夏支度
今日は斎藤の仕事が早く終わったので、二人で一緒に帰ることが出来た。途中で八百屋に寄って買い物をしたりして、共働きの夫婦に見えちゃったりしたらどうしよう、とは浮かれてしまう。「あ、そうだ。折角だから、八百屋さんから大根の葉を貰ってくれば良かったですね」
斎藤の家の前まで来て、が思い出したように言った。そろそろ兎の餌にする大根の葉が切れそうになっていたのだ。
最近、兎は食欲が旺盛で、以前より沢山食べるようになっている。一時期太った時よりも痩せたので油断しているのかもしれないが、また丸々と太ったら斎藤に“非常食”と呼ばれそうだ。
「もう無くなってたか? あいつ、よく食うなあ」
呆れたように言いながら、斎藤は玄関の鍵を開けて中に入った。が、次の瞬間―――――
「何だ、こりゃ?!」
部屋に上がった斎藤が、悲鳴のような声を上げる。一体何なんだろうと後ろから覗き込んだも、すぐに口と鼻を覆ってしまった。
畳の上に白い毛が散らばって、繊維のような細い毛がふわふわと部屋の中を舞っていたのだ。部屋の真ん中では兎が後ろ足で体をぼりぼりと掻いていて、その度に白い毛が飛び散る。
暖かくなって、兎も冬毛から夏毛へ“衣替え”の季節になったのだ。最近食欲が旺盛になったのも、衣替えの準備のためだったらしい。そういえば秋の終わりに衣替えがあった時も、抜け毛の前には凄く食べていた。
こんなにも一気に抜けるものかと唖然として立ち尽くしていた二人だったが、先に我に返った斎藤が慌てて部屋に入った。
「やっぱり………」
壁に掛けていた夏の着物と制服を見て、斎藤はがっくりと肩を落とす。衣替えの前に陰干しをしていた着物は全て、兎の毛にまみれて真っ白になっていたのだ。これでは、一度洗濯しなければ着ることが出来ない。
がっくりと肩を落としている斎藤に、もかける言葉が無い。兎には悪気は無いのだから、と言っても「悪気が無ければ何をやっても良いのか」と怒られそうだ。
どうしよう、と黙っていると、斎藤は縁側の戸を全開にする。そして無言のまま兎を鷲掴みにすると、そのまま庭に放り投げてしまった。
いきなりのことに、兎は受身を取れずにべちゃっと地面に叩きつけられたけれど、全く気にしていないように再びぼりぼりと体を掻き始める。たまに前足で顔も掻いたりして、毛が抜けるのは痒くてたまらないらしい。
「掃除するぞ! 掃除っ!!」
「は、はいっ!」
斎藤に怒鳴られて、は急いで厨房に荷物を置くと、箒を取った。
畳を箒で掃くの横で、斎藤は雑巾で箪笥や棚の上を拭いている。兎の毛は、思ったよりも飛び散っているようだ。
昨日までは兎は全く毛が抜ける様子が無かったのだが、抜け毛というのは突然始まるものらしい。それとも、冬毛は夏毛よりも長いから、夏毛が抜ける時よりも盛大に抜けているように見えるのだろうか。
斎藤の様子を窺うと、静かに激怒しているようだ。これが夏の着物を出していない時だったら、ここまで怒ることは無かったかもしれないが。兎も間が悪い、とは小さく溜息をついた。
「兎さん、これからどれくらい抜けるんでしょうねぇ」
重苦しい沈黙に耐えられなくて、は間抜けなことを言ってしまう。そんなのを斎藤に訊いても彼に判るわけがないし、余計に怒らせてしまいそうだ。
案の定、斎藤は怒りを押し殺した低い声で、
「そんなの、俺が知るかっ!」
「………ですよねぇ」
余計に怒りを煽ってしまったようで、は再び黙って手を動かし始めた。今は余計なお喋りはしない方が良さそうだ。
暫くそうやって部屋を綺麗にした後、は兎がいる庭に下りた。
「兎さんも衣替えなんだねぇ」
兎の傍にしゃがんで体を軽く撫でてやると、ふわりと毛が舞い上がった。これだけのことで毛が抜けるなら、暫くは抱っこは出来ない。
兎の毛が抜け始めると、季節が変わる証拠だ。また、此処に来た時と同じ茶色の兎に戻る。まあ、あの頃よりはずっと大きくなっているのだが。
「あんまり触るな。お前まで毛だらけになるぞ」
縁側まで出てきて、斎藤は不機嫌に言う。
「また暫く箱詰めにせんといかんな」
「この分じゃ、暫くお散歩もお預けですね」
二人の会話を理解しているのか、兎の耳がぴくっと動いた。そして、不安そうな縋るような目でを見上げる。
一日の殆どを家の中に閉じ籠っている兎でも、箱詰めは嫌に決まっている。それに最近は、減量のために始めた散歩のお陰で外歩きの楽しさを憶えているのだ。
「箱詰めは嫌だって、兎さん言ってますよ」
「兎が言っていることが解るのか? 兎か、お前は?」
の訴えに、斎藤は可笑しそうに笑う。笑うといっても、口許を少し歪めるくらいなのだが、それでも彼の機嫌が直るとも嬉しい。
「解りますよぉ。いつも一緒なんだから」
「俺も一緒にいるが、よく解らんがな。兎は兎同士、通じるものがあるのか?」
「兎? あたしも?」
兎と斎藤を交互に見て、は頓狂な声を上げた。
斎藤の中では、と兎は同列なのだろうか。は兎のように手はかからないし、それどころか斎藤の夕食を作ったりして、逆に世話をしてやっているくらいなのに。
ぷうっと膨れるを見て、斎藤は益々可笑しそうに口の端を吊り上げる。
「良いじゃないか、牛や豚にたとえられるよりも。兎は可愛いぞ?」
「う………」
確かに牛や豚にたとえられるよりは、兎にたとえられた方が嬉しいが、そういう問題なのかなあとは考える。しかし、「兎は可愛いぞ」と言っているということは、斎藤はのことを兎のように可愛いとも思ってくれているということだろうか。それだったら凄く嬉しい。
兎の顔をじっと見ると、兎も不思議そうにを見た。その姿は、毛だらけになっても良いから抱き締めたくなるほど可愛くて、斎藤も自分のことをそう思ってくれているなら良いなあと思う。
「斎藤さんがねー、兎さんのこと可愛いってー。それでー、兎さんとあたし、そっくりなんだってー」
兎を撫でながら聞こえよがしにそう言うと、斎藤の方をちらりと見る。と、斎藤は一瞬で顔を真っ赤にして、そのまま無言で部屋に入ってしまった。どうやらの予想は当たっていたらしい。
斎藤の反応に、まで照れてきてしまって、頬を染めてくすくすと笑う。ああいう風に見えて、斎藤はかなりの照れ屋のようだ。いつもは表情の変わらない、いかにも“大人の男”な彼が照れるというのは、凄く可愛らしいとは思う。
可愛いけれど、いつか斎藤の口から「可愛い」とちゃんと言って欲しいなあ、と欲張りなことも思ってしまう。斎藤から「可愛い」と言ってもらえたら、それこそ兎のようにその辺をぴょんぴょん跳ね回るくらい嬉しいのに。
斎藤の家に通うようになって、もうすぐ一年。彼ものことは憎からず思っているようだし、そろそろ“上司と部下”から先に進んでも良いのではないかと思っている。否、もうそろそろはっきりした動きを見せて欲しい。
「綺麗に生え変わったら、斎藤さんと何処かに遊びに行こうね」
暫くは散歩はお預けだけど、綺麗に毛が生え変わったら斎藤と兎とで何処かに遊びに行きたい。彼はあまり外出したがらない性質のようだが、そろそろ“逢い引き”のようなこともやってみたい。
兎の背を撫でながら、斎藤と何処か景色の良いところに遊びに行くのを想像して、は小さく笑った。
兎さんの衣替え。そして、どさくさ紛れに部下さんに「可愛い」発言をしてしまう斎藤です。斎藤、部下さんをからかおうとすると、うっかり口を滑らせてしまうようですね(笑)。
しかしまあ、若い部下に突っ込みを入れられて顔を真っ赤にする34歳って、どうよ? 原作だったらサラッと流すでしょうが、うちの斎藤はテンパリ体質の照れ屋さんです。いや、いつもはクールな男が照れてテンパるのって、可愛いじゃないですか。
それにしてもこのシリーズ、最初の頃は斎藤ももう少し余裕があったような気がするんですが、回を重ねるごとに兎部下さんと同じレベルになっているような気がしないでもないんですが………。ま、それもまた良し、ということで(←良いのか?)。