燕
『葵屋』の土蔵には、古い燕の巣がある。春になると、南国から帰ってきた燕がここで子育てをするのだ。今年も雛が孵ったから見においで、と蒼紫に誘われて、は昼過ぎから『葵屋』にいる。今は親がいないから大人しいが、朝から晩まで餌を欲しがって、ぴぃぴぃ賑やかなのだそうだ。
そういえば文鳥の“ちぃちゃん”も雛の時は餌を欲しがって朝から晩までぴぃぴぃ鳴いていたなあ、とは雛を見ながら思い出した。文鳥は買い置きの餌を与えれば良いからまだ楽だが、燕は生きた虫を捕ってこなければいけないのだから、親は大変だ。
「可愛いわねぇ」
土蔵の庇の下にある巣に入った3羽の雛を見て、は子供のようにはしゃいだ声を上げた。
雛は巣の縁に顎(?)を載せて、むっつりとした顔をしている。鳥に表情があるのかは謎だが、つまらなそうな顔をしているようだとは思う。犬や猫だったら、きょうだいとじゃれあって遊ぶだろうけれど、燕の雛たちはお互いの存在に気付いていないかのように無関心だ。
けれど、正面から見る燕の雛の顔は、とても可愛い。上下にきゅっと押し潰されたような顔をしていて、文鳥とはまた違った可愛さがある。
「今は大人しいが、親が来るとうるさいんだ」
白尉と黒尉が持ってきた木の長椅子にほうじ茶と落雁を置いて、蒼紫が言った。椅子やお茶菓子を用意しているということは、が今日一日燕の雛の観察をして過ごすと読んでいるのだろう。
蒼紫の読みは正しいと、も思う。こういう小動物は見ていて飽きないし、実際、蒼紫が来ない日は、文鳥を見て一日を過ごすということも結構あるくらいなのだ。
「ありがとう」
落雁と湯飲みを載せた盆を挟んで、と蒼紫は並んで座る。
今日はとても良い天気で、風も涼しくて、こうやって外で茶を飲むには最高の日だ。綺麗な庭が見えるわけでもなく、殺風景な土蔵の前だけど、こうやって二人で並んで燕の雛の観察をするというのは、とても楽しいとは思う。ああいう小さな生き物は、見ていて飽きないものだし。
親が来ないことに業を煮やしたのか、雛たちはちゅんちゅんと小さく鳴き始めた。甘えているような、少し拗ねているような可愛い声だ。そういえば、と蒼紫が一緒にいる時には、文鳥の“ちぃちゃん”も同じように鳴いている。文鳥はもう立派な成鳥だが、まだ自分のことを雛だと思っていて、に甘えたいのだろう。
「親、来ないわねぇ………」
雛と同じく、も待ちくたびれてきた。大人しくしている雛たちも可愛いけれど、やはり燕の雛は大きな口を開けてぴぃぴぃ鳴かないと面白くない。
「そろそろ来るだろう。来る時はひっきりなしなんだがな」
蒼紫は生き物にはあまり関心が無いのか、つまらなそうに落雁をぼりぼり食べている。蒼紫は文鳥ともよく喧嘩をしているから、小鳥はあまり好きではないのだろう。その割には、『葵屋』では鳩を何羽も飼っているのが、にはよく解らないのだが。
と、すぃーっと親燕が滑るように飛んできた。その途端、あんな小さな体からどうしたらこんな大きな声が出るのだろうと思うほどの凄まじい声で、雛たちが必死に餌をねだる。
「すごーい、可愛い――――っっ!!」
親は一番激しく鳴いている雛を優先に餌を与えるようで、3羽いるうちの一番右端の雛に大きなトンボを与える。小さな雛には持て余すような大きなトンボで、他の2羽も横取りするように必死に体を伸ばしてトンボの体を引っ張る。きょうだいでも生存競争は厳しいらしい。
大きなトンボだったのに、3羽で奪い合いながらあっという間に完食してしまった。そして、まだ足りないと言いたげに大きな声を上げる。あんなに小さな体なのに、よく食べるものだ。どんな生き物でも、食べ盛りの子供を抱えている親は大変である。
けれど親は疲れた様子は見せずに、また餌を求めて何処かへ飛んでいく。その後すぐにまた親燕がやってきて、今度は蛾のような羽虫を一番左端の雛に与えた。左端の雛は他のきょうだいに捕られまいと必死に首をねじって、そのまま独り占めしてしまった。
「凄いわねぇ。あんな食欲旺盛な子どもがいたら、共働きでも大変だわ」
「まあ、鳥はすぐに巣立つからな。文鳥だって、餌を欲しがって鳴いていたのは、一ヶ月くらいだっただろう?」
雛の様子から目が離せないとは対照的に、蒼紫は相変わらず興味無さそうに落雁をぼりぼり食べている。雛の食欲も凄いけれど、さっきからひっきりなしに落雁を食べる蒼紫の食欲にも、は感心してしまう。あまり菓子は好きではないと言っていたが、どうやら落雁は別のようだ。
確かに蒼紫の言う通り、餌をひっきりなしに与えなければいけない時期というのは、案外短い。もう少し大きくなって燕らしい体型になったら、雛も大人しくなるようなのだから。文鳥だって、最初の頃こそ一日に何度も餌を与えていたが、成鳥になった今では朝と夜の二回だけ与えれば良いのだ。
「そっか………」
蒼紫の言葉に納得して、はまた燕の巣を見上げた。雛たちはまた何事も無かったかのように、むっつりとした顔で大人しく親を待っている。
考えてみれば、文鳥の“ちぃちゃん”にもこんな時期があったのだ。今はすっかり大人になって、しかも少し肥満気味なのだが。
丸々太っても“ちぃちゃん”は可愛いが、また雛が欲しくなってきた。もう一度親文鳥の籠に巣箱を入れて、卵を産ませてみようかと考えながら上を見上げているの口に、いきなり落雁が押し込まれた。
「ほえっ………?!」
落雁を歯に挟んだ間抜けな顔のまま、はびっくりして蒼紫の方を向いた。
「口を開けてるから、雛みたいに入れて欲しいのかと思った」
くつくつと笑いながら、蒼紫は悪戯っぽく言う。
蒼紫に食べ物を口に放り込まれるというのも初めてだし、まさかこんな悪戯をされるとは思っていなかったから、はびっくりして言葉も出ない。恥ずかしいのと、突然のことに動揺してしまって、真っ赤な顔でそのまま一瞬固まってしまった。
とりあえず落雁を口の中に収めると、はまだ笑っている蒼紫を上目遣いで軽く睨みつける。が、蒼紫は全く気にしていない様子で、
「美味しいだろう、その落雁。限定販売していて、大抵昼前には売り切れるんだ」
「………うん」
全く悪びれていない蒼紫の呑気な様子に、何だか怒るのも馬鹿馬鹿しくなって、は小さく頷いた。口の中で解ける落雁は、ほんのり甘くて美味しい。
「さっきから燕ばかり見て、全然食べないから。それに燕ばかりで全然喋らないし………」
「あ………」
そういえば、さっきからずっと隣に座っているのに、は燕ばかり見ていて蒼紫の存在をすっかり忘れていた。文鳥と遊んでいても焼餅を焼ような男なのだから、蒼紫をそっちのけで雛に夢中になっていたら、確かに面白くなかっただろう。
もしかしたら、さっきから落雁をひっきりなしに食べていたのも、落雁が好きだったのではなくて、苛々を誤魔化していたのかもしれない。雛に関心が無い様子も、文鳥に焼餅を焼いている時と同じ様子だったし、大人気ないと思うけれど一寸可愛らしい。
そう考えていたら、可笑しくての顔がにやけてきた。一寸拗ねたような顔をしてほうじ茶を啜っている蒼紫の表情も、なんだか可愛らしい。文鳥や燕の雛のように、誰が見ても可愛いというわけではないし、図体の大きないい歳した大人の男だけど、蒼紫は可愛い。
こんなに可愛くて手のかかる男がいるのなら、新しい雛はいらないような気がしてきた。小さくて可愛い雛鳥の世話は楽しいけれど、大きくて焼餅焼きの蒼紫の相手をするのは、もっと楽しい。
こみ上げる笑いを堪え切れなくて、はくすくす笑いながら落雁を一つ摘み上げる。
「あーおしっ」
「ん?」
「口、あーんってして」
「えっ………?!」
落雁を蒼紫の口許に持っていって迫るを見て、蒼紫は顔を真っ赤にしてうろたえる。自分からするのは恥ずかしくなくても、されるのは恥ずかしいらしい。
いつもはあまり顔色を変えない蒼紫が、こうやってあからさまに動揺しているのを見るのは面白い。もっと動揺させたくて、は笑いながら今度は落雁の端を歯に挟んで言った。
「じゃあ、燕の雛みたいに」
小さい落雁だから、口移ししたら接吻するのと同じになってしまう。蒼紫が益々真っ赤になって、あわあわする様子がなんとも可笑しい。目が充血して、暑くもないのに鼻の頭に薄く汗をかいていて、一寸やりすぎたらしい。
ここまで動揺されると、これ以上苛めるのも可哀想になってきた。の家でだったら恥ずかしがりながらも口移しで食べたかもしれないけれど、流石に『葵屋』では無理だろう。の家での蒼紫と『葵屋』での蒼紫は、全くの別人なのだから。
そろそろ解放してあげようと、が咥えていた落雁を口に入れようとしたその時―――――
「?!」
の口に入ったのを見計らったかのように、蒼紫が唇を重ねてきた。そして落雁を追いかけるように、柔らかな舌が入ってくる。
「んんっ………?!」
今度はがびっくりする番だ。反射的に身を引こうとしたけれど、その前に項を押さえられて逃げられなくなる。
落雁は簡単に掻き出せる大きさなのに、蒼紫はわざとらしく取り損なった振りをして、何度も口の中をくすぐってくる。そうやって暫く遊んで落雁の形が少し崩れたところで、漸く解放した。
「じゃあ、お母さん、もう一個」
楽しそうにニヤリと笑って、蒼紫は落雁を取っての口許に持っていく。
「もぉ………」
一寸だけ唇を尖らせて、は上目遣いで軽く睨む。けれどその表情には微量の媚が含まれていて、悪い気はしていないようだ。
「もう一回だけよ」
くすっと笑って落雁を咥えると、よりもずっと大きな“雛さん”の口に持っていった。
うわぁあんっっ!! バカップルですよ!! バカップル過ぎますよっっ!! お前ら、頭の中に何か湧いてるだろっっ?! 『葵屋』の皆さん、特に操ちゃんが見たら、寝込む光景ですよ。
これを書いていた時は、仕事の山場を一つ越えて、脱力していた頃ですね。疲れると甘いものが食べたくなるものですが、ドリームも激甘になるのか? 落雁どころか、蜂蜜一気飲みくらいの甘さです。
このシリーズはキャラ崩しが激しいですが、今回は本当に「誰だお前?」ですね。いつもはあんまりベタベタすると困り顔の主人公さんも、何だか積極的だし。ま、たまにはこういうのもね(笑)。