斎藤が、蛍狩りに行こうと言い出した。彼と二人で出掛けるなど、初詣以来のことだ。
 斎藤は何も言わなかったけれど、きっとこれは逢い引きなのだろうとは思っている。まだ頬に接吻しかしていないけれど、と斎藤は一応恋人なのだ。
 光りながらふわふわと飛ぶ蛍を見ているうちに、何か起こらないだろうかと、は一寸期待してしまう。蛍が光るのは求愛の印だというし、そんな蛍を見ているうちにそういう雰囲気になると良いなあと思うのだ。斎藤は先を急ぐ必要は無いと言うけれど、女学生ではないのだから、やっぱり接吻は口にして欲しい。
 今日は斎藤は残業するということで、仕事が終わってからの家に誘いに来るのだそうだ。その間には風呂に入って花の香りのする石鹸で念入りに磨いて、お洒落をして待っている。大人っぽい蝶々柄の紺色の浴衣を着たら、きっと斎藤だって見直してくれるはずだ。帯は何色のを合わせようかとか、髪飾りは何を使おうかと考えるのが、凄く楽しい。
 こうやって準備をしている間も、の胸はずっとドキドキしている。多分蛍を見るだけで終わってしまうだろうけれど、何かあるかもしれないと想像するのが楽しいのだ。何も無いかもしれないけれど、確実に何もないとは言い切れないのだから。
 “何か”があることを想像すると、化粧をする手も止まって真っ赤になってしまう。斎藤は「楽しみは先に取っておいた方が良い」と言うけれど、これまでだって随分と先延ばしにしてきたんだし、雰囲気に流されて………ということもあるかもしれないではないか。としては、軽い接吻までなら今夜でも良いと思っている。
 斎藤と接吻するというのはどんな感じだろう、とは想像してみる。暇さえあれば煙草を吸っているのだから、やっぱり煙草の匂いがするのだろうか。見た目からして、の唇よりは硬い感触がするかもしれない。
 そんなことを考えていると、玄関の戸を叩く音がした。斎藤が来たのだ。
「用意できたか?」
「はーい」
 急いで口紅を塗るとは外に出た。
 姿を現したを見て、その姿に斎藤は一瞬呆然としてしまった。
 髪の結い方と口紅の色がいつもと少し違うだけなのに、幼さが抜けているというか、いつものとは全く違う。浴衣姿というのも新鮮で、かける言葉にも迷ってしまうほどだ。女は魔性のものというけれど、化粧や着るものでこんなにも変わるとは思わなかった。
「今日は随分とまあ……めかしこんだものだな」
 できるだけ平静を装っているつもりだが、斎藤の声は動揺のためか少し声が掠れている。
 目の前のはまるで初めて初めて見る女のようで、斎藤もどう反応して良いのか解らなくてついまじまじと凝視してしまう。髪型も化粧も着物も、一つ一つは取るに足らないほどの小さな変化であるが、それが纏まって来るとこんなにも大人っぽい女に出来上がるのかと思うと、不思議な感じだ。
「変……ですか?」
 いつもの方が良かったのかと不安になって、は上目遣いで恐る恐る尋ねる。
「いや………。いつもと違っていたから、少し驚いただけだ。変じゃない」
 上目遣いで見るの表情は、いつもと同じだ。それには斎藤も少しほっとした。
 しかし―――――幼い表情を見せるにほっとする自分を振り返ると、斎藤の気分は少し複雑だ。これまではどちらかというと、落ち着いた雰囲気のしっとりとした美人を好んでいたというのに、こんな童女のような女が良いと思うとは、自分でも一寸複雑だ。何処ぞの伊達男と違って童女趣味は無かったはずだが、幼い表情を見せるにほっとするというのは、自分でもどうかしていると思う。
 斎藤の言葉が嬉しかったのか、はふふっと嬉しそうに笑う。そして、
「初めての逢い引きだから、一寸気合を入れちゃいました」
「逢い引き………」
 のあまりにも直接的な言葉に、斎藤は今更ながら恥ずかしくなってしまう。“逢い引き”であることは間違いないのだし、斎藤もそうだとは思っているのだが、それでもこうはっきりと言葉にされるのはかなり恥ずかしい。
 目の縁を少し紅くして戸惑った表情をする斎藤を見て、それまで楽しそうだったが途端に不安げな顔になる。
 は逢い引きだと思っていたのだが、斎藤はそうは思っていなかったのだろうか。初めての逢い引きだと思って浮かれていたのに、それがただの先走りだったら悲しい。そういえば、まだ斎藤には「ちゃんと付き合おう」ということは言われてはいないのだ。
 そう思ったら、は急に不安になってきた。頬に接吻をしたくらいで恋人気取りの図々しい女と思われたらどうしよう。
 不安げな目でじっと見上げるの視線に、斎藤は気まずくなって少しだけ顔を赤くして顔を逸らした。逢い引きだときちんと言ってやってやるべきなのだろうが、言葉にするのは何となく恥ずかしい。そういうのは言われなくても察しろと言いたい。
 けれどが言葉にして欲しいと望むなら、言ってやるべきだろう。一寸恥ずかしいが、それで彼女の不安が取り除かれるのなら、安いものだ。
 斎藤は一つ咳払いをすると、緊張を解すように小さく息を吐いた。
「まあ、そうだな。それだ、うん。
 ぐずぐずしていると帰りが遅くなるから、もう行くぞ」
 言っているうちに恥ずかしくなって、斎藤はさっさと歩き始める。
 不機嫌な声で言われて、怒らせてしまったのかと、は小走りに追いかけながら斎藤の顔を窺う。が、そうすると斎藤は益々顔を背けて、それで漸く照れているらしいことを理解した。
 たったこれくらいのことでここまで照れるなんて、も薄々は感じていたが、斎藤は相当な照れ屋らしい。見かけは恐いし、10歳も離れているけれど、でもそういうところは可愛いなあとは思う。そして、そういう面を知っているのが自分だけだとしたら、凄く嬉しい。
 ここで手を繋いだらどうなるかな、とは一寸想像してみる。繋いでみたいけれど、今以上に照れて大変なことになってしまいそうだ。照れ隠しに手を振り払われても嫌だし、今日のところは我慢する。
 今はまだぎこちないけれど、早く自然に手を繋げるようになれば良いなあと思いながら、は斎藤と並んで歩いた。





 斎藤が連れて行ったのは、町外れにある雑木林だった。
 灯りも無くて真っ暗で、足許もおぼつかない。周りには人もいないし、はだんだん怖くなってきた。何かあっても、斎藤が一緒だから暴漢でも痴漢でも撃退してくれるだろうが、幽霊でも出たら怖い。何しろ此処は、維新の頃は激戦地だったのだ。
 も幽霊や物の怪を信じているわけではないのだが、でもこういう曰く付きの土地を歩く時はやはり“出る”のではないかと一寸思ってしまうのだ。
 斎藤とはぐれないように、着物の袖を握ってぴったりとくっ付いて歩く。胸がドキドキするけれど、彼とくっ付いているせいなのか、ただ単に怖いからなのか、自身にもよく判らない。
「どうした? 怖いのか?」
 真っ暗で斎藤の表情は見えないが、彼の声はからかうように笑っている。
「こ……怖くなんかないですっ」
 即座に答えてしまった後、正直に「怖いです」と言った方が可愛かったかなあ、とは少し後悔した。「怖いです」と言ったら、「俺が一緒なんだから怖いことなんかない」なんて肩を抱いてくれたかもしれないのに。
 けれど斎藤が肩を抱いてくれたりしたら、もっと身体がくっ付いて、もっとドキドキして歩けなくなっていたかもしれない。まだ手を繋いだだけで、緊張して声も出ないくらいなのだから、もし肩を抱かれたりしたら、は気絶してしまうかもしれない。
 そんなことを考えながら歩いていると、二人の前にふよふよと小さな光の玉が飛んできた。
「わぁああああっっ?!」
 びっくりして色気もへったくれも無い悲鳴を上げると、は思わず斎藤に抱きついてしまった。
 幽霊が出そうだと思ってはいたけれど、本当に人魂が飛んでくるとは。人魂だけではなく幽霊まで出てきて、祟られでもしたらどうしよう。
「どうした? 蛍を見に来たんだから、そんなに驚くことはないだろう」
 震えるの頭の上で、斎藤の笑う声が聞こえた。
「あ………」
 よく見ると、光の玉の正体は蛍だった。平安時代ではあるまいし、明治も10年が過ぎた現代で、幽霊だの物の怪だの出るわけがない。
「人魂だと思ったのか?」
 の内心を見透かしたかのように、斎藤はくくっと低く笑う。
 返す言葉が無くて、斎藤の袖を握ったまま、は顔を真っ赤にして俯いた。こういう風だから、斎藤から子供扱いされてしまうのだろう。彼に相応しい“大人の女”になろうと思っていたのに、早速これだなんて恥ずかしい。
 俯いて黙り込んでいるの姿が見えていないのか、斎藤は何も言わずにそのまま進んでいく。
 先に進むごとに、蛍の数が少しずつ増えていく。俯いていても草の陰で光っているのが見えて、周りも次第に明るくなってきた。
「ほら、此処だ」
 斎藤の声に顔を上げると、の目の前に数え切れないほどの蛍が乱舞していた。下にも光っている蛍が沢山いて、池の周囲が見渡せるくらいには明るくなっている。
「凄い………」
 も何度も蛍狩りに行ったことがあるけれど、こんなに沢山の蛍がいるのを見るのは初めてのことだ。人の手が入っていない場所だから、蛍も殖え易いのだろう。
 それに誰もが知っている場所だったら、屋台が出ていたり人が沢山いたりして蛍どころではないけれど、此処はと斎藤だけの場所だ。この沢山の蛍を二人だけで独占できるなんて、最高の蛍狩りだ。
 こんな穴場を斎藤が知っているなんて意外だった。いきなり思いついたように誘われたけれど、穴場を探して誘ってくれていたのなら嬉しい。やっぱり斎藤にとっても逢い引きだったのだ。
「此処は誰も知らない穴場なんだ。行くまでが大変だけどな」
 びくびくしながら歩いていたの様子を言っているのだろう。彼女を横目で見下ろして、斎藤は意地悪く口の端を吊り上げる。
 いつもだったらぷぅっと膨れるけれど、蛍の光に照らされた斎藤の顔は何だかいつもと違って見えて、は見上げたまま呆けた顔をしてしまう。台風の夜、蝋燭の光に照らされた斎藤の顔にもドキッとしてしまったけれど、こんな柔らかな光で照らされると、3割増でいい男に見えるような気がする。否、日光の下で見る斎藤の顔に不満があるわけではないのだが。
「どうした?」
 じっと見上げるに、斎藤が不審げな顔をした。
 まさか見惚れていたとは言えなくて、は慌てて蛍の方に顔を向ける。斎藤の顔がはっきり見えるくらいだから、きっとの顔が紅くなっていることも彼には判っているだろう。そう思うと恥ずかしくて、はますます顔を熱くする。
 これからこんなことがどんどん増えていくのに、いちいちドキドキしていたり顔を赤くしていたら大変だ。斎藤に変に思われてしまう。
 でもこうやってドキドキできるのは、恥ずかしいけど、やっぱり嬉しい。いつまでもこうやってドキドキできると良いなあ、とは思う。けれど、いつまでもこの調子だと、頬に接吻するのから先に進めそうにないから、それはそれで困るのだが。
「何でもないですよ」
 頬に接吻する以上のことでも平気だということを示したくて、は斎藤の腕に手を添えてそっと寄り添う。けれどそうすると斎藤の方が照れてしまったようで、耳まで紅くして顔を背けられてしまった。もすぐオタオタしてしまうけれど、斎藤も相当な照れ屋で、これでは先に進むのは遠い先になるかもしれない。
 それでもこうやって照れる斎藤を見るのも嬉しくて、は益々斎藤にくっ付くのだった。
<あとがき>
 兎部下さん、初めてのデートです。初めてのデートで蛍狩りとは、風流ですな。
 誰もいない蛍狩りスポットを知っているなんて、実は斎藤、こっそりと下調べをしていたのかな。春のうちから蛍の幼生がどれくらいいるかチェックして、「これなら大丈夫だ」なんて、ニヤニヤしていたりして(笑)。蛍が成虫になるまで、ヤゴとか幼生を食べる虫を駆除しに通っていたら、笑えますが。
 しかも行き帰りは灯りも人気も無い雑木林だから、兎部下さんは怯えちゃうし、肝試し的効果も抜群です。それまで考えてこの場所を選んだとしたら、斎藤も策士ですな(笑)。
 何もないまま帰っただろうけれど、蛍のお陰でラブラブ度もUPしたことですし、ま、今後に期待、ってところですね。頑張れ、斎藤!
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