縁の苦悩

 世の中には、料理が下手な女は結構いる。巴が料理上手だったから、女は皆料理が巧いと縁は思い込んでいたのだが、神谷薫の料理を食べてそれは間違いだと知った。そして、その薫を超える料理下手が存在するということも。
 が料理が下手だということを知ったのは、つい最近のことだ。これまで、毎日買ってきた白飯と惣菜を並べられるか、外食で済ませていたのを縁が栄養が偏るからと注意して料理を作らせてみたところ、とんでもない料理が出てきて発覚したのだ。
 隠し味が隠しきれていないというならまだ良い。“野菜の煮付けに梅干を入れると煮崩れを防げる”と聞いて、鍋に梅干を大量投入して“梅干の煮付け”に大変身とか、“黒豆を煮るのに重曹を入れるとふっくら仕上がる”と聞いて、“黒豆の煮付け重曹風味”というのが出来てしまうのは、まあお茶目というものだろう。問題は、“ここで一工夫”を超えた、“ビックリ創作料理”だ。
 最近の腰を抜かすほどのビックリ料理は、“茹で太刀魚の苺ジャム和え”だろう。どうやら“鱧の梅肉和え”を作りたかったらしいのだが、鱧が手に入らなかったので代わりに太刀魚を、件の“梅干の煮付け”で梅干を使い果たしていたので同じ赤いものを、と金持ちの患者からもらった苺ジャムを代用した結果らしい。大抵のものには耐えてきた縁だったが、流石にこれは後で吐いた。
 “料理が下手”ということなら、まだ食べられる。その証拠に、薫の料理は半分とはいえ食べたし、吐きもしなかった。が、の料理はもう“下手”を超越している。基本的に、“料理が無理”なのだろう。
 そういうわけで、最近は縁が炊事を一手に引き受けている。彼も料理は苦手なのだが、少なくとも本を見ながら基本に忠実に作っているから、のようなビックリ料理には仕上がらない。
「縁って、意外と料理上手だったのねぇ。見直したわ」
 縁お手製の夕食を食べながら、は心の底から感心したように言った。それに対し、縁は表情も変えず、
「本に書いてある通りに作れバ、これくらい誰にでも出来ル」
 今日の夕飯は、魚の塩焼き、小松菜の御浸し、それに味噌汁という基本の料理だ。特に技術はいらないし、本に書いてあるのを忠実に守れば、誰でもそこそこのものは作れる。
「ふーん、じゃあ私も作ってみようかなあ。もう一工夫したら、ご馳走に大変身しそうだし」
「それだけはヤメロ」
 乗り気になっているを、縁は心の底から引き止める。
 が一工夫したら、ご馳走どころかビックリ料理かトンデモ料理に仕上がるに決まっている。工夫をしようという向上心は感心だが、工夫をする前に基本を押さえろと言いたい。
 雰囲気は巴に似ているというのに、どうして中身はこんなに違うのか、縁には不思議でたまらない。全く別の人間だからと言われればそれまでなのだが、それにしたってこの料理の腕だけは何とかしてもらいたい。ここまでひどいと、技術云々を通り越して犯罪である。
 は一寸不満そうな顔をしたが、思い出したようにぱっと明るい顔をした。
「そうだ。今日ね、患者さんから梨を戴いたの。食後に食べましょう。凄く大きい梨なのよ」
「ああ」
 は往診先の患者に慕われているらしく、色々なものをもらってくる。貧乏診療所のくせに落人群で無料診療をしている割にはそこそこの食生活を送れるのは、こういった差し入れのお陰だ。
 食事を済ませると、梨を持ってくると言って、は汚れ物と一緒に台所に消えた。
 まあ、梨の皮くらいは剥けるだろうし、流石に剥いて切るだけのものがとんでもないものに変身する筈はない。と、油断したのが失敗だった。が持ってきたのは―――――
「コレは何ダ?」
 目の前に出された奇妙な物体を見て、縁は眉間に皺を寄せる。
 縁の前に置かれたのは、半球体の茶色い物体。鼻を近づけると砂糖醤油の甘辛い匂いがした。
 話の流れから、その物体の正体に察しは付くが、縁の中の常識が現実から目を背けたがっている。まさか“あれ”を砂糖醤油で煮込むなど考えられない。
 額に厭な汗をかいて固まっている縁の姿に気付いていないのか、は楽しそうに、
「この前の往診の時に、洋梨の赤ワイン煮っていうのを戴いたの。で、洋梨の代わりに梨を使って作ってみたのよ。びっくりした?」
「………………」
 の説明に、縁は唖然とする。確かに彼女の予想通り驚いた。しかしその驚きは、別の方向でのものだが。
 洋梨の代わりに普通の梨というのは、まだ理解できる。しかし、赤ワインの代わりに醤油というのは、普通の人間の発想の右斜め上を滑りすぎだ。せめて、日本酒か何かで煮て欲しかった。それにしたって、悲惨な結末にはなっていただろうが。
 普通に切って出してくれれば良いのに、どうしてこんな要らない手間をかけて素材を破壊してくれるのか。これを食えというのは、ある意味拷問である。
 けれど、にこにこ笑っているの顔を見ていると、「こんなもの食えるカ!」と付き返すことも出来ない。それが出来るくらいだったら、“茹で太刀魚の苺ジャム和え”を出された時にやっている。
 まあ、梨は縁も好きだ。ワインの代わりに砂糖醤油で煮たとしても、それが意外と美味いかもしれないではないか。上海で武器商人をやっていた頃、西洋料理店で豚肉に干し葡萄と林檎を煮たものをつめた料理を出された時も、こんなもの食えるかと思ったが、意外と美味かったということもあった。何事も先入観というのはいけない。
 自分でも無理のある言い訳だとは思ったが、縁は自分にそう言い聞かせると、勇気を振り絞って梨を一口食べた。
「………う………」
 口に入れた刹那、縁は大きく目を見開いたまま固まってしまった。
 結論から言うと、かなりの破壊力のある不味さである。こんなもの、野良犬も食べないだろうと思われるほどだ。当然、身体が拒否して飲み込むのも難しいくらいだが、そこは気合でどうにか飲み込む。
「どう? 美味しい?」
「う…………」
 普通なら「こんなもの食えるかっ!」と怒鳴りつけた挙句に、相手の顔面に向かってこの謎の物体を投げつけてやるところだが、巴に似た屈託の無い笑顔で問われると、涙目になりながらも小さく頷いてしまう。それが地獄への片道切符だとは解っているのに、だ。毎回、この過ちの繰り返しである。
 縁の返事に、の顔がぱぁっと明るくなる。不味さのあまり涙目になっているのも、美味しくて感動していると勘違いしているようだ。
「じゃあ、お替り持ってきてあげる。まだ沢山あるのよ」
「………え゛」
 縁は顔を引き攣らせるが、はそんな様子には気付かないのか、ぴょんと跳ねるように立ち上がると、軽やかな足取りで台所に消えた。
「あー………」
 目の前にある半個分の梨の醤油煮を処理するのも出来るかどうか謎なのに、お替りまでとは。新手の拷問としか思えない。
 けれど、「もういらない」と言うとが悲しそうな顔をするし、これは出されただけ食うしかないだろう。しかし残さず食べると、好評だったと彼女が勘違いして、また作るということもありえるわけで―――――
「姉さん、どうすれバ………」
 次回作を作らせず、尚且つを傷付けない方法は無いものか。縁は頭を抱えて苦悩するのだった。
<あとがき>
 某巨大掲示板の“嫁のメシがマズいスレ”を見て思いついたネタです。世の中は広いもんで、本当に梨を醤油で煮たり、ドリームでは太刀魚でしたが、茹でた秋刀魚に苺ジャムをまぶしちゃう奥さんがいるんですよ。メシマズ嫁、自分では食わんのか?
 創作料理というのは、センスがある人が作ると凄く美味しいものが出来るのですが、一歩間違えば激マズ料理の出来上がりですからね。私は自分のセンスに自信が無いので、創作料理は作りません。普通に煮るだけとか、普通に焼くだけに徹しています。普通の料理なら、余程のことが無い限り、誰でも美味しく作れますからね。
 しかし縁も、とんでもないところに転がり込んだものです。メシマズ嫁の旦那さんたちは、「愛があればLove is OK!」な感じのノリのようですが、果たして縁は………?
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