雨
斎藤の家に燕を巣を作ってから、休日には彼と兎が朝からの家に来るようになった。4羽の雛の鳴き声は、相変わらず凄まじいらしい。特に今日のような雨の日にはなかなか虫が捕れないから、雛の餌をねだる声は一層大きくなるのだと斎藤が言っていた。
「梅雨とはいえ、こうも毎日朝から降ると、そのうち黴が生えそうだな」
縁側に座っている斎藤が、空を見上げてうんざりしたように独りごちる。
6月に入ってからこっち、殆ど毎日といって良いほどしとしとと雨が降っている。お陰で洗濯物は乾かないし、兎も散歩が出来なくて機嫌が悪い。今も斎藤の横で退屈そうに蹲っている。
「そうですねぇ。あ、大福食べます? 中に枇杷が入ってるんですよ」
行きつけの菓子屋で月替わりで発売されている果物大福を斎藤の前に置いて、も隣に座る。
食べ物の匂いに気付いて、それまでふてくされていたように目を閉じていた兎が、ぴくっと目を開けた。散歩が出来なくなった兎にとっては、食べることしか楽しみがないから、最近はまた食いしん坊になっているようだ。これではまた太って、斎藤に“非常食”呼ばわりされることになるだろう。
けれど、と斎藤だけで食べていると、兎が恨みがましい目でじっとりと睨むから、少しだけおやつをあげることにしている。食べ物の恨みは恐ろしいというけれど、それは兎にも当てはまるようで、一度二人だけで菓子を食べていたら、怒った兎が柱を齧りそうになったのだ。幸い、すぐに気付いて止めたから、柱は無事だったのだが。
「兎さんは、こっちだよ」
兎の前には、二枚の干し芋を置く。大福は歯にくっ付いたり、喉に詰まらせる心配があるが、これならそんな心配は無い。それに甘みも強いから、兎も大満足のようだ。確かめるように一寸匂いを嗅ぐと、すぐに嬉しそうにかぶりついた。
さっきまでふてくされていたくせに、急にご機嫌になって、兎は耳をぱたぱたさせながら干し芋を食べている。その姿がとても可愛らしくて、は小さく笑う。
「お前、普通の大福は買わんのか?」
皿に載った大福を見て、斎藤が呆れたように言った。
は季節の果物が入った大福が大好きで、いつも楽しみに買っているのだが、斎藤はそういうのは嫌いなようだ。元々甘いものは好きではないようだが、餡子の中に甘酸っぱい果物が入っているというのは「ゲテモノ」らしい。確かにも初めて見た時はびっくりしたけれど、食べてみたら凄く美味しくて病み付きになるのに、と残念に思う。
斎藤は手を付けないけれど、は早速一口齧る。甘い餡子と、さっぱりした果汁が混じるのがたまらない。
「何だか、大福が大福を食べてるみたいだな」
大福を頬張っているを見て、斎藤が可笑しそうに言った。
その言葉に、大きな大福が口を開けて小さな大福を飲み込もうとしているところを想像して、は不覚にも噴き出してしまった。よく考えたら彼女の顔が大福のようだと言われているのだが、それが解っていても可笑しい。
「ひどぉい! あたしが一回痩せたら、丸顔の方が良いって言ってたじゃないですか!」
「…………………」
これには斎藤も反論できなかったらしく、無言で視線を逸らした。が彼をやり込めるなど初めてのことだ。
こうやって斎藤をやりこめるのは、本当の恋人になったようでは嬉しい。彼ときちんと“お付き合い”するようになったら、こういう風に話したりするのだろうかと想像してみる。“上司と部下”という枠も年齢さも超えて、対等に話せるようになるのだろうか。今はまだ想像することさえ難しいけれど、いつかそんな日が来れば良いと思う。
斎藤を茶化したりやり込めたりするところを一生懸命想像していると、斎藤が空気を変えるように口を開いた。
「しかしこれだけ雨が降ると、じめじめして嫌なものだな。兎なんかいつも毛が湿ってるぞ」
そう言いながら、斎藤は軽く兎の背を撫でる。
「でも、湿度があるとお肌がしっとりして良いんですよ。あたし、乾燥肌だから、空気が乾燥するとすぐがさがさになっちゃうし」
梅雨は鬱陶しいけれど、肌のためには一番良い季節だとは思っている。脂性肌だとベタベタしすぎて困りものだが、彼女のような乾燥肌の人間には丁度良い。特には、冬はこまめに手入れをしていないと粉を吹いてしまうほどのひどい乾燥肌だから、鏡を気にしなくて良いこの時季は一寸嬉しい。
「お前、がさがさの時なんかあったか?」
そう言いながら、斎藤はの頬にぺたっと掌を当てた。その動きがあまりにも自然で、は一瞬何が起こったのか理解できなかったくらいだ。恐らく斎藤も、あまり深く考えずに触ってみたのだろう。それくらい自然な動きだった。
が、斎藤が自分の顔に触っているということを理解すると、は一瞬で真っ赤になって固まってしまった。それを見て、斎藤も今の状況を遅ればせながら理解したらしく、流石に真っ赤にはならないが硬直してしまう。
斎藤の手は一寸硬くて大きくて、そんな手がすぐ近くにあるなんて。一寸顔を動かせば唇が触れるくらい近くにあるなんて、それだけでの心臓は破裂しそうになる。茹蛸のように全身が真っ赤になって、毛細血管が破裂して毛穴からちが噴き出すのではないかと思うほどだ。
声も出なくて、口を半開きにした間抜けな顔のまま斎藤を見上げていると、の紅い顔がうつったのか、斎藤まで目の縁を紅くする。見詰め合ったまま固まってしまって、はますます顔が熱くなる。そのうち頭から湯気が出ているんじゃないかと思うくらいだ。
「………まあ、あれだ」
固まったまま、斎藤が硬い声を出した。
「気にするほどがさがさじゃないと思うぞ」
「………はい」
なんと応えて良いか解らなくて、は目を伏せたまま小さく返事をする。毎日糠袋で磨いたり、鶯の糞で顔を洗ったりして努力しているのだし、季節的にもがさがさにならないことは分かってはいるけれど、でも斎藤にそう言われるのは嬉しい。毎日一生懸命磨いた甲斐があったというものだ。
これで解放してくれると思いきや、まだ斎藤の手は離れない。離れないまま、ふっとの視界が翳った。
びっくりして顔を上げると、斎藤の顔がさっきよりも近付いていて―――――
「あ………」
もしかして接吻されるのかと、は大きく目を見開いたまま再び固まってしまう。この流れならそうなるのも不自然ではないし、接吻だけならいつでもして良いと自身も思っていたから、拒否する理由は何も無い。むしろ、嬉しくて天にも昇る心地だ。けれど同時に心臓が益々バクバクして、本当に破裂してしまうのではないかと思う。
真っ赤になって充血した目をして力一杯見詰めているの顔が可笑しくて、こんなこんな時なのに斎藤は噴き出しそうになってしまう。普通23にもなったら、接吻くらいでこんなに緊張はしないと思うのだが、こんな反応をされるとは予想外だった。これでは、まるでいたいけな子供に悪さをしているようで、どうもやりにくい。
「そんな力一杯見詰められたら、こっちが恥ずかしくなる。こういう時は目を閉じるもんだ」
近付けていた顔を止めて、斎藤は苦笑混じりに言う。
その言葉に、は本当に接吻するのだと、益々興奮で目を充血させたが、言われた通りにぎゅっと目を瞑る。あとは斎藤が来てくれるのを待つだけだ。
首を竦めてぎゅ〜っと目を瞑っているの姿を見ていると、まるで狼に食われる前の兎のようで、このままコトを進めるにはまだ早いようだと、斎藤は苦笑する。見た目通り、はまだまだお子様だ。
折角絶好の機会がやってきたのに、と思わないでもないが、今日まで待ったのだから、もう少し先延ばしにしても大して変わりは無い。が、折角機会がやってきたのだから、駄賃代わりに―――――
ちゅっ
「………へ?」
頬にやってきた感触に、は目を開けて拍子抜けした声を出してしまった。斎藤の唇が触れたのは、の唇ではなくて、頬だったのだから。
てっきり口に来ると思って、心臓が破裂しそうなほど緊張して待っていたのに、まさか頬に来るとは………。予想外の展開に、はからかわれたのかと唖然としてしまう。
そうやってじっと見詰められると、こういうことには慣れているはずの斎藤も何故か初めての時のように恥ずかしくなってしまって、目の縁を紅くして視線を逸らす。どうもの相手をしていると、いつもの調子が出ないというか、調子が狂ってしまう。
斎藤が何も言わないと、はますますきょとんとした目でじっと見上げる。そういう風にじっと見られると居た堪れなくなって、斎藤の顔は次第に不機嫌になってきた。
「そんなにじろじろ見るんじゃないっ」
横を向いたままの斎藤に咎められて、は慌てて下を向いた。
「だって、頬っぺたって………」
「お前にはまだそれで十分だ」
「えーっ?!」
まだそれで十分だ、ということは、これから暫くは頬までで足踏み状態ということか。だって十分に大人なのに、完全に子供扱いではないか。
見た目が子供っぽいから斎藤に大人として見てもらえないのだろうかと思うと、は悔しい。髪型や化粧を大人っぽく変えたら、頬ではなくて口に接吻してくれて、それ以上のこともしてくれるのだろうか。それなら、見た目を全部変えるのに。
反論しようと顔を上げると斎藤と目が合って、は恥ずかしくてまた俯いてしまう。今更ながら、頬に接吻というのは、ある意味口にされるよりも恥ずかしい。
下を向いてもじもじしていると、斎藤がいつものつまらなそうな顔に戻って言った。
「これから少しずつ慣れていけば良いんだ。急げば良いってものじゃない」
そう。がこの家に来るようになって、もうすぐ一年。それまで何もせずにずっと過ごしてきたのだ。今更急ぐことは無い。
けれどは納得できないのか、ぷぅっと膨れたまま俯いている。急げば良いというものではないとは解っているけれど、でも足踏み状態が長く続きすぎるのもどうかと思うのだ。
が何に不満なのか、斎藤にも解っている。けれど、そういうことに全く免疫の無いらしいに、いつもの調子でコトを進めたら、彼女を怯えさせるのではないかと心配になるのだ。
さっさと先に進めるのは簡単だが、それだけに見落とすことも多いと思う。だから、ゆっくりと慣らしていって、一つずつの段階を大切に踏まえていきたい。そう思うくらい、は斎藤にとって“特別”なのだ。
「これからもずっと一緒なんだ。楽しみは先に延ばしても良いだろう」
そう言いながら、斎藤は不満そうなの頬を一撫でする。
「あ………」
そうだ。これからは“上司と部下”だけではなくて、二人は“恋人”になるのだ。だから、仕事の時は勿論、それ以外の時もずっと一緒にいられる。二人で色々なことをしたり、色々なことをしたり、とにかくいつも一緒なのだから、慌てることは何も無い。
斎藤の言葉に、改めて“初めの一歩”を踏み出せたのだと実感できて、は嬉しくて嬉しくて目を潤ませる。今までに無いくらい嬉しくて、胸がくすぐったくて我慢できなくて、笑いながら斎藤に抱きついた。今までは図々しいと思われたらいけないと我慢していたけれど、もう“恋人”なのだから、こんなことも我慢する必要も無いのだ。
「はいっ!」
煙草の匂いは嫌いだけど、斎藤の身体からする煙草の匂いはとても良い匂いだと思う。これをこれからもずっと独占できるのかと思うと嬉しくて、の顔は自然とにやけてしまうのだった。
遂にほっぺにちゅうです。此処まで来るのに、ほぼ一年か。長かったなあ………。
以前は、ほっぺにちゅうをクリアーしたら、後は蒼紫の他人行儀シリーズのように一気に最後まで、と思っていたのですが、この二人は暫く足踏み状態が続くかと思います。“初カレ”に浮かれる兎部下さんを書きたいし(笑)。
キスするにしてもこの状態というのは、多分兎部下さんにとっては斎藤が初めての恋人なんだろうなあ。23歳で初めての恋人ってどうよ? と思われるかもしれませんが、深い突っ込みはするな。だって、明治時代なんだもん。“明治時代だし”で全部済ませられるんだから、時代ものってある意味楽ですね(←コラ)。
しかし、23歳で初カレ以前に、初カレが斎藤っていうのは、どうなんだろう? “初カレ”っていう初々しい響きと対極にいるような男ですよ(笑)。ま、このシリーズの斎藤は、ありえないくらい照れ屋さんなんで、まあ良いか。