夕涼み

 京都の夏は暑い―――――らしい。は此処以外に住んだことが無いから判らないが、蒼紫がそう言っていた。
 『葵屋』で働く前の蒼紫は、日本中を旅していたらしい。何故そんな生活をしていたのかは知らない。そしてその間、何をしていたのかも。
 今の蒼紫の姿を見ていれば、犯罪絡みのことをしていたわけではないと思うから、今更無理に知ろうとは思わない。誰にだって語りたくない過去の一つや二つくらいあるし、これからもずっと“今の蒼紫”のままだったら過去がどうでも構わないとは思っている。
「うわっ?! どうしたんだ?!」
 いつの間にか家に上がりこんでいた蒼紫が、の姿を見てぎょっとした声を上げた。
「んー、暑いから涼んでたの」
「死んでるのかと思ったぞ」
 の前にしゃがみこむと、蒼紫は抱いていた仔猫の霖霖を床に下ろす。
 死んでるのかと思ったなんて大袈裟な、とは噴き出しそうになったけれど、今の自分の姿を見ればそれも仕方が無いかと思い直した。
 は今、厨房の床にうつ伏せになってベターっと寝転んでいる。畳は暑苦しいし、縁側は日当たりが良すぎて板が焼けそうに暑いし、あまり日が射さない厨房が一番涼しいからだ。
 蒼紫がいない休みの日はいつもこうやって過ごしているのだが、やはり行儀の良いものではない。彼が来たのに気付かなかったのは迂闊だった。
「百年の恋も冷めちゃう?」
 寝そべったまま、はくすくす笑う。
「冷めはしないが、びっくりした。もう夕方なんだが、まだ此処で寝てる気か?」
 困ったような苦笑いを浮かべて、蒼紫が尋ねた。続けて、
「どうせ涼むなら、縁側にしたらどうだ? もう風が涼しくなってる」
「でもまだ板が熱いわ」
 日が暮れると風は少し涼しくなるけれど、まだ床板には余熱が残っている。これがまた暑苦しいのだ。
 ふと見ると、霖霖は隅っこの風が通り抜ける小さな隙間に潜り込んでいる。霖霖もと同じく暑さに弱いようで、こういう涼しい隙間を見つけることには天才的な才能を持っているのだ。その霖霖が此処にいるのだから、まだ縁側は暑いということなのだろう。
「霖霖はこっちが涼しいって言ってるわ」
 の言葉に、蒼紫は呆れたように溜息をついた。そして、
「じゃあ、夕飯はどうするんだ? 俺が作っても良いが、そんなところに寝転ばれていたら邪魔で仕方が無い」
「あら、優しいお言葉」
 蒼紫の提案が嬉しくて、はくすくす笑う。
 最近、暑さでがバテている時は、蒼紫が代わりに夕御飯を作っているのだ。勿論、まだ初心者だから簡単なものしか作れないし、それもが後ろから指示を出していることが多いけれど、でも彼女にすれば凄く助かるし嬉しい。
 男というのは大抵、家に女がいると台所に立ちたがらないものだけれど、蒼紫はそういうことには頓着しない性質らしい。彼が作ったものを、が大袈裟なくらいに褒めてやっているのが良かったのかもしれない。褒めるとその気になって、更に高度な技術を身に付けようと頑張るくらいなのだ。
「そこに寝ているなら、御飯だけ炊いて、おかずは惣菜だぞ」
「あー、それで良いわ。冷奴と酢の物が食べたい」
 今日はあまり食欲もないし、御飯だけ炊いてくれればとしてはありがたい。本当は、御飯もいらないくらいなのだが、折角蒼紫がやる気になってくれているのだから、ありがたく食べさせて貰うつもりだ。
「そんなのじゃ、益々バテるぞ。そうだ、鰻の蒲焼きを買ってこよう。丁度今日は土用の丑の日だし」
「えー………」
 如何にも名案だと言いたげな蒼紫の口調とは正反対に、はうんざりとした声を出してしまう。こんなに暑いのに、鰻なんて脂っこいものを食べる気にはなれない。
「“えー”じゃない。鰻は夏バテに良いんだぞ。ちゃんと身になるものを食べないと、病気になったらどうするんだ」
 蒼紫に説教をされて、はなんだか理不尽な気持ちになる。いつもはが蒼紫を叱っている立場なのに逆転するなんて、ありえない。
 けれど、蒼紫の言うことが正しいのは、にだって解っている。鰻が夏バテに効果的なのは本当だし、冷奴や酢の物だけでは夏バテに拍車をかけることも理解している。けれど、いくら体に良いと言われても、体調が優れない時に脂っこいものを食べる気にはなれないのだ。
 むぅっと黙り込んでいるの顔を覗き込んで、蒼紫は困ったように溜息をつく。連日の暑さのせいでの体力が落ちているのは判っていたし、このままではいけないと思って言っているのに。このまま喉ごしは良いけれどあまり栄養の無いものばかり食べて続けて、本当に病気になったら取り返しが付かないではないか。
 だって、蒼紫の気持ちは判っている。心配してくれるのも嬉しいけれど、でもどうしても食べたくないのだ。蒼紫の気持ちに応えられないのは申し訳ないと思うし、自分の体のためにも彼の言うことをきかなくてはいけないとは思っているのだが。
 そうやってお互いの顔を見合ったまま黙り込んでいたけれど、蒼紫が急に思い付いた顔をした。
「そうだ。蒲焼じゃなくて白焼きだったら食べられるだろう? わさび醤油で食べたら、さっぱりして食べやすいだろう?」
「ああ………」
 少しだけ、の表情が明るくなる。
 それなら少しは食べられるかもしれない。これに冷酒が付いたら、最高だ。考えてみれば、最近は全然酒を飲んでいないし、たまには縁側で夕涼みをしながら二人でお酒、というのも風流なものだ。
 ただ、問題は蒼紫に飲ませると絶対にに抱きついてくるということ。抱きつかれるのは嫌ではないが、あまりベタベタされると暑苦しいから、一寸困りものだ。
 そんなことを考えていると、自然との口許に笑みが零れた。日が暮れて少し涼しくなったせいか、気持ちも少し浮上したようだ。
「ね、鰻の白焼き買ってくるなら、お酒も一緒に買ってきて。いつもの銘柄ね」
「はいはい」
 少し甘えを含んだの声に、蒼紫も口許を綻ばせる。彼女から甘えられるのは嬉しいようで、まるで子供の我が儘を聞いてやる父親のようだ。完全にいつもと立場逆転である。
 でもこういうのも、たまには悪くない。だって、たまには蒼紫に甘えてみたいのだ。
 立場が逆転して楽しいのは蒼紫も同じなのか、笑いながら立ち上がる。
「じゃあ、買ってくる」
「うん、早く帰ってきてね」
 寝転がったまま、は出て行く蒼紫に手を振った。
<あとがき>
 いつの間にやら、皿洗いどころか料理の技術を取得していたようです、蒼紫。褒めて伸ばしてあげるのがコツなんですね。あんまりやりすぎると、同じ料理が連日出てきそうですが(笑)。
 蒼紫の花婿修行が終わったら、同居です。そう言って蒼紫に花婿修行させてそうだな、主人公さん。だから蒼紫も一生懸命頑張って家事を憶えようとしているんですよ(笑)。「これが出来たら一緒に暮らせるんだ、頑張れ俺!」みたいな。(笑)。
 で、次は念願の同居編です。主人公さんの実家に行ってご挨拶、から始めたいですね。………って、この蒼紫、きちんとご挨拶できるのかな。『電車男』みたいに噛みそうです。(笑)
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