プレゼント

 蒼紫様のお誕生日のお祝いも兼ねて、と正月に『葵屋』一同から温泉旅行に招待された。高級旅館で独りでのびのび過ごして欲しいという心づくしの贈り物だ。
 客室が5つしかないこの宿では、他の客とすれ違うことすら無い。たまに仲居が食事や風呂の用意をしに来るだけで、本当に一人だけの空間だ。女たちの声が騒々しい『葵屋』での時間も悪くはないけれど、やはり蒼紫の気性にはこの静けさが落ち着く。
 日頃は操やに邪魔をされて読めなかった本も、此処では順調に読み下していける。帰る頃には、持ってきた全てを読破することができるだろう。
「ふう………」
 今も一冊読み終え、蒼紫はパタンと本を閉じると、凝りを解すように軽く首を回した。
 外はまた雪が降っているのか、物音一つしない。雪の降る夜は静かで良い。これだけ静かなら読書に集中できて、あと2冊くらいは読破できるだろう。
 軽く風呂に入ってからまた読むかと立ち上がりかけた時、廊下で人の気配がした。
「四乃森様、よろしいでしょうか?」
「どうぞ」
 もう夕食は終わったし、一回目の風呂はもう入った。布団は自分で敷くと伝えておいたのに、何故仲居が来るのかと訝しく思いながら、蒼紫は返事をした。
「失礼致します」
 音を立てずに襖を開けて、仲居が深々と頭を下げた。
「四乃森様にお客様がお見えなのですが、お通ししてもよろしいでしょうか?」
「客………?」
 ますます蒼紫は訝しげな顔をする。
 此処に蒼紫がいるのを知っているのは、『葵屋』の人間だけだ。一人でのんびりしてこいと言った彼らが此処に来るというのはありえない。何より、こんなに暗くなって、しかも雪の中を、山奥の温泉旅館に来るなどありえないではないか。
 とはいえ、相手が誰かに関わらず、こんな寒い中やってきた人間を待たせるわけにはいかない。不審に思いながらも、蒼紫は客人とやらを部屋に通すように指示した。
 暫く間があって、部屋にやってきたのは―――――
「蒼紫様!」
?!」
 現われたのは、『葵屋』で仕事をしているはずのだったのだ。これには蒼紫も驚いて、思わず声を裏返らせてしまった。
 驚く蒼紫の様子が可笑しかったのか、は弾けるような笑い声を上げた。いつもは表情一つ変えない蒼紫が声まで裏返っているのだから当然だ。
 仲居はを部屋に入れると、いつの間にかいなくなっていた。現れる時も去る時も音一つ立てないなど、幽霊のような女だ。その半分で良いからにも見習って欲しいものだと、蒼紫は思う。
「もう少し早く来たかったんですけど、馬車が動かなくて。途中から歩いたらこんな時間になっちゃいました」
 肩にかけていたショールを畳みながら、は楽しげに言う。驚いている蒼紫の姿など目に入っていないのか、勝手に茶まで淹れだして、まるで自分の部屋のように寛ぎ始めた。
 来てしまったのは仕方が無いが、何故が此処に来たのかが蒼紫には全く理解できない。今回の旅行は蒼紫が一人で静かに寛ぐために企画されたのではないのか。それを、操と一二を争う騒々しいが一緒となったら、静かな時間が台無しではないか。
 しかも、この雪の中を歩いて来たなんて。どこから歩いてきたのか知らないが、いくら元御庭番衆とはいえ、女の脚でこの山道を一人でやって来るなど無謀すぎる。もし遭難でもしたら、どうするつもりだったのか。
「どうして此処に来た? 店はどうした?」
 なるべく詰問口調にならないように、蒼紫は努めて冷静に尋ねる。
「お近さんとお増さんが、蒼紫様もお一人で寂しいだろうから行ってあげなさいって。
 あ、お茶、飲みます?」
「飲むが………一寸待ってろ」
 蒼紫は一旦部屋を出ると、一目散に電話口に走った。この旅館にはもう電話が設置されているのだ。さすが高級旅館は違う。
 こんな山奥の旅館で電話など使う者がいるのだろうかと、初めてこの機械を見た時に不思議に思ったものだが、まさか蒼紫自身が使う羽目に陥るとは思わなかった。
 幸い、この雪でも電話線は切れていなかったらしく、あっさりと『葵屋』に繋がった。
「俺だ。一体どういうことなんだ? が来たぞ」
「ああ、無事に着きました? よかったぁ。そっちは雪が凄いって聞いてたから、一寸心配だったんですよ」
 不機嫌に話を切り出す蒼紫とは反対に、お近が呑気に応える。続けて、
「私たちからの“ぷれぜんと”ですよ。蒼紫様の言うことには何でも“はい”って従うように言ってますから、何でも言いつけてくださいね」
「何でもって………」
 言葉通りに取れば、全身全霊を込めて接待しろという意味だろうが、お近の口振りでは下にも置かぬ接待どころか、下の接待までさせかねない勢いだ。否、明らかにそのつもりでを送り込んだのだろう。
 操を除く『葵屋』の者たちは、が蒼紫を慕っていることも、彼自身まんざらでないことも知っている。知っているからこそ、やたらとをけしかけて、どうにか二人を夫婦にしようと企んでいるようなのだ。そういえばの誕生日に口紅をやった時、お増が裏でけしかけて、の方から接吻したということもあった。
 今回の件も恐らく、周りが寄ってたかってを言いくるめて、こちらへ寄越したのだろう。接吻の件は兎も角として、嫁入り前の娘に何ということをさせるのか。それを受けるである。年頃の娘が男に対して「何でもします」などと言ったら、何をされるか判らないわけでもあるまいに。
 否、あの娘のことだから「何でもします」を、本気で接待のことだと思い込んでいる可能性もある。いつもの身の回りの世話に、誕生日だから背中を流すとか按摩をするとか、そういういつもしないことを加えるだけと思って此処に来たのではないか。それならば、がほいほいと話に乗った納得がいく。
 彼らのやっていることは、世間知らずの田舎娘を騙くらかして女郎屋に売り飛ばす女衒と同じではないか。電話口で楽しそうに笑うお近の声を聞きながら、蒼紫は頭が痛くなってきた。
 蒼紫の無言の意味を察したのか、お近は含むように笑いながら言う。
「大丈夫ですよ。ちゃんにはちゃあんと言い聞かせてますから。蒼紫様に全部お任せしなさいって言ってありますから、しっかりしてくださいね」
 ふふっと意味ありげな笑いを残して、電話は切れてしまった。慌ててもう一度かけてみたが、今度は繋がらない。電話というのは便利なものだが、こういう不安定なところが困りものだ。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
 とんでもないことになってしまった。受話器を握り締めたまま、蒼紫は呆然としてしまう。
 もそのつもりで此処に来ていたとは。操と似たり寄ったりの子供染みた彼女がそんな覚悟をしているとは、まだ信じられない。
 しかし考えてみれば、既に彼女も二十歳の大人である。近所の同じ年頃の女たちはあらかた嫁いでしまって、母親になっている者も多い。娘のままでいるのはくらいのものだ。世間的に見れば、いつ男とそういう関係を持っても不思議ではない。
 蒼紫としても、がもう少し大人の落ち着きを持つようになったら、と待っているところがあったのだから、考えようによっては今回の企画は渡りに船である。が、周りから押されてこうなるというのは、少々いただけない。だって、本当はまだそうする気は無かったのに、周りに流されてしまっている可能性もあるではないか。
 とはいえ、周りに言いくるめられてその気になっているを、まだ早いと拒否するのも悪いような気がする。据え膳食わぬは男の恥、という言葉もあるではないか。しかし、周りに流されてそうなるわけにはいかない。男の蒼紫は兎も角、女のにとっては一生に関わることなのだ。
 今夜はどうするべきか、蒼紫は悶々と悩み続けるのだった。





 部屋に戻ると、は用意されている饅頭を食べていた。お近たちが言い含めたという割には、随分と寛いだ様子だ。
 普通こういう場合、女は緊張するものだと思っていたが、は元御庭番衆だけあって肝が据わっているのか、そうでもないらしい。ひょっとしたら、お近たちは言い含めたつもりでも、はその真意を理解していないだけなのかもしれない。普通なら考えられないことだが、ならありえる。
「蒼紫さま、お茶飲みます? このお饅頭、美味しいですよ」
 唖然としている蒼紫に、は呑気に言う。どうやら彼の心配は、完全に無駄だったようだ。
 ほっとしたような、それでいて少し残念な気持ちで、蒼紫は小さく首を振る。そして、
「いい。風呂に入ってくる」





 部屋風呂にも温泉が引かれていて、蛇口を捻るとすぐに熱い湯が出てくる。“水道”というものらしいが、ポンプで汲み出さなくて良いのが楽だ。西洋化のお陰で、世の中は驚くほど便利になっていっている。
 湯船が一杯になると、浴室は檜の良い香りに包まれる。岩の露天風呂というのも良いが、総檜の浴室というのも温泉旅館の醍醐味だ。
「ふー………」
 湯船に浸かると、景気良く湯が溢れ出す。『葵屋』の風呂では脚を伸ばせないが、此処の風呂は背の高い蒼紫が入っても十分に余裕がある。旅館の風呂は素晴らしい。
 蒼紫が入ってもまだ余裕があるのだから、が一緒に入っても問題無さそうだ。今日は蒼紫の言うことには何でも従うと言っていたから―――――そこまで考えて、蒼紫は慌てて湯で顔をばしゃばしゃと洗った。一体何を考えているのか。お近にけしかけられたとはいえ、調子に乗りすぎだ。
 多分のことだから、一緒に風呂に入ろうと誘ったら、檜風呂に目がくらんで大喜びで入ってくるだろう。それは大変よろしくない。
「蒼紫さまぁ」
 一人で悶々とする蒼紫のことを知ってか知らずか、が脱衣所から声を掛けてきた。
「お背中お流ししましょうか?」
 誕生日だから、いつもと違う接待をしようと思ったのだろう。それが目的でわざわざ山中の温泉宿まで来たのだ。呑気に饅頭を食ってる場合ではないのである。
 流石に一緒に風呂に入るのはまずいが、背中を流してもらうくらいなら、どうということはない。背中を流すだけなら、裾をからげて脚をむき出しにするくらいか、薄着でも長襦袢くらいは身に着けているはずだ。
 に背中を流してもらうというのも、『葵屋』では絶対にできないことだ。折角だから、そういう接待を受けるのも悪くはない。も、蒼紫を接待すれば満足だろうし、一石二鳥である。
「そうだな」
「じゃあ、一寸待っててくださいね」
 の嬉しそうな声の後に、帯を解く衣擦れの音が重なる。どうやら長襦袢姿で背中を流してくれるつもりらしい。
 お近の話を聞いた時はどうしようかと思ったものだが、こういう接待は大歓迎だ。風呂から上がったら腰に乗ってもらって按摩をしてもらおう、などと蒼紫が呑気なことを考えていると―――――
「お待たせしましたぁ」
「ああ………―――――――っっ?!」
 引き戸を開けて現われたの姿を見て、蒼紫は危うく湯船の中で溺れそうになってしまった。
 てっきり長襦袢姿で現れると思っていたが、素肌に大き目の西洋手拭いを巻いただけの格好で現われたのだ。一応、端を中に巻き込んでいるが、そんなのでは何かの拍子にはらりと落ちてしまいそうである。
「なっ…ななななんだ、その格好はっっ………?!」
 大概のことでは驚かない蒼紫だが、これには流石に驚いた。顔を真っ赤にして、舌を噛みながら絶叫する。
「えー? お近さんが、背中を流す時はこうしなさいって。これなら着物も濡れないし、一緒にお風呂も入れるでしょ? これ、お増さんが買ってくれたんですよ」
 自分の格好がどういうものか理解できていないように、は無邪気に笑う。ここまで羞恥心が無いと、色気もいやらしさも無く、逆に健康的で清々しくもある。
 が、いくら健康的でも清々しくても、年頃の娘がそんな格好で夫でもない男の背中を流すというのは、非常によろしくない。蒼紫は御庭番衆で鍛えた鉄の理性の持ち主だから良いようなものの、普通の若い男だったら背中を流すだけでは済まないところだ。否、彼でさえ、こんな格好のを目の前にしたら平静ではいられない。
 蒼紫は慌てて手拭いを腰に巻くと、湯船から上がってを脱衣所のほうへ押し出す。
「やっぱり背中はいい! お前は露天風呂に行ってこい」
「えー? でもぉ―――――」
「いいから! 折角だから行ってこい。此処は美人の湯らしいから」
 不満げな声を上げるを強引に押し出して勢い良く引き戸を閉めると、蒼紫は深い溜息をついた。
 無邪気なのは結構なことだが、自分の身体に対してここまで無頓着なのは、男としては非常に疲れる。お近たちの“好意”との無頓着さに乗じてしまうというのも一つの手かもしれないが、それは流石に蒼紫の“良識”が邪魔をしてしまう。我慢するというのも結構疲れるということを解って欲しい。
 この後もこの手の攻撃が続くのかと思うと、広い湯船で取れははずの疲れが一気にぶり返してきた。明日の朝には『葵屋』に戻る予定であるが、戻るまで無事でいられるのだろうかと、蒼紫はぐったりとしてしまうのだった。





 風呂から上がると、部屋には二組の布団が敷かれていた。露天風呂に行く前に、が敷いて行ったらしい。
 布団がぴったりとくっ付いている敷かれている様子は、まるで新婚旅行のようだ。やはり今夜はそういうつもりで来たのかと、蒼紫は今更ながらに焦ってしまう。
 ここまでやられたら、もう“据え膳食わぬは男の恥”だろう。この言葉は男の免罪符だと蒼紫は思い込んでいたが、“恥”という言葉で自分を奮い立たせなければならない状況もあるのだと、初めて気付いた。
 のことは、勿論可愛い。だから誕生日には彼女が欲しがっていた仏蘭西製の口紅を、何ヶ月も前から予約してまで買ったのだ。他の女には、こんなことはしない。
 ゆくゆくはを妻に迎えて『葵屋』を継ぐ、ということも周囲だけではなく蒼紫自身も考えていることだ。夫婦になれば、布団を並べて寝るどころか、同じ布団で寝るのも当然のことになるだろう。遅かれ早かれ夫婦になるのなら、今夜でも―――――
 そこまで考えて、蒼紫は慌てて頭を振った。いくら先では夫婦になるつもりであるとはいえ、順序は守らなくては。据え膳を食わぬは男の恥かもしれないが、欲望のままに順序を守れぬのもまた、男の恥だ。
「どうしたんですか、蒼紫様?」
 雑念を払うように顔を両手で叩く蒼紫の後ろから、が声を掛けてきた。もう風呂から上がってきたらしい。ふわりと湯上りの匂いがした。
「いや、何でもない」
「変なのぉ………」
 くすくす笑いながら、は蒼紫の隣にぺたんと座る。
 振る舞いも表情もいつも通り幼いが、湯上り姿というのはでも風情がある。無造作に結い上げられた濡れ髪の後れ毛も、なんとも艶かしい。
 の湯上り姿など『葵屋』で飽きるほど見ているはずなのに、何故か今夜の彼女の姿は蒼紫の目には新鮮に映る。環境が変わると、同じ女も違うものに見えるらしい。それとも、自身が今夜は違っているのか。
 後れ毛を気にするの指の動きも何とも艶かしく、蒼紫はなるべくそちらを見ないようにあらぬ方角に目を泳がせる。油断すると、そのままこの状況に流されそうだった。
「どうしたんですか?」
 あらぬ方を向いている蒼紫を追いかけるように、が下から覗き込む。くりくりした目で不思議そうに眺める彼女の表情はいつもと同じで、その顔を見ると蒼紫もほっとした。早く大人になって欲しいと望む反面、いつまでもこのままでいて欲しいと心のどこかで望んでいるのだろう。
 いつまでもが子供のままでいることを望むなど、我ながらどうかしていると蒼紫は苦笑する。普通なら、早く年相応になってもらって妻に迎えたいと望むはずなのに。
 きっと、何だかんだ言いながら蒼紫は今のが好きなのだろう。今のであれば、「まだ子供だから」と彼も理性を保つことができる。けれど彼女が大人の色香を漂わせるようになれば、そうはいかない。自分が理性を失ってしまうということが、蒼紫には何よりも恐ろしいことなのだ。
「いや。もう寝る」
 何となく身の置き場が無くて、蒼紫はさっさと布団に潜り込んだ。
 自身はいつものだが、お近の話を聞いてからはそういう風には見れない。彼女にその自覚があるかどうか判らないが、蒼紫にはもう常に据え膳状態である。さっさと寝てしまわないと、据え膳を戴いてしまいかねない。
 が、はそんな蒼紫の気持ちを知って知らずか、不満そうに彼の身体をゆさゆさと揺さぶる。
「蒼紫さまぁ、起きて下さいよぉ。私まだ、何もしてないんですから」
「何もしなくて良いから、さっさと寝ろ」
 布団に潜ったまま突き放すように言うと、揺さぶるの手がぴたりと止まった。そして、掌がそっと離れる。
 何か反論してくるかと思って待っていたが、は何も言わない。あまりにも静かなので、不審に思って蒼紫が布団から顔を出すと、彼女は目に涙を溜めてじっとしていた。
「なっ……何も泣くことは無いだろうっ」
 ぎょっとして跳ね起きると、蒼紫は俯くの顔を覗き込んで頬を撫でた。
 少し言い方がきつかったかもしれないが、まさか泣くとは思わなかった。
「だって……今日は蒼紫様のために何でもするって決めてたのに………。蒼紫様を喜ばせてあげたかったのに、怒らせてばっかり………」
「怒ってない。びっくりしただけで怒ってないから、そんな顔するな」
「………本当に?」
 蒼紫の顔色を窺うように、は潤んだ目で上目遣いでちらっと見る。
 他の女だったら鬱陶しいと思うところだが、がやると可愛いと思ってしまうところが、惚れた弱味か。怯える小動物のようなの顔は、抱き締めたくなるほど可愛い。理性でどうにか堪えて、実行することは無いけれど。
 こういう場合、抱き締めた方が丸く収まるのは解りきってるが、抱き締めたら最後、歯止めが利かなくなってしまうだろう。歯止めが利かなくなったところで、お近たちに言い含められているが騒ぐことは無いと思うが、なし崩しというのは良くない。こういうことは、きちんと祝言を挙げてからしなくては。
 抱き締める代わりに、蒼紫はの頭を優しく撫でてやる。
「本当に怒ってない。明日はもう帰るから、早く寝ろ。な?」
 優しく微笑みかけてやると、もつられるように小さく微笑んだ。
 が落ち着いたところを確認して、蒼紫はもう一度布団に入る。が来てから調子を崩されっぱなしだったが、それはそれでまあ楽しかった。とはいえ、こんなことは二度と御免だが。
 『葵屋』に戻ったら全員に説教してやろうと思いながら目を閉じると、もそもそと柔らかいものが布団の中に入ってきた。
「ぅわあっっ?!」
 流石にこれには蒼紫も情けない悲鳴を上げてしまった。何と、が布団の中に入ってきたのだ。
「ななななな何をっっ………?!」
「今夜は寒いから、一緒に寝たら温かいかなって。蒼紫様、寒がりだから」
 そう言って、は無邪気にふふっと笑う。その顔を見たら、説教したい気持ちもしゅんと萎えてしまって、蒼紫はに気付かれないようにそっと溜息をついた。
 には下心も悪気も一切無いのだ。蒼紫を喜ばせたい一心で、色々とやってくれているのだと思う。ただ、その方向性はかなりずれてしまっているけれど。
 今夜は一晩中、蒼紫の理性が試されることになるだろう。多分大丈夫だと思いたいけれど、こうやってぎゅっと抱き付かれていると、やや不安になってくる。
 の柔らかな感触から気を逸らすために、蒼紫は昨日読んだ薬学の本の内容を反芻するのだった。





「あ。おかえりな………」
 『葵屋』に戻ってきた蒼紫とを出迎えるお増の笑顔が、一瞬強張ってしまった。
 温泉の効果か艶々した肌のとは対照的に、3日も温泉にいた蒼紫の顔は如何にも寝不足でやつれきっていたのだ。恐らく、一晩中寝てないのだろう。目の下に、今まで見たことの無いほどひどい隈ができていた。
 お増の声に呼ばれるように他の面々も顔を出してきたが、蒼紫の顔を見ると全員が唖然としてしまった。御庭番衆で鍛えられて、数日寝なくても平気なはずの蒼紫がここまで憔悴しているのだから、当然だ。
「ただいまー! あ、これみんなにお土産。凄く美味しいんだよ」
 饅頭の箱をお増に渡すと、は元気一杯に自分の荷物を持って部屋に走っていった。
 そんなとは反対に、蒼紫はふらふらしながら、如何にも大儀そうに荷物を置いて中に上がる。帰ったら全員に説教だと思っていたが、今はそんな気力も出ない。
 とにかく一刻も早く、横になりたかった。昨夜は一晩中に抱きつかれて、結局一睡もできなかったのだ。一晩くらい寝なくても平気な蒼紫だが、一晩中悶々としながら起きているのがこんなに消耗するものだとは思わなかった。
「蒼紫様、大丈夫ですか?」
「………少し横にならせてくれ。昨日は一睡もできなかったんだ」
 心配そうに尋ねるお近に、蒼紫は疲れ切った声で応えると、よろよろと自分の部屋へ歩いて行った。
 そんな蒼紫の後ろ姿を唖然として見送る『葵屋』一同だったが、ぼそっと白尉が呟いた。
「………ちゃん、そんなに凄かったのかな………」
「蒼紫様があんなにやつれるほどだからなあ………。相当激しかったんじゃないか?」
「可愛い顔して、凄いわねぇ………」
「蒼紫様じゃなかったら、死んでるかも………」
 まさか蒼紫が手を出せないまま悶々と一晩を過ごしたとは思わずに、一同はそれぞれに想像を逞しくして話し合うのだった。
<あとがき>
 2006年正月ドリームと、蒼紫誕生日おめでとうドリームを兼ねて。お題小説の“誕生日”の続編です。
 折角の休暇が、積極ヒロインさんにことごとく邪魔(?)されて一寸気の毒かも、蒼紫………。っていうか、女がここまでやってるんだから、そろそろ観念しろよ(笑)。順序に頑なに拘るのは、生真面目な性格のせいですかねぇ。
 まあ、我慢するのは偉いですけど、やつれるほどの我慢って(笑)。きっと、頭の中では凄い妄想が繰り広げられてたんでしょう。そして、『葵屋』一同の脳内でも、もの凄い妄想が繰り広げられている様子。
 それはともかく、今年もこんな感じのヘタレドリームをよろしくお願いいたします。
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