんて!! 信じられないっっ!! このケダモノっ! 変態っっ!!」
「まっ……待て! 俺の話を聞けっっ!!」
「言い訳なんか聞けるかっ!! 出て行きなさいっっ!! 今すぐ出て行けーっっ!!」
 何とか話し合いに持ち込もうとする斎藤の言葉になど聞く耳を持たず、恵は巾着袋でバシバシ叩きながら彼とを引き離す。そして渾身の力を込めて斎藤を玄関の方に突き飛ばして、
「二度とこの子に近づかないで! また何か変なことをしようとしたら、剣さんに言いつけるからねっ!!」
 巾着袋で叩くだけでは飽き足らなくなったのか、今度は手当たり次第に縮緬細工の兎の置物だの何だのを投げ始めた。壊れ物を投げないのはまだ理性が残っている証拠なのだろうが、それでも斎藤の話を聞く余裕は無いようだ。
 もの凄い剣幕の恵に圧倒されて、はおろおろするだけで何も言えない。兎にいたっては部屋の隅っこで小さくなって、ぶるぶる震えているくらいだ。
 この分では、何を言ったところで火に油を注ぐだけだろう。後でから恵に事情説明をするだろうし、落ち着いてから斎藤が説明してもいい。
「あー、分かった、分かった。出て行けば良いんだろう。まったく」
 捨て台詞にしては些か情けない気がしないでもないが、斎藤は憤然として出て行った。
 ぴしゃりと乱暴に玄関が閉められたところで、漸く恵も落ち着いたのか、大きく息を吐いた。そしてそれまでの般若のような形相とは打って変わって、いつものにこやかな顔でを振り返って、
「もう大丈夫よ。怖かったでしょう?」
「や、怖いっていうか………」
 恵の方が怖かったとは流石に言えず、は口籠もってしまう。確かにあの状況は誤解されても仕方の無いものだったし、恵が自分のためにあんなにも怒ってくれるのは嬉しかったけれど、これからのことを考えると頭が痛い。
 これからどうやって恵の誤解を解こうかと、は途方に暮れてしまうのだった。


 その後、神谷道場周辺では、「どうやら斎藤には緊縛趣味があるらしい」という噂が流れたとか、流れなかったとか………。
<あとがき>
 バカップルも度を過ぎると大騒動という例です。しかし、随分と乱暴なじゃれあいだな………。ま、主人公さんが楽しいならそれで良いですけどね。
 斎藤、見かけがアレですから、縛ってる現場を見られちゃった日には、何を言っても誤解は解けないだろうなあ。恵さんが神谷道場で報告しても、「あー、やっぱりねぇ………」って納得されそう(笑)。で、斎藤が何か偉そうなことを言っても、「でも緊縛趣味………」と心の中で突っ込まれるんですよ。
 兎部下さんと付き合って以来、斎藤は災難続きですね。まさか兎部下さん、可愛い顔してさげまん………?
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