燕
「やられたな………」庭から縁側の庇を見上げて、斎藤が苦々しい顔で呟いた。
「どうしたんですか?」
冬毛が抜けて汚くなっている兎の体にブラシをかけて綺麗にしてやりながら、が尋ねる。
最近、兎も衣替えの季節らしく、凄い勢いで冬毛が抜けて、茶色の硬い毛と斑の状態になっているのだ。お陰で兎は、ここの所ずっと家の中に入れてもらえずに、庭に出しっぱなしになっている。
「燕が巣を作ってる」
「えー?」
驚いた声を上げてが斎藤の隣に行くと、確かに庇の下に巣が作られていた。まだ卵は産んでいないのか、中に燕はいない。
昼間は誰もいないとはいえ、巣が完成するまで気づかなかったというのは、ある意味大したものである。巣はまだ出来たばかりのようだから、雛が姿を見せるのはもう少し先のことだろう。兎だけではなく、燕の雛も見られると思うと、は斎藤の家に行くのが今以上に楽しみになってきた。
斎藤と二人で雛を観察するのを想像すると、それだけでは楽しくなる。可愛い雛を見ながら、「子育てはやっぱり、夫婦が協力しないと駄目ですね」などと将来のことを語り合ったりするのを想像すると、今から照れてしまう。
妄想するを無視して、斎藤は戸袋のところに立てかけていた箒を持ってきた。
「あ、まだお手入れ終わってないから。後であたしが綺麗にしますよ」
散らばっている兎の毛を掃くのかと、は斎藤を引き止める。ふわふわの毛がそこら辺に散らばって非常に汚いが、まだもう少しブラシをかけてやらないといけないから、今掃いてもまた汚くなるのだ。
が、斎藤の答えは、の全くの予想外のもので、
「そうじゃない。今のうちに巣を壊しておかんとな。卵を産みつけられたら、後が厄介だ」
「えっ?! ちょっ……斎藤さん?!」
箒の尻で巣を突っつこうとする斎藤の腕を慌てて掴んで、は悲鳴を上げて引き止める。せっかく出来た巣を壊すなんて、横暴だ。
が、斎藤はの手を振り払って、
「あいつら、糞を撒き散らすし臭いし、碌なことがないんだぞ。しかも一度住み着いたら、毎年来るようになるんだ」
「良いじゃないですか、毎年来たって。燕が来る家には良いことがあるって、昔から言うでしょう。糞を撒き散らすなら、巣の下に受け皿みたいに板を打ち付けたら良いし。板を打つの、あたしがしますから」
斎藤から箒をもぎ取ると、取り上げられないようにしっかり握り締めては宣言する。高いところは苦手だけれど、燕の巣を壊されることを考えたら、どうということはない。
大きな目でキッと睨みつけるに気圧されて、斎藤は諦めたように溜息をついた。その気になれば箒を取り返して燕の巣を壊すのは簡単だが、そんなことをすればに一生恨まれるに決まっている。燕は鬱陶しいが、それ以上に彼女に恨まれるのは避けたいところだ。
「ああ、分かった。それなら今度の休みにでも板を打ち付けておこう。燕の巣ごときで恨まれたら堪らん」
それから暫くして、4羽の雛が孵った。それは結構なことなのだが、早朝から夕方までずっとぴぃぴぃ鳴いていて、休みの日でも遅寝も昼寝も出来ないと、斎藤はことある毎にに苦情を言ってくる。
は夕方しか斎藤の家にいないから、雛のうるささがピンと来ないが、小鳥の声で目が覚めるというのは羨ましいことだと思う。何しろ彼女の目覚ましは、隣の家の女房が旦那を叩き起こす声なのだ。それに比べたら、多少うるさくても燕の雛の声で目覚める方がずっと良い。
そんなことを言ったら、斎藤から次の休みは朝から家に来いと言われた。その声は少し怒っているようだったけれど、斎藤と朝から一緒にいられるということで頭が一杯になって、は早くも浮かれてしまう。斎藤には悪いが、これもツバメたちのお陰だ。燕がいると良いことがあるというのは、本当らしい。
というわけで約束通り、休みの日に朝から斎藤の家に向かっただったのだが―――――
「これは………」
4羽の雛の大合唱に、流石のも唖然としてしまった。親が来る度に、どうすればあんな声が出るんだろうと思うくらい凄まじい声を出していて、真下にいると耳が痛くなる。
「どうだ、凄いだろう?」
唖然と口を開けて見上げているの横に立って、斎藤が半ばヤケクソのように言った。
「………凄いですね」
雛の声に圧倒されて、もそれしか言えない。
他所の家の雛は、親がいない時は黙っているか、つまらなそうに小さくちゅんちゅん鳴いているだけだが、此処の雛たちは親がいようがいまいがお構い無しに大声で鳴いている。しかも4羽の子沢山だから、その音量は凄まじい。
「お前が壊すなというから見逃してやったのに、結果はこれだ。どうしてくれるんだ?」
「………どうしましょう?」
困り果てた顔をして、は斎藤を見上げる。
どうしてくれると言われても、雛に「静かにしてね」と頼んでも聞いてくれるわけがないし、巣を壊すのは論外だ。
下目遣いに斎藤に睨みつけられると、どうして良いか分からなくては悲しくなってきた。燕の巣を壊すなといったのは彼女だし、雛の大合唱のせいで斎藤が昼寝も出来ないのなら、それも彼女のせいだ。斎藤が自分のことをものすごく怒っていると思うと、申し訳なくて泣きたくなってくる。
本当なら今頃、ちゅんちゅん鳴いている雛を眺めながら、二人で楽しくお喋りをしているはずだったのに。燕にかこつけて、仕事の日でも朝から斎藤の家に行って、一緒に朝食を食べたりして、もっとお近付きになる予定だったのに。それがこんなことになってしまって、斎藤に嫌われてしまったらどうしよう。
悲しくて目を伏せていると、斎藤がさっきより柔らかな声で言った。。
「ま、生まれてしまったことは、今更どうしようもないが。巣立ちまでの我慢だな」
「すみません………」
何と応えて良いのか分からなくて、は俯いたまま小さな声で謝る。
巣立ちまで一体どれくらいかかるのかには見当も付かないが、それまで斎藤に我慢をしてもらわないといけないと思うと、申し訳ない気持ちで一杯だ。こうなるのならあの時に燕の巣を壊しておくべきだったのだろうが、それは燕の夫婦が可哀想だ。
しょんぼりとしているの頭に、斎藤がポンと手を置いた。
「別に良いさ。良く考えたらお前が悪いわけじゃなし」
その声はもう全然怒ってなくて、何事もなかったような呑気な口調だ。
驚いて見上げると、斎藤はもう燕の声など気にしていない様子で巣を見上げていた。そして、もう一度を見下ろして、今度はニヤリと笑う。
「お前、燕の雛にも似てるな」
「へ………?」
何を言われたのか解らなくて、はきょとんとした顔をしてしまった。燕の雛に似ているというのは、顔なのか、ぴぃぴぃうるさいということなのか、斎藤の表情からは判断がつかない。
前に兎に似ていると言われたことはあったけれど、兎と燕の雛は全くの別物だ。兎と燕の雛と自分との共通点が全く解らなくて、はぴぃぴぃ鳴いている燕の雛をじっと見詰めた。
そんなの横顔を見て、斎藤は可笑しそうに鼻を鳴らす。
「ほら、左から二番目の雛。ああやって口を閉じていると顔が上下に押し潰されたようになって、そっくりだろ?」
「えーっ?!」
上下に押し潰された顔と言われて、は思わず大声を上げてしまった。確かには、斎藤や恵のような面長ではないし、額が広くて顔の部品が下に集中しがちな顔をしているが、燕の雛のような顔はしていないはずだ。
燕の雛は確かに可愛い顔をしているけれど、でもそれに似ていると言われたら微妙だ。それ以前に、普通、女性に対して「燕の雛みたいな顔」とは言わないだろう。
「ひどーいっ!! あたし、あんな顔してないですよぉ」
ニヤニヤ笑っている斎藤に、は必死に抗議する。
「そんなことないぞぉ」
顔を赤くして抗議しても、斎藤には全く効いていないようだ。の頭に手を置いたまま、ニヤニヤしながらもう片方の手を顎の下に持ってきた。
「え………?」
頭の上下を挟まれて、は一寸ドキドキしてしまった。が、斎藤は意地悪く笑ったまま、上下からぎゅうと圧力をかけてきて、
「ほ〜ら、こうすればもっとそっくりだ」
「ふぎぎぃぃ〜〜〜〜っっ!!」
力一杯圧縮されて、は踏み潰された猫のような悲鳴を上げる。それなのに斎藤は凄く楽しそうに笑っていて、もっとぎゅうぎゅう圧してくる。怒っていないと思っていたけれど、やっぱり怒っていたらしい。
暫くそうやった後、斎藤は漸くの頭を解放した。そして可笑しそうに笑いながら、
「さて、俺たちも飯を食いに行くか」
と、何事も無かったように家に上がった。
押さえつけられていた顎を撫でながら、は訳が分からなくて考え込んでしまう。怒っているなら、この後にお説教が続くはずなのだがそれも無いし、あれで気が済んだのだろうか。というか、あんな子供染みたことをやる男だとは思わなかった。
「何やってるんだ、置いて行くぞ」
考え込むを振り返って、斎藤がもう一度言う。
「食べに行くんですか?」
「ああ、休みの日くらいはあいつらから解放されたいからな。食ったらお前の家で昼寝させろ」
「え――――?!」
“お前の家で昼寝”ということは、そのままの家に行くということか。一応掃除はしているものの、突然のことにも驚きを隠せない。昼寝をするということは、夕方まで家にいるということなのだろうか。
びっくりするに、斎藤は何でも無いように言う。
「お前のせいで毎日寝不足なんだ。休みの日くらい昼寝させても、罰は当たらんだろう」
「はぁ………」
休みの日くらい、ということは、これから休みの日にはずっとの家にいるつもりなのだろうか。ということは、朝からの家で、斎藤と一緒にいられるということなのだろうか。彼の家で朝からずっと一緒というのも嬉しいけれど、自分の家でずっと一緒というのも嬉しい。
しかもの家で昼寝だなんて。斎藤の寝顔を観察したり、一寸勇気を出して隣で一緒に寝るところを想像したら、胸の中がぞわぞわしてきて、顔が真っ赤になってしまう。は寝相が悪いから、そのままころころ転がって斎藤に密着してしまうかもしれない。それを想像すると、ますます全身が熱くなってきた。
熱くなる顔を冷やすように、頬に手を当てていると、斎藤が困ったように苦笑して言う。
「ほら、妙な妄想をしてないで早く行くぞ。昼時になったら、待たされたりして面倒だ」
「はぁい」
その声に現実に引き戻されて、は慌てて縁側に走る。家に上がる前にもう一度燕の巣を見ると、相変わらず雛たちは餌くれの大合唱をしていて、声が枯れるというのを知らないようだ。
凄い声に唖然としてしまうけれど、でも今はその声がのことを後押ししてくれる声援にも聞こえる。この雛たちのお陰で、これからの休日はずっと斎藤と一緒に過ごせるのだ。
これからも毎年、此処で生まれた雛が孵ってきてくれれば良いなあとは思う。そうなったら、毎年この時季には朝から晩まで斎藤と一緒にいられるのだ。
家に上がって草履を取ると、は斎藤の後を追いかけて玄関から外に出た。
斎藤の家に燕の巣が出来ました。だんだん、兎部下さんにとって楽しい動物屋敷になってきてますね。っていうか、これだけ動物が寄ってくるなんて、実は斎藤って動物にモテモテ………? 主人公さんは兎ちゃんだしなあ。
燕が巣を作ると良いことがあるというけれど、この場合はどちらにとって“良いこと”なんでしょう? 朝から晩まで一緒に過ごせるのだから、兎部下さんにとっては勿論嬉しいことだけど、斎藤にとっても“敵地”に乗り込むきっかけを掴めたのだから、それなりに“良いこと”ですよね。
これまでずっと足踏み状態だった二人ですが、燕のお陰で大進展です。二人とも、燕に頭が上がらないですね(笑)。