師匠の後悔

 たとえば、迷い猫が家に入り込んでいて、腹を空かせているようだからと餌をやってみたら、イイ気になっていつの間にやら家に住み着いた挙句に小便を撒き散らして“自分の家”だと主張することがある。を見る時、比古はいつもそんな迷い猫を連想する。
 思い起こせば夏の初め、「あなたの作品に感動したので弟子にして下さい」と突然山小屋の前で言われたのが、全ての始まりだった。
 誰かの紹介があるわけでもなく、女が一人でこんな山の中までやって来るというのは並大抵の覚悟ではないとは思ったが、弟子をとる気は無かったので即決で断った。そこでに「出戻りだから、実家に居場所がない」だの「出戻りのくせに実家を飛び出した手前、今更帰れない」だの泣き付かれて、ついほだされてここに住み着くのを許したのが間違いだったと、比古は今になって思う。
 最初の3日こそは大人しく掃除をしたり飯炊きをしたりして、比古に対して従順だったのだが、突然「あんまナメんな、クソオヤジ!!(意訳)」とキレたのをきっかけに、は傍若無人な振る舞いをするようになったのである。一言言えば10倍になって返ってくるし、時々どちらが師匠なのか判らなくなるくらいの態度の大きさだ。
 そして今日も、は比古より先に素麺を啜っている。一体どこの世界に、師匠より先に飯を食う弟子がいるというのか。彼がまだ弟子であった頃は、師匠より先に箸を取ろうものなら、すかさず鉄拳が飛んでいたところだ。
「おい」
 不機嫌を全開にして、比古は低い声を出す。が、は涼しい顔で素麺を啜りながら、
「何でしょう?」
「てめぇ、師匠が箸も取ってねぇのにさっさと食うとは、どういう了見だ?」
「だって、さっさと食べないと麺がのびちゃうじゃないですか。先生も早く食べてくださいよ」
「のびる、のびない以前に、師匠より先に箸を取るという根性が―――――」
「師匠らしいことをしてから、師匠を名乗って欲しいですね。9月に入ったっていうのに、未だに土の捏ね方一つ教えてくれないじゃないですか。“先生”って呼んであげているのも、こちらとしてはかなり譲歩してあげているんですよ?」
 比古の言葉を遮ってしゃあしゃあと言うと、器と箸を置いた。そして、
「だいたい、秋になったら陶芸をやるって言ってたのに、全然始める様子が無いじゃないですか。いつになったら私は教えてもらえるんですか?」
「うるせぇなぁ。前から弟子は取らねぇって言ってるだろうが。お前の耳は節穴か?」
 最近ほぼ毎日のように繰り返されている話題に、比古はあからさまにうんざりとした顔をして、箸を取った。
 夏は陶芸はしないという宣言をしてから暫くは大人しくしていただが、夜に秋の虫が鳴き始めた頃から再びしつこくこの話題を振ってくるようになった。毎回、まだ昼間は残暑が厳しいからと逃げている比古だが、もう少し経てばその言い訳も使えなくなるだろう。
 陶芸をするのは吝かではないのだが、それを始めると必然的にが教えろと付きまとうわけで、それを考えるだけで比古はうんざりする。教えるつもりは全く無いのだから、仕事中に付きまとう彼女は邪魔者以外の何ものでもないし、教えないことでまたぎゃあぎゃあ言われるのも鬱陶しい。
「ひどいっ! 上手に御飯を炊けるようになったら教えてやるって言ってたじゃないですか!」
「あー………」
 そういえばすっかり忘れていたが、がここに来たばかりの頃、炊事をさせる口実に「飯炊きも修行のうちだ」と適当なことを言っていた。「弟子は取らない」というのはすぐ忘れるくせに、そういうことだけはしっかりと憶えているとは、なかなか執念深い脳である。
 頬を紅潮させて憤然とするを見ながら、比古はいい言い訳を考える。
 その場凌ぎとはいえ、「飯炊きも〜」と言ったのは事実。米も研いだことのないというお嬢様育ちのが、とりあえず食えるような料理を出せるようになったのは本人も相当な努力をしたのだろうし、それは認めてやっても良いと思う。そこまでして陶芸をやりたいという情熱は感心するが、しかしそれとこれとは別だ。
 素麺を啜りながら考えていた比古だったが、ふと一つのことに気付いて、ニヤリと笑った。
「ああ、飯炊きは修行の一つだからな。だがお前は飯を炊いたのは最初のうちだけで、殆ど素麺しか作ってないじゃねぇか」
「何言ってるんですか。素麺だって立派な御飯です! 毎日欠かさず作ってたじゃないですか!」
 確かにこのところ御飯は炊いていなかったが、毎日食事は作っていた。御飯を炊いていないから修行をさせないなんて、詭弁だ。
 怒りを露わにして抗議するに、比古は不敵な笑みを浮かべたまま、
「馬鹿か、お前は。飯を炊かねぇと修行にならねぇんだよ。微妙な火加減の調節とかな、陶芸に通じるものがあるんだ。俺様の命令には凡人には理解できない、深ーい配慮があるんだよ。解ったか」
「ぐっ………」
 口から出任せだが、は渋々ながらも納得したらしい。反論の言葉も出ないようで、悔しそうに唇を噛んでいる。
 これで暫くは大人しく飯炊き女に甘んじるか、冬が来る前に諦めて山を降りるだろう。どちらにしても比古には都合のいい展開だ。
 さてどう出るかと、意地悪な笑いを浮かべて悔しげな顔をしているを観察していると、彼女はふと名案を思いついたかのような晴れやかな顔をした。
「解りました。それでは明日から、毎日おにぎりを作らせていただきます。ええ、御飯を炊きまくって、修行に勤しませていただきますよ」
 そう言って、は意味ありげにニヤリと笑った。


 その笑いの意味を比古が理解したのは、翌朝の朝食の席だった。
 出された朝食を見て、比古は言葉を失った。そこにあったのは、大皿に載せられた大量のおにぎり。おかずも付け合せの漬物も無く、ただ白いおにぎりだけだったのだ。
「………何だ、こりゃ?」
 素麺ではなく飯を炊けと確かに言ったが、おにぎりだけというのは一体どういうことか。
 唖然とする比古に、は涼しい顔で、
「御飯を炊くのが修行だと言われましたので、今日からこれにすることにしました。あ、おかずは全部おにぎりの中に入れてますから、栄養面はばっちりですよ」
 比古のいうことを素直に聞いている振りをしながら、明らかに嫌がらせをしているというのは、唖然としている彼をにやにやして見ているの顔を見れば明らかだ。
 陶芸を教えない理由を逆手にとって、こう出るとは。反撃を思いつく才能に関しては、は天才的なものを持っているのかもしれない。
 飯炊きが修行と言った手前、大量に飯を炊くなとは比古には言えない。これから先、具が卵焼きだったりお浸しだったりのビックリおにぎりを食べさせられるのかと思うと、自分の軽はずみな発言を激しく後悔するのだった。
<あとがき>
 師匠と弟子の勝負、まだ地味に続きます。一体いつまで続くのやら………。っていうか、陶芸は一体いつになったら始めるんだ?
 でも何だかんだ言いながら二人で仲良く暮らしているっていうことは、結構この生活を楽しんでいるってことでしょうか。毎日素麺生活でも比古が追い出す気配も無いし、結構二人はうまくいっているのかもしれませんね(笑)。
 ラブラブな展開になるかどうかはまだ悩んでいるところですが、暫くはこの調子で続けていければと思っています。
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