夏支度
気が付けば、もう5月。世間ではもう初夏で、も暇を見つけては少しずつ衣替えをしているけれど、家の中にはまだ春すら訪れてはいない。原因は、部屋の隅に鎮座ましましている“あれ”だ。蒼紫の大事な大事な“お友達”の火鉢である。あれがあると、衣替えをしても家の中に春の花を飾っても、季節感が全て台無しだ。
そもそも、今の時季に火鉢があるというのがおかしいのだ。事情を知らない人間が見たら、がものぐさで片付けていないと思うだろう。こんな状態では、恥ずかしくて他人を呼べない。
「………………」
腕組みをして、じっとりと火鉢を見下ろす。これさえなくなれば部屋は広々使えるし、遅ればせながら春到来という気分にもなれるのに。
けれど片付けようとすると、まだ使うことがあるかもしれないと、火鉢を抱き締めんばかりに蒼紫が猛反対をするのだ。最近は全然使っていないくせに、いざなくなってしまうとなると寂しいらしい。もしかしたら、この火鉢には火鉢以上の愛情を抱いているのかもしれない。
そこまで考えて、自分の発想には思わず噴き出してしまった。子供ではあるまいし、本当に火鉢に人間に対するような愛情を注いでいたら笑える。
いっそのこと、蒼紫がいないうちに納屋に片付けてしまおうかと考える。あの大きなものを一人で抱えるのは大変だが、やってできないことはない。
そうとなったら、思い立ったが吉日。今日は蒼紫は来ないし、片付けるには絶好の日だ。火鉢を見下ろして、はニヤリと笑った。
翌日の夕方、いつものように蒼紫がの家にやってきたが、部屋の中を見るなり絶句して立ち尽くしてしまった。
「どうしたの?」
原因に気付かない振りをして、は平然と卓袱台に夕御飯を並べる。
「火鉢………」
「ああ、昨日片付けたの。もう使わないでしょ?」
「梅雨になったら、まだ寒い日があるかもしれないじゃないか。今だって、夜はまだ冷える日があるし」
勝手に片付けられたのが余程嫌だったらしく、蒼紫は一寸怒ったような口調で抗議する。“勝手に”も何も、此処はの家で、あれはの火鉢なのだが、それでも勝手に片付けられたのは心外だったようだ。
梅雨になったらと蒼紫は言うけれど、火鉢を使わなければならないほど寒い日などそうそうあるわけがないし、寒ければさっさと風呂に入って布団に包まってしまえば良いこと。今だって、寒い日はそうやって凌いでいるのだ。
大体、が『葵屋』に遊びに行った時にはもう、蒼紫の部屋には火鉢は無かった。『葵屋』では我慢できるのに、此処では我慢できないなんておかしいではないか。使いもしないものに部屋を占領させておかなければならないの身にもなってもらいたい。此処は彼女の家であって、蒼紫の別宅ではないのだ。
「使わないものを置いておくほど、うちは広くないの。そんなに火鉢が欲しいなら、『葵屋』に置いておけば良いんだわ」
「…………………」
の尤もすぎる言葉に反論できなくて、蒼紫は面白くなさそうなぶすっとした顔で卓袱台の前に座った。
『葵屋』では“しっかりもので一寸気難しい若旦那”を演じていなければならないのだから、異常な寒がりで今の時季でも火鉢がないと落ち着かないという姿は見せたくない蒼紫の気持ちは、も解らないではない。一緒に住んでいる家族同然の『葵屋』の面々には見栄を張って、此処ではこんな調子というのは変な感じではあるが。しかしそれも、それだけ自分に気を許してくれているのだと思うと、悪い気はしない。
御飯を食べながら、蒼紫は時々小さく溜息をつく。そのやり方がいかにも見せ付けているようで、そんなに火鉢を片付けたのは嫌だったのかと、子供っぽいやり口も併せては呆れ果ててしまった。
火鉢に並々ならぬ愛情を注いでいるのではないかと冗談のように思っていたけれど、蒼紫の様子を見ていると本当にそう思っていたようだ。食事をする姿もどことなく寂しげで、まるで仲良しの友達が遠くに引っ越してしまったのを悲しんでいる子供のようだ。
「火鉢を片付けたの、そんなに嫌だった?」
まさかそんなに落ち込むとは思わなくて、別に悪いことをしたとは思わないけれど、は何となく下手に出て訊いてしまう。
「………別に」
いかにも“怒ってます”という感じで、蒼紫はぶすっと応える。断りもなくいきなり火鉢を片付けたのが、余程気に入らなかったようだ。彼はあまり機嫌の良い顔もしない代わり、怒った顔もあまりしないから、此処まで不機嫌になるなど余程のことだ。
「いいじゃない。火鉢がなくなったら、部屋も広々と使えるし。それに、あれがあるといつまでも春が来たって気分にならないでしょ?」
「……………………」
空気を盛り上げるように明るい声で言ってみるけれど、蒼紫は相変わらず暗く沈んでいる。寒い日があったらどうしようと思っているのかもしれないが、真冬ではあるまいし、凍えるように寒い日など無いとは思うのだが。
別に自分が悪いとは思わないのだが、やはり目の前でこうも仏頂面をされていると、だって良い気分はしない。機嫌を取るのは自分が折れるようで嫌なのだが(実際、折れているのだが)、いつまでも不機嫌でいられるよりはマシなような気がしてきた。それに蒼紫をご機嫌にするのは、夕御飯を作るよりも簡単なことだし、労力も要らない。
「ねえ、蒼紫」
は箸を置くと、仏頂面で汁物を啜っているに微笑みかける。
「もし寒い日があったら、私が火鉢の代わりに暖めてあげるから」
「…………………っっ?!」
普段のからは考えられない大胆な言葉に、汁が変なところに入ったのか、蒼紫は御椀に口を付けたまま咽たように咳き込んだ。自分がこういうことを言うのは平気だが、から言われるのは照れてしまうらしい。
暫く咳き込んでいたけれど、どうにか噴き出すことなく落ち着くことができたようだ。紅い顔をして御椀を置くと、蒼紫は大きく息を吐いた。それでもまだ動揺しているらしく、笑えるくらいに目が泳いでいる。
言葉だけでも照れてしまう蒼紫が可愛らしくて、はくすくす笑いながら話を続けた。
「ね。だから、もうそんなに怒らないで。それとも私より、火鉢の方が好きなの?」
最後の方は少し悲しそうな顔を作ったら、蒼紫は慌てて首を振った。その仕草もなんだか可笑しくて、悪いと思いながらもは声をたてて笑ってしまった。
「じゃあ、もう火鉢はいらないわね?」
「………うん」
恥ずかしそうに頬を染めて、蒼紫は小さく頷く。
こういう顔を見せるのは自分にだけだと思うと、は嬉しくてたまらない。『葵屋』ではいつも無表情だし、東京から友人が訪ねてきた時もあまり表情が変わらなかったし、彼のこういう顔を知っているのは自分だけだと思うと、それだけで自分は特別な存在なのだと思えてくる。
これでこの家にも、遅まきながら春到来だ。邪魔な火鉢は無くなったことだし、夏に向けて本格的な模様替えをしなくては。どういう風に部屋を変えようかと想像しながら、は御飯を一口食べた。
蒼紫と火鉢の涙の別れ(笑)です。っていうか、5月まで火鉢を置いていたのか………。
『葵屋』では気難しい若旦那でも、主人公さんの家では甘えん坊さんです。あんな陰気で図体の大きい男が甘えてきたら、可愛いんだか何なんだか微妙だなあ、オイ(笑)。いや、ある意味可愛いか(←どっちだよ?!)。
邪魔な火鉢を追い出して、これで主人公さんも蒼紫を独占です。でも「寒い日は温めてあげる」って言った手前、抱きついてこられたら拒否権無しですね。