彼の浮気

 壁に掛けてある蒼紫の着物を取ると、袂から綺麗な色をした紙切れがはらりと落ちた。
「?」
 怪訝な顔をしてその紙を拾い上げると、は向きを変えながらしみじみと見詰める。少し厚手の藤色をした紙からは、香を焚き染めているのか、花のような良い香りがした。蒼紫がこんなものを持っているなんて珍しい。
 ためすがめつ見ているうちに、女手と思われる文字が書かれていることに気付いた。流れるような美しい文字で、『扇屋  浮舟』と書かれている。“扇屋”というのは店の名前だろうが、“浮舟”というのがには意味が解らない。何かの暗号だろうかと一寸考えてみる。
 何だろうと首を傾げつつも、とりあえず着物を洗濯しようと、は紙を見詰めたまま廊下を歩いていく。と、勝手口のところで黒尉と鉢合わせた。
「あれ? ちゃん、珍しいもの持ってるじゃないか」
「え?」
 何を言われたのかと一瞬驚いたが、すぐに紙切れのことを言われたのだと気付いた。
「これ?」
 が紙切れを差し出すと、黒尉はそれを取り上げて面白そうな顔をして眺める。そしてにやりと笑って、
「へーぇ、『扇屋』なんて、高級な店に行ってるなあ」
「料亭なの?」
「ま、料理も出すだろうけどさ。島原でも一、二を争う美人揃いの店だよ。やっぱり高級店だけあって、名刺にも金かけてるなあ。こんなもの、何処で拾ったんだい?」
「島原………?」
 黒尉の呑気な声とは対照的に、の顔がさっと強張る。
 島原がどんなところか、だって知っている。あそこで男がやることなんて、一つしかない。蒼紫があんなところで遊んでいたなんて。
 男がそういうところで遊ぶのは、まあ仕方ないとも思う。しかし、蒼紫はの恋人なのだ。自分というものがありながら、他の女と床を共にするなどありえない。
 しかも、こんな名刺まで貰っているのだ。“浮舟”というのは蒼紫の馴染みの女に違いない。あんな真面目そうな顔をしていて、顔馴染みになるくらい廓に通っていたなんて、信じられない。
 “浮舟”というのは、一体どんな女なのだろう。『源氏物語』の浮舟のように、なよなよとした儚げな女なのだろうか。そういうのは、とは正反対の女だ。
 急に様子が変わったに、黒尉が心配そうに声を掛ける。
「どうしたんだい?」
「…………それ、蒼紫様の着物から出てきたの」
 硬い表情のまま、は感情の無い声で答える。あまりにも強すぎる怒りや驚きは感情を奪い去ってしまうものらしい、と言いながら他人事のように気付いた。
 の言葉に、黒尉は「しまった!」と言いたげな顔で口を覆ったが、もう遅い。はますます表情を失って、思い詰めた目で蒼紫の着物をじっと見詰めている。
 気まずい沈黙の中、今更ながらどうやって誤魔化そうかと黒尉が考えていると、突然ばふっと着物を押し付けられた。
「それ、お近さんかお増さんに洗ってもらって!」
 叩きつけるようにそう言うと、はどすどすと足を踏み鳴らしながら自分の部屋へ歩いて行った。





「―――――で、そのまますごすごと引っ込んできたの?」
 に押し付けられた着物を通りがかりのお近に渡した黒尉は、いきなり彼女のお説教を食らってしまった。
「まったく、適当に誤魔化しておけばいいのに、どうしてそう何でもかんでも喋っちゃうのよ。男の癖にお喋りなんだから」
「そんなこと言われても………」
 呆れ返るお近に、黒尉はふてくされたように応える。
 黒尉だって、まさか蒼紫が廓遊びをしていたとは思わなかったのだ。大方、使用人の誰かが貰ってきたものをが拾ったのだろうと軽口を叩いたのに、まさかこんな展開が待っていようとは。
 しかし蒼紫も蒼紫である。男なのだから廓遊びくらいしても誰に咎められるわけでもないのだが、遊ぶならもう少し上手くやれと言いたい。よりにもよってにバレるなんて最悪だ。
 世の中には、素人女を相手にしているわけではなし、と遊びを大目に見てくれる女もいるが、少なくともはそういう女ではない。ああいうことには小娘のように潔癖な性格だから、きっと今頃自分の部屋で静かに怒りを溜めていることだろう。日頃怒らない女が怒るのは、恐い。
 この後のことを考えると胃が痛くなってきて溜息をつきたい思いの黒尉だったが、それより先にお近が困ったように溜息をついた。
「ああ、もう………。どうするのよ、これから」
「何がどうするんだ?」
 お近の後ろから、問題の人物が声を掛けてきた。
「蒼紫様?!」
 どうやら蒼紫は本屋に行っていたらしい。四角く膨らんだ紙袋を脇に抱えている。
 蒼紫が呑気に本屋で本を物色している間に、家では大変なことになっていたというのに。問題が起きても、その中心人物は案外呑気なものである。しかも気に入った本が見付かったのか、微妙に上機嫌なものだから、何処からどう説明したものかと黒尉とお近は顔を見合わせる。
 そうすると、蒼紫はますます怪訝な顔をした。いつもなら二人がこんな顔をしたところで、何も言わないようだったらさっさと自分の部屋に引っ込むというのに、今日は随分と機嫌が良いらしい。周りの様子を気にするなど、彼には珍しいことだ。
「何かまずいことでもあったのか?」
「まずいことも何も………」
 頭痛でもするように顔の半分を手で覆って溜息混じりに言うお近の言葉に続けて、黒尉が例の名刺を差し出した。
「これですよ。ちゃん、怒ってましたよ」
 名刺を見せられて不審な顔をした蒼紫だったが、それが何か気付いた刹那、一気に顔を赤くする。
「なっ……そっ、それはっっ………?!」
 日頃の彼からは想像できないほどの狼狽振りだ。そんなに慌てるくらいなら、見付からないところに隠しておけ、とお近と黒尉は心の中で突っ込む。
 まったくこの男ときたら、仕事では抜かりが無いくせに、こういう人生における大事な場面では大失態を演じてくれるのだから、周りが大迷惑なのだ。多少の女の気配は周りで何とか誤魔化せるが、こんな物的証拠を残してくれたらどうしようもないではないか。
 しかも名刺一枚でこの慌てようである。江戸城開城の時でさえ眉一つ動かさなかった男のくせに、こんな紙切れ一枚で天地がひっくり返りでもしたかのように騒ぐなと言いたい。それ以前に、そんなにも騒ぐくらいなら、最初から廓遊びなどするなと声を大にして言いたい。勿論そんなことはお近も黒尉も言えないけれど。
 いつになく突っ込みどころ満載の蒼紫に、黒尉が呆れ顔で言う。
「とりあえず、ちゃんに謝っておいたほうが良いですよ。もの凄く怒ってましたから」
「あれはっ……あれは付き合いでっ………別に俺はっっ!!」
「そんなところまで付き合わなくても良いでしょう。付き合いって言えば何でも許されると思ってるんだから! あー、ヤダヤダ、男って」
「………………………」
 一気に早口で言い切るお近の突っ込みに、蒼紫は反論の言葉も無い。
 確かに、付き合いなら酒の席だけでも十分なのだ。町内の若旦那集の会合といったところで仕事に関する話をするわけではなく、一次会に顔を出していればとりあえず面目は立つ。実際、蒼紫はこれまで一次会の料亭だけで帰宅していた。
 しかしあの夜は一寸魔が差したというか、話を聞いているうちに興味を引かれてつい行ってしまったのだ。一回くらいならバレないだろうという甘い考えもあったし、島原で一、二を争う高級店に対する好奇心もあった。軽い気持ちだったのに、よりにもよってにバレてしまうとは。慣れないことをするものではない。
 軽い好奇心だったのに大きな代償を払わされそうだと、蒼紫は今から胃が痛くなった。




 とにかく謝り倒せという黒尉の助言に従っての部屋に行った蒼紫だったが、部屋には誰もいなかった。てっきり部屋の中で怒りを溜めていると思っていたのに、何処かへ出かけてしまったらしい。
 まあ、外をブラブラしているうちに怒りが収まってくれればありがたい。これまでだって、いくら怒っても、外をブラブラして買い物の一つもしてくれば機嫌を直していたではないか。今回もきっと、可愛い小物だか化粧品だかを買ってご機嫌で帰ってくるに違いない。もし不機嫌なままで帰ってきたら、蒼紫が一緒に買い物に行って何か買ってやっても良い。
「他人の部屋で何やってるんですか?」
 祈るような気持ちで突っ立っていると、後ろからの声がした。今まで聞いたことの無い他人行儀で冷ややかな声だ。まだ機嫌は直っていないらしい。
 振り返ると、凍りついたような無表情のが立っていた。いつもなら蒼紫を見る時は可笑しくもないのに目が笑っているのに、今日ばかりは冷ややかな軽蔑の眼差しだ。
 その視線があまりにも痛くて、蒼紫も硬直したまま声も出ない。何か言って機嫌を取らなくてはと思うのだが、気ばかりが焦って気の利いた言葉など思い浮かばない。
 あまりにも痛い状況に蒼紫にしては珍しく目を泳がせていると、の方から口を開いた。
「私、今夜からこのお店で働くことにしましたから」
 冷ややかな声と共に出されたのは一枚の紙切れ。見覚えのあるそれを見た瞬間、今度は蒼紫の顔が凍りついた。
「お前、それはっ………?!」
 その紙は、蒼紫が“浮舟”から貰った名刺と全く同じものだったのだ。しかも名前のところには“玉鬘”と書かれている。
「蒼紫様は、こういうところの女の人が好きなんでしょう? だから、私も同じように働くことにしました。“玉鬘”って名前で出ることにしましたんで、遊びに来た時は指名してくださいね。
 じゃあ支度がありますから、出て行ってください」
 にこりともせずに一方的に宣言すると、は蒼紫を押し出してさっさと部屋に引っ込んでしまった。
「働くことにしたって………」
 渡された名刺と閉じられた襖を何度も交互に見て、蒼紫は呆然と呟く。
 廓に出るということは、つまり金さえ出せば誰でもの相手をできるということだ。あの店は一晩に一人の客しか取らせないが、その分客に与えられた時間も長く、一晩中遊女を好きにできる。
 もしかしたらは遊郭でどんなことをするのか理解していないのではないかと、蒼紫は思いついた。どんなことをするかきちんと理解しているなら、あんな所で働くという発想は出てこないはずだ。自分が何をさせられるか知ったら、すぐさま逃げ帰ってくるに違いない。
 今は頭に血が上っているから勢いで店に出る事を決めたのだろうが、もう少し時間が経てば冷静にもなるだろう。その時にまた改めて謝れば良い。今謝っても、火に油を注ぐ結果になるかもしれないではないか。
 あえて自分に調子の良いことを考えて気分を落ち着かせると、蒼紫は足音をたてないようにそっとその場を離れた。





 ところが蒼紫の予想に反して、は朝まで帰ってこなかった。蒼紫を心配させようと友人の家にでも泊めてもらったのかと思ったのだが、ずっと眠そうな顔をしているし、いつもと全く様子が違っている。
 本当に『扇屋』に行ったのだろうかと、眠そうなを盗み見ながら蒼紫は胃が痛くなってくる。昨日の夜、本当に客を取ったのだろうか。
 蒼紫の目から見て、は可愛いと思う。世間的に見ても、可愛い部類に入るだろう。上品な美人揃いのあの店の雰囲気には合わないが、毛色が変わって面白いと買う男もいるかもしれない。違う路線で売り出して、まかり間違って売れっ妓にでもなったらどうしよう。そうなれば、数え切れないほどの男の相手をすることになるのだ。
 考えれば考えるほど胃の痛みは強くなって、仕事も手に付かない。かといって確かめに行く勇気は無く、次の夜もまたその次の夜も、蒼紫はが出て行くのを黙って見ているしかなかった。





 悩んだ挙句、漸く『扇屋』に行く決心が付いたのは、が夜出て行くようになって4日が過ぎた頃だった。
 しかし、一旦は絶対に確かめてやると決心した蒼紫だったのだが、いざ店の前に来ると足がすくんで立ち尽くしてしまう。
 『扇屋』では、遊女は飾り窓に座らない。店に入って、控え室で寛いでいる女たちを見てから決めるのだ。中に入らなければ確認が取れないのに、最初の一歩が踏み出せない。
 本当にが控え室で客待ちをしていたら、それどころか既に客を取っていたらと思うと、胃がきりきり痛んできた。が夜に出て行くようになってからこっち、胃が痛まない時は無い。
 けれど、胃の辺りを押さえたまま突っ立っていたところで何の解決になるわけでもなく、蒼紫はありったけの勇気を振り絞って店の敷居を跨いだ。
「いらっしゃいませ」
 派手な紫の着物を着た女が出迎えにきた。恐らく此処の女将なのだろう。もう中年と言ってもいい歳だが、歳の割には綺麗にしている。
……じゃない、玉鬘を呼んで欲しいのだが」
「生憎ですが、玉鬘ならもう予約が入っておりますよ。明日なら大丈夫だと思いますけど、予約されます?」
「えっ………?!」
 さらりと答えられて、蒼紫は一瞬胃の痛みさえ忘れて絶句してしまった。
 予約が入っているということは、既に客を取ったことがあるということなのか。一体どんな男がを買ったのだろう。そしては、嫌がりもせずにその男の相手をしたのだろうか。
 最悪の事態に、蒼紫は気が遠くなってきた。この前彼が買った“浮舟”のように、も見知らぬ男に楽しげに話しかけ、恋人のように床に入っているのかと思うと、もうそれだけで気が狂いそうだ。
 また胃の痛みがぶり返してきて、脂汗まで滲んできた。人目が無かったら、そのまま蹲ってしまいたいくらいだ。
 胃の辺りを押さえて痛みを堪えていると、客が入ってきた。
「いらっしゃいませ」
「玉鬘は準備できてるかな?」
 その声に、蒼白い顔で俯いていた蒼紫はがばっと顔を上げた。
「ああ、四乃森さん、こんばんは。どうしたんですか、顔色悪いですよ?」
 蒼紫の顔を見て呑気にそう言ったのは、彼が一番親しくしている『成田屋』の若旦那だった。蒼紫との仲を知らぬはずではないのに気まずそうな様子など全く見せず、いつものようににこにこしている。
 あまりにも堂々としている若旦那の様子に、蒼紫は一瞬普通に挨拶をしそうになってしまった。が、すぐに状況を思い出して、胃を押さえたままじっと睨みつける。
 まさかを予約していた男が、よりにもよって蒼紫が一番親しくている若旦那だったとは。全く知らない男に買われるのも嫌だが、知っている男に買われるというのは、友人にまで裏切られたような気がして殺意さえ覚える。普通いくら可愛くても、知り合いの女を買うなど、まともな神経の持ち主なら躊躇うものではないか。
 何か一言言ってやりたいが、怒るべきところが多すぎて、どこから話せば良いのか判らない。言葉に詰まったようにぐっと口を結んで睨みつけるだけの蒼紫を見て、若旦那は可笑しそうに小さく笑う。
「嫌ですよ、そんな怖い顔をして。こんな所まできて、そんな顔しないで下さいよ。あ、もしかして四乃森さんも玉鬘が良かったんですか? 申し訳ありませんが、こればっかりはねぇ………。この店は、一晩に一人しか客を取らせないから」
 にやにや笑う若旦那の顔が如何にも勝ち誇っているように見えて、首を絞めてやりたくなるほど腹立たしい。いっそ本当に首を絞めてやろうかと思ったが、それは流石に人目があるのでぐっと我慢する。
 やり場の無い怒りにますます胃が痛くなってきて、もう人目を気にする余裕も無いほどだ。世界の終わりのような激痛に、蒼紫はその場にしゃがみ込んだ。
「しっ……四乃森さんっ?!」
「お客様!!」
 ただ事ではない蒼紫の様子に、若旦那と女将が悲鳴を上げた。しかしその声も、蒼紫にはひどく遠いものに聞こえる。
 使用人のものと思しき足音が奥から聞こえてきた。恐らく男衆が座敷に運ぶか、近くの診療所に運んでくれるつもりなのだろう。蒼紫としてはそんなことよりもに会わせて貰いたいのだが、あまりの激痛に声も出ない。
 と、蒼紫の目に煌びやかな赤い着物の袂が飛び込んできた。
「蒼紫様っっ!!」
 僅かに顔を上げると、濃い化粧をしたが泣きそうな顔をして蒼紫を見つめていた。
 大きく結い上げた髪には、鼈甲の簪が何本も挿されている。別人のような顔に、遊女以外は着ないような極彩色の着物―――――それを認めた瞬間、蒼紫は血を吐いて倒れた。





 蒼紫の胃痛は、心因性の胃潰瘍によるものだったらしい。健康体だったのがたった数日で血を吐くまで悪化するとは、一体何があったのかと医者に訊かれたが、むっつりと押し黙ったまま何も言わなかった。
 幸い手術はしなくても済みそうだが、一月近い入院は必要らしい。たった一度廓遊びをしただけで、は遊女になるし、自分は胃潰瘍に倒れるしで、とんでもなく高い代償を払う羽目になってしまったわけだ。
 しかし、の思い切った行動のお陰で、彼女がどんな思いをしたか蒼紫にも嫌と言うほど解った。男が女を買うのと、女が他所の男に身を売るのとでは意味合いが違うが、きっとにとっては同じことだったのだろう。自分以外の異性に肌を触れさせるということでは、どちらも同じだ。
 こんな思いをするのだったら、もう二度と廓遊びはしない。お近の言う通り、付き合いだからとはいえ、やって良いことと悪いことがある。
「蒼紫様、良いですか?」
 扉越しに、遠慮がちなの声がした。
 いつものなら声を掛けると同時に入ってきそうなものだが、今回ばかりは気まずいらしい。蒼紫もかなり気まずいが、このまま廊下に立たせておくわけにはいかない。
「ああ」
 音を立てずに扉を開けると、は躊躇いがちに部屋に入ってきた。気まずそうに下を向いていて、蒼紫の方は全く見ない。
 蒼紫も喉が詰まったように言葉が出なくて、二人とも押し黙ったまま視線を逸らしている。外の小鳥のさえずりが妙に白々しく響いて、それもまた空気の重さに拍車をかけた。
 謝るのが先か、『扇屋』に行かないでくれと頼むのが先かと蒼紫が迷っていると、の方から口を開いた。
「ごめんなさい。こんなことになるなんて思ってなかったから………」
 泣いているような震える声で、は呟くように言う。
「蒼紫様が二度とああいうところに行かないように、少し脅すだけのつもりだったの。『扇屋』の女将さんに頼んでお芝居をしただけなの」
「え………?」
 の予想外の告白に、蒼紫は初めての顔を見た。
 今にも涙が零れ落ちそうなほどに目を潤ませて、も蒼紫の顔をじっと見ている。
「蒼紫様が何か言ってくれたら、すぐに種明かしするつもりだったの。だけど何も言ってくれないから、何とも思ってないのかなって………。だから『成田屋』さんにも来てもらって………」
 泣くのを堪えながら説明するの言葉も、蒼紫にはどこか遠い話のように聞こえる。
 遊女の扮装をして店にいたのも、『成田屋』の若旦那が蒼紫が店に来たのに合わせるようにやってきたのも、全て嘘だったとは。蒼紫が一晩中思い悩んでいた時、はあの店でただ時間を潰していただけだったなんて。
 あまりにも馬鹿馬鹿しいオチに、蒼紫はこれまで気が張っていた分、一気に脱力してしまった。そもそもの発端は彼にあるのだから怒る筋合いは無いし、結局客は取っていなかったのだから安心したのだが、それでも脱力してしまう。
 力が抜けて声も出ない代わりに、溜息が出た。それを見て、は慌てて彼に駆け寄る。
「ごめんなさい! もうこんなことしないから。絶対にしないって約束するから!」
 少し懲らしめて反省させるつもりだったのだ。それがこんな大事になってしまって、はもうどうして良いのか分からない。胃潰瘍にまでさせてしまうなんて、謝っても許してもらえないだろう。
 蒼紫のことが大好きで、だから他の女に触れて欲しくなかっただけなのに、こんなことになってしまったら嫌われてしまう。彼が他の女に触れるのは嫌だけれど、嫌われてしまうのはもっと嫌だ。
 子供のように泣きじゃくるの頭を、蒼紫は優しく撫でる。
「俺も、二度とあんなところには行かないから」
 もうにはあんな思いはさせたくない。それより何より、どんな美人が相手であっても、ああいうことをするのはが一番良い。
 子供のように両手で涙を拭うの手を優しくどけて、蒼紫は仲直りの接吻をした。
<あとがき>
 某巨大掲示板で見かけた、「夫がソープに行ったのが判って、自分もソープ嬢になったと夫を騙して懲らしめた奥様」の書き込みを見て思いついたドリームです。ちなみに旦那さん、4日で血を吐いて倒れたのだとか(笑)。
 まあ蒼紫も若い男ですからねぇ、誘われたら“お付き合い”を免罪符に、ついふらふら〜っと……ということもあるのではないかと。でも慣れないことをするから、詰めが甘くて自爆するんですよ(笑)。
 しかし蒼紫、ヘタレすぎるな………。たとえバレても、誤魔化すなり弁解するなりしろよ。まあ、とりあえずこれで、彼は一生女遊びはできませんな。
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