兎の名案
夕食の後、いつも通りを家に送ってやって、斎藤は帰宅した。「あれー、帰ってきたんですかぁ?」
斎藤が家に上がると、兎がぴょんと出迎える。
いつもというわけではないが、満月の日にはこの兎は人間の言葉を喋ることがあるのだ。斎藤も最初こそは驚いたが、今ではもう慣れた。考えてみれば、と入れ替わって人の姿をとることができる兎だから、兎の姿のまま人の言葉を喋っても不思議は無い。
「帰ってきたら悪いか。俺の家だ」
兎の言い草に、斎藤は箪笥の引き出しから着替えを出しながら不機嫌に応える。兎が口を利く時は、大体言うことは決まっている。
案の定、兎はいつものようにわざとらしく大きな溜息をついて、呆れたように言った。
「まったく、お互いの家を行き来するのにお泊りはしないって、どこか悪いんですか? 雌が雄の家に行くっていうのは、そこに住んで赤ちゃんを産んで良いっていう意味なんですよ?」
「それはお前らの世界の理屈だろう。人間の世界とは理屈が違う」
獣の世界は本能のままに生きれば良いが、人間の世界で兎の理屈を通したら犯罪者になってしまう。人間の世界はこういうことは順序立ててやらなければならないし、特には晩熟な方だから普通よりも時間をかけてやらなくてはならないのだ。
斎藤だって、相手がでなければとっくに手を付けている。一年経っても頬に接吻止まりなど、彼の人生では初めてのことだ。
「それにしたって、私が来てからずっとこの調子じゃないですか。やり方が分からないなら、私が教えてあげましょうか?」
不機嫌顔の斎藤に怯むことなく、兎は鼻をひくひくさせて偉そうに言う。
兎が人間様に教授するとは笑止千万だが、兎の知恵がどれほどのものか興味がある。どうせ碌な知恵ではないだろうが、まあ小咄程度には楽しめるだろう。
箪笥から出した着替えを畳に置いて兎の前に座ると、斎藤は面白そうにニヤリと口の端を吊り上げる。
「お前の知恵がどれほどのものか聞かせてもらおうじゃないか。どうせ碌なものじゃないだろうがな」
「まあ、簡単なやり方ですよ。とりあえず今の季節だったら葡萄大福を山ほど用意してください。無ければ、栗饅頭でも良いです」
「食い物で釣るのか? 馬鹿馬鹿しい」
兎らしい提案に、斎藤は鼻先で哂う。兎の世界ならともかく、人間の世界に食い物で釣られる女などいるわけがない。いくらが何も考えていないように見えても、流石にその手には引っかからないだろう。
が、兎は得意げに鼻をひくひくさせて、
「でも、結構使える手ですよ。私たちの世界でもそうですけど、雌が好物に夢中になってるところを、後ろからがばっと。斎藤さんはさんよりもずっと体が大きいから、押さえつけたら逃げられないし、孕ませちゃえばこっちのものですよ」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
それは普通に犯罪だ、と突っ込みたかったが、あまりにも馬鹿馬鹿しすぎてその気にもならない。あまりにもしょうもない案に頭痛までしてきて、斎藤は指先でこめかみを押さえながら溜息をついた。
兎の知恵をまともに聞こうとしたのが馬鹿だった。人の言葉を喋ったり、他の兎よりは知恵の多い素振りを見せるから少し期待していたのだが、所詮は獣。人間と同じ理性的な作戦など考え付くわけがないのだ。
が、兎自身は名案だと思っているらしく、褒められるのを待つように耳をぱたぱたさせて斎藤を見上げている。
説教してやって人間の世界の理屈を教えてやるべきなのかもしれないが、斎藤にはその気力も無い。説教したところで、何故自分が叱られたのか理解できないだろう。
だから説教の代わりに、斎藤は兎の耳を2本纏めて掴んで持ち上げる。
「いたたたたっっ!! 耳痛いですーっっ!! 千切れる―――っっ!!」
悲鳴を上げて前足と後ろ足をばたばたさせて暴れる兎と目線を合わせて、斎藤は一言一言言い聞かせるように力を込めて言う。
「お前らの世界ではともかくとして、人間の世界ではそれは犯罪だ。憶えとけ!」
それだけ言うと、そのままぱっと手を離した。どすん、と畳に尻餅をつくと、兎は耳の違和感を振り払うようにぷるぷると頭を振る。
「まったく、兎なんかの話を聞こうと思った俺が阿呆だった!」
用意していた着替えを取ると、斎藤は憤然と立ち上がった。
「えー? でも、この調子じゃ、来年の今頃になってもこのままのような気がしますよ? 早いところ手を付けとかないと、若い雄に取られちゃいますよぉ?」
風呂に向かう斎藤の足に纏わり付くように後を追いかけながら、兎はにやにや笑いながら言う。
「……………っ!」
兎のくせに、一番痛いところを突いてくる。これには斎藤も言葉に詰まってしまった。
確かにこの調子では、来年の今頃は良くて口に接吻止まりのような気はする。若い男に取られるということはまず無いと思うが、しかし深町はに兎の匂い袋をやったりして狙っている素振りを見せているし、うっかり繋がりを持ってしまった左之助だって油断はならない。一応左之助の方が年下だが、あんなに可愛い彼女を狙わないとは限らないではないか。
深町にも左之助にも勝つ自信はあるが、が狙われているかもしれないと思うと腹が立ってくる。やはり、兎の案を採用してでも手を付けておくべきだろうか。
自分の危険な考えに、斎藤は慌てて頭を振った。兎の戯言なんかを真に受けるなど、どうかしている。は斎藤に夢中になっているのだし、他の男からの誘惑など天然で撥ね返すはずだ。手を付けようと付けまいと、そんなことは関係ない。
とはいえ、斎藤も健康な成人男子。一年過ぎてもこの状態というのは少々困る。かといって、その手の店で発散してそれがにバレでもしたら軽蔑されてしまいそうで、それもできない。
やはり兎の“名案”を採用するべきだろうかと、斎藤は眉間に皺を寄せて悩んでしまうのだった。
実はずっと昔から温めていたネタです。その割にはくだらねぇ………(笑)。
兎部下さんシリーズは、兎と部下さんが入れ替わったり、兎が喋りだしたり、ありえない設定を普通に書きやすいシリーズですね。主人公さんがアレなだけに、メルヘンなんですよ。
しかし兎さん、最初はもう一寸しおらしい性格だったんだがなあ………。動物なだけに、一旦図々しくなると、際限なく図々しくなってしまうのでしょうか。っていうか、これだけズバズバものを言えるってことは、斎藤家での扱いはそう悪くはないってことですかね。