夕涼み
梅雨が明けたら、あんなに毎日じめじめしていたのが嘘のように晴天が続いている。洗濯物がすぐ乾くようになったのはありがたいけれど、猛暑で昼間に外に出ると干からびてしまいそうだ。まあ、時折巡回に出る斎藤はともかく、は完全な内勤なのだから、日が照る中を外に出ることは無いのだが。昼間は暑いけれど、日が落ちれば幾分涼しくはなる。家の中はまだ昼間の熱気が籠っているせいで暑いけれど、風通しの良い縁側はまあまあ涼しい。だから最近は、縁側で夕食というのが定番だ。
今日は特に暑い日で斎藤ももあまり食欲が無かったから、夕食は天ざる蕎麦とおにぎりだ。斎藤は蕎麦だけで良いと言ったけれど、今からそれでは夏バテをしてしまうから、が無理矢理食べさせている。斎藤は痩せているから夏バテして倒れたら大変だと、彼女は栄養管理までしているのだ。
「昼間に比べるとマシだが、こう暑いとあんまり濃い味のものは食べたくなくなるな」
目の前の天ぷらを見て、斎藤がうんざりしたように溜息をついた。味の濃いものといっても、給料前で斎藤に渡された食費も残り少ないから、野菜の天ぷらしかないのだが。
「駄目ですよぉ、ちゃんと食べないと。大葉だけでも良いから食べてくださいよ。お昼だって、ざる蕎麦しか食べてなかったじゃないですか」
黙って見ていたら蕎麦しか食べなさそうな斎藤の蕎麦猪口に、は無理矢理大葉の天ぷらと、ついでに蓮根の天ぷらも突っ込む。
「〜〜〜〜〜〜〜〜」
天ぷらが半分以上はみ出している蕎麦猪口を見詰めて、斎藤はあからさまに嫌そうな顔をする。けれど自分の取り皿にあるものは絶対に片付けなければ気が済まない性格だから、この二つは確実に食べるだろう。
以前だったら、斎藤が何かを食べなくてもは何も言えなかったけれど、今は違う。は斎藤の恋人で、だから彼の栄養管理をしなければならないのだ。鬱陶しがられても“斎藤のため”という大儀名分があるから強気である。
給料日が来たら、鰻の白焼きとか刺身とか、もう少し食べやすくて精の付きそうなものを買ってこなければ。去年の夏は斎藤はバテ気味だったから、今年は絶対バテさせないようにしなくてはとは決心する。
蕎麦猪口を見詰めながらそんなことを考えていると、斎藤は蕎麦猪口を置いて立ち上がった。
「こうなったら、酒でも飲まんと食欲が出んな。明日は休みだし、お前も付き合え」
そう言うと、斎藤はの返事を待たずに厨房に消えた。
斎藤と晩酌など、初めてのことだ。厨房に清酒の一升瓶が置かれていたから、斎藤が酒好きなことはも知ってはいたけれど、いつも彼女が帰った後に独りで飲んでいるようだったから、お相伴に預かったことは無い。
けれど、斎藤と差し向かいで晩酌など、“大人の女”と認めてもらえたようで、は嬉しくなってしまう。はあまり酒は飲まないけれど、別に嫌いというわけではない。そもそも、斎藤が勧めてくれるものなら、焼酎でも濁酒でも美味しく飲めるに決まっているのだ。
斎藤に勧められるままに飲んで、酔っ払って家に帰れなくなったらどうしよう、とはにやにやしながら妄想の世界に旅立つ。明日は休みだから此処に泊まっても問題は無いだろうけれど、でも何かあったらどうしよう。斎藤は酔い潰れた女に悪さをするような卑怯な男ではないと信じているけれど、万が一ということもあるではないか。
“初めて”の時は身体が裂けるように痛いと聞くから、酔っ払って何が何だか判らないうちに済ませた方が楽なような気がする。けれどそんなのではあまりにもなし崩しであるし、思い出も何もあったものではない。やはりこういうことは、死ぬほど痛くても、きちんと意識がはっきりしている時に手順を踏んで済まさなくては。
まだそんな心配をする必要も無いのに勝手に決意をしていると、斎藤が盆に徳利と猪口を持って戻ってきた。
「どうしたんだ、そんな難しい顔をして?」
「な……何でもないですっ!!」
怪訝な顔をして訊く斎藤に、は真っ赤な顔をして思いっきり首を振りながら応える。あんなことを考えていたと知られたら、恥ずかしくて二度と彼の前には出られない。
の過剰な反応に、斎藤は益々怪訝な顔をしたけれど、何も言わずに自分の席に座る。大方、いつもの妄想だと思っているのだろう。妄想癖を知られているのは恥ずかしいとはずっと思っていたけれど、今回はこれで助かった。
自分との前に猪口を置いて、斎藤が酌をする。もお返しをしようと手を伸ばしたけれど、あっさりと断られてしまった。酌をされるのは、あまり好きではないらしい。としては、差しつ差されつというのをしてみたかったのだが。
「甘口で水みたいに癖が無いから、お前にも飲めるだろう?」
一口飲んでみると、確かに斎藤の言う通り全く癖が無くて、でもすいすい飲めそうだ。斎藤は辛口の酒が好きだと勝手に思い込んでいたけれど、こういう酒も飲むとは意外だった。
そうやって酒を飲みながら食べていると、それまでの後ろで人参を齧っていた兎が、何を思ったのか急に斎藤の方に走って行った。そして鼻をひくひくさせながら斎藤の膝に前足を乗せて、おねだりをするように身体を伸ばす。
「何だ、お前も飲みたいのか?」
笑いながらそう言うと、斎藤は薬味を入れていた小皿を床に置いて、少しだけ酒を注ぐ。そうすると兎は嬉しそうに耳をぱたぱたさせながら、音を立てて飲みだした。
「兎さんにもお酒を飲ませてるんですか?!」
咽もせずに楽しそうに酒を飲んでいる兎の様子に、は思わず悲鳴のような声を上げた。
たまに犬を晩酌の相手にする者はいるけれど、体の小さな兎に飲ませるとは。人間にとっては僅かな量でも、兎にとっては大変な量になってしまうかもしれないのに。飲酒のせいで頭がどうにかなったり、死んでしまったりしたら大変だ。
けれど斎藤は、そんなことは全く気にしていないようで、
「こいつ、結構いけるクチらしいぞ。お前らが入れ替わった時に飲ませてやってから、飲んでるといつも欲しがるんだ」
「えーっ?!」
一度兎とが入れ替わった時に、の姿をした兎が斎藤と外食に行って、酔っ払って帰ってきたことがあったけれど、あれで味をしめてしまったのか。飲酒癖のある兎など、東京中探してもこの兎意外にはいないだろう。
あっという間に皿の酒を飲んでしまうと、兎はお替りをねだるように後ろ足で立って、前足をぱたぱたさせる。兎の体では結構な量のはずなのだが、まだ飲みたいらしい。斎藤の兎なだけに、酒豪兎なのかもしれない。
二杯目はやらないと思いきや、斎藤は面白がってまた同じだけ酒を注いでやる。酒が入っているせいか、いつもより上機嫌のようだ。
「今日はいつもより良い酒だからなあ。お前にも違いが判るか」
「これ、いつも飲んでるのじゃないんですか?」
当たり前のように出されたから、はてっきりこれがいつもの酒だと思っていた。
「ああ、これは客用の酒だからな。兎と飲むんだったら、安い酒で十分だ」
「お客さん用………」
斎藤の家に客が来るなど、が知っている範囲では全く無い。ということは、この酒はと晩酌しようと思って用意してくれた、彼女専用の酒と解釈しても良いのだろうか。のために甘い酒を用意してくれていたのだとしたら、凄く嬉しい。
「それって、あたしのために買ってくれたってことですか?」
酔っているせいか、思ったことがそのまま口から出てしまった。その瞬間、それまで楽しそうに兎の背中を撫でていた斎藤の動きが止まる。
固まったまま、斎藤の目が充血したように赤くなって、眉間に皺が寄ってきた。どうやら図星だったらしい。
もう恋人なのだから、それくらいのことでいちいちそんな顔をすることも無いのに、とは不機嫌顔の斎藤を見ながら思う。こうやって照れる斎藤を見るのも好きだけれど、「そうだな」と認めてくれたらもっと嬉しいのに。
暫くそうやって固まっていた斎藤だが、一つ咳払いをして何事もなかったように箸を取った。
「ほら、さっさと食わんと、蕎麦が固まるぞ」
何か言ってくれるかと期待していたのに、あっさりとはぐらかされてしまい、は不満げにぷぅっと膨れる。
斎藤はグサッと来ることは直球で言うくせに、こういうことは全然言ってくれない。釣った魚にやる餌は品物だけではなくて、言葉だって必要だ。餌をもらえなければ、どんなに好きでも“好き”という気持ちは飢え死にしてしまう。
斎藤はああいう性格だから、そういう言葉を期待するのは間違っているのかもしれないけれど、でもたまには言ってくれないとは不安になってしまう。「ずっと一緒だ」とは言ってもらったけれど、でもやっぱり不安だ。
斎藤はよりもずっと大人だから、同じく大人の落ち着いた女が相応しいと思う。そういう女が彼の前に現われたら、彼がその女の方に行ってしまうのではないかと時々もの凄く不安になるのだ。別に、斎藤のことを信用していないわけではないのだけれど、その考えが頭から離れない。
ただの上司と部下だった時は、斎藤と本格的に付き合うようになったら、なんて妄想をして楽しかったのに、それが現実のものになると苦しくなってしまうなんて。恋人になった後の方が不安になるなんて変だけれど、恋するというのはそういうことなのだろうか。世間の恋人たちもと同じ思いを抱えているのだろうかと、一寸考えてみる。
「まあ、此処にはお前しかいないんだから、実質お前のための酒だな」
突然、斎藤がポツリと言った。
びっくりしてが顔を上げると、既に斎藤はいつもの顔に戻っていて、何事も無かったように蕎麦を啜っている。
これはのための酒だと、確かに言ってくれた。と二人で飲むために、わざわざ斎藤が選んで買ってくれたのだ。
嬉しくて嬉しくて、は笑顔全開になる。たったこれだけのことでこんなに嬉しくなるなんて自分でも単純だと思うけれど、あの斎藤が言ってくれたというのが凄く嬉しい。
「それならこれから夕涼みがてら、一緒に晩酌しましょうね。兎さんとするより、あたしとする方がずっと楽しいですよ」
一寸図々しいかなと思わないでもなかったけれど、しっかり売り込みもする。は兎と違って料理もできるし、お喋りもできるのだから、兎を相手に黙って酒を飲むよりも楽しいはずだ。
「そうだな」
の弾む声に、斎藤は小さく口を綻ばせて応えた。
兎部下さん“恋人”認定されたら、いきなり世話女房です。「もぉ、あたしがちゃんと見てあげないと、すぐにだらしない食生活になるんだから(プンプン)」みたいな感じですかね。結構楽しそうだな………。
最近気付いたんですけど、兎部下さんって可愛い振りをしながら、全てを自分のペースに持ち込んで何もかも思い通りにしてますよね。もしかして、結構欲望に忠実で強かなタイプ………? まあ、斎藤も「可愛いから許すかな」って感じなんで、問題無しですが(笑)。
これで一応、兎部下さんと斎藤の12ヶ月は終わりです。兎部下さんが斎藤の家に転がり込むことから始まったこのシリーズ、一年でやっとほっぺにちゅうと兎のくせに鈍足ですが、これからもこのペースでまったりと進めていきたいと思います。