春宵
夕食の片付けを終わらせた後、はいつも斎藤に家まで送ってもらっている。世間話をしながら二人で並んで歩いていると、本当に恋人同士になったようで、この時間が彼女は何より大好きだ。二人で歩いている時は、斎藤が少しだけ歩く速度を落としていることに、は最近気付いた。それでも時々、追いつけなくて早歩きになることがあるけれど。
斎藤とは身長差がありすぎて、脚の長さが全く違うから、そうなってしまうのは仕方がない。早歩きで追いかける度に、恵くらい背が高かったら楽に並んで歩けるのになあ、とは思う。
「斎藤さん、一寸遠回りになるけれど、土手の方に行ってみませんか? 菜の花が満開で、凄く綺麗なんですよ」
「菜の花ねぇ………」
の提案に、斎藤はあまり気乗りがしないような様子で呟く。
先月、が摘んできた菜の花を全部食べてしまって、大激怒させてしまったことを思い出したのだ。あの時は菜の花の花束と苺大福と仕出し弁当を買って、の家に謝りに行って許してもらったのである。あれは斎藤の中では、ここ2、3年のうちで一番焦った出来事だった。
その時のことを思い出して、もくすくすと笑う。大きな身体を身の置き所が無いように小さくして、気まずそうに大きな菜の花の束をくれた彼の姿はとても可愛らしくて、今思い出しても笑いがこみ上げてしまう。斎藤には悪いが、いつかまたそういうことがないかなあと思ってしまうくらいだ。
あの時は土手の菜の花はぽつぽつとしか咲いていなかったけれど、今はもう満開だ。休みの日にあのあたりを散歩すると、菜の花の香りで酔ってしまいそうになるけれど、あの香りを嗅ぐと春の到来を実感するのだ。あの感じを斎藤にも教えたい。
だからは身を乗り出すようにして、少し強引に提案する。
「凄く綺麗なんですよ。折角だから行きましょうよ。今日はお月様も綺麗ですし」
「それは関係無いだろう」
苦笑しながらも、そこまで言われたら斎藤も断る気は無いらしい。いつもは真っ直ぐ行く道を、土手のある方へ曲がった。
夜だけど、土手の近くまで来ると菜の花の匂いが漂ってきた。下は一面黄色に染まっていて、それが月明かりに照らされている様は、一寸幻想的だ。昼間の日の光の下で見るのとはまた全然違う。
「これは凄いな………」
一面の菜の花を見て、斎藤は感心したように溜息をついた。此処の菜の花は、彼の予想以上のものだったらしい。
「誰かが植えてるんじゃなくて、自生してるんですよ。お昼だったら蝶々が沢山飛んでるんです」
自分の菜の花でもないのに、は自慢げに言う。強引に連れてきたけれど、こうやって驚いてくれたなら連れてきた甲斐があったというものだ。これで昼に弁当を持って遊びにいけたらもっと良いけれど、それは流石に高望みだろうと思う。どうも斎藤は、外で食べるというのは好きではないらしいのだ。
菜の花を見ながら二人で並んで歩いていると、夜の逢い引きみたいだとは勝手に思う。月が綺麗で、下では川がさらさらと流れていて、雰囲気は最高だ。二人の間に一寸距離がありすぎるのが、一寸いただけないが。
並んで歩いていてもやはり遠慮をしてしまって、手が当たらないように必要以上に距離を取ってしまう。それだって以前に比べれば大分縮んだけれど、それでもまだ子供を一人挟んだくらいの距離があって、そこからが縮められない。近付いて、斎藤がすっと離れたら悲しいから、少し臆病になってしまうのだ。
けれど今夜は一寸近付いてみようかな、とは大胆なことを考えてみる。雰囲気は最高だし、辺りは暗くて誰もいないし、斎藤の目は菜の花の方に行っているし、少しくらい近付いても気付かれはしないだろう。気付かれないのはそれはそれで寂しいけれど、気付かれて距離を置かれるよりはずっとマシだ。
斎藤の様子を窺いながら、音を立てないようにそぉっと近付いてみる。少し近付いてみても気付く気配が無いから、もう少し近付いてみた。
こんなに近付いて歩くのは、多分初めてのことだ。見上げる斎藤の顔は、当然だけどいつもよりもずっと近くて、はドキドキしてしまう。本当の恋人同士だったら、これくらい近付いて斎藤を見上げるのだろう。それとも、もう少し近付けるのだろうか。
本当の恋人同士の距離を想像すると、それだけでの鼓動は早くなってしまう。もし手を繋いだら、これよりももっと近付けるのだ。前に2回手を繋いだことがあったけれど、あの時よりももっと近付いて歩きたい。斎藤の性格からして、手を繋いで歩くなんて滅多になさそうだけど。
でも、こんな夜だったら手を繋いでくれそうな気がする。というより、繋ぎたい。繋いで欲しい。
そんなことを考えているうちに、少し近付きすぎたらしい。と斎藤の手が、パシッと軽く当たった。
「すみませんっ」
は慌てて手を引っ込めた。顔が真っ赤になってしまって、それを隠すように軽く俯く。
「いや、別に………」
手がぶつかったよりもの反応にびっくりして、斎藤は少し唖然とした顔をしてを見下ろした。
夜道ではあるが、が耳まで紅くなっているのは何となく判った。その反応が可笑しくて、斎藤は僅かに口許を綻ばせる。たかだか手が当たったくらいでそんな反応をするなんて、可愛らしい。
少し離れて、また歩き始める。けれど無意識に斎藤の方に寄ってしまうのか、またの手がぶつかった。
「あっ………」
「…………………」
流石に2回目となると、斎藤もどうしたものかと考える。わざとではないとは思うのだが、連続して手がぶつかるとなると、やはりぶつからないように対処するべきだろうか。
の様子を見ると、さっきよりも更に顔を赤くして、ぶつかった手を胸の前で握り締めていた。俯いているから表情までは判らないが、かなりきまりが悪そうだ。
此処で手を繋いだらどんな反応をするだろう、とふと斎藤は思った。益々顔を赤くして身を硬くするか、それとも嬉しそうにこちらを見上げるか。以前、手を繋いで歩いた時は、首まで真っ赤にして俯いていたけれど、嬉しそうな雰囲気ではあった。
試すように、斎藤は胸の前で握り締められているの手に自分の手を重ねてみた。
「………………っっ!!」
一瞬、の身体がびくっと震えて、恐る恐る顔が上げられる。その顔は真っ赤で、目も潤んでいて、斎藤は何故か気恥ずかしくなって菜の花の方に顔を向けた。
「こうすれば、当たらないだろう」
照れ隠しにぶっきらぼうに言うと、斎藤はの手を柔らかく握って下に下ろした。そうすると自然と手を繋いだ形になって、もまた俯いてしまう。
空には満月。下には菜の花。春の柔らかな風が吹いて、隣には好きな人がいる。しかも手を繋いで。夢みたいだけれど、夢じゃない。
嬉しくて嬉しくて、の心臓は破裂しそうなほどドキドキしている。ずっとこのまま、二人で手を繋いで歩く道が永遠に続いたら、どんなに良いだろう。
こういう時は何か気の利いたことを言った方が良いのだろうが、胸が一杯で言葉が出ない。何も言えない代わりに、土手の方を向いたままの斎藤を見上げて、はきゅっと手を握り返すのだった。
月夜の晩に、菜の花を見ながら斎藤とデート(?)です。手を繋ぐだけの話ですが、拍手小説としてUPした時は非常に反応が良かったです。兎部下さんは、この路線が一番好評のようですね。
ただ並んで歩くだけでドキドキ、手が触れたら真っ赤になって、手を握ったら心臓が破裂しそうなんて、何だか純情な中学生のようですね、兎部下さん(笑)。斎藤もリードするどころか似たようなレベルってところが………。でも、部下さん相手に、妙に女の扱いに慣れてる斎藤っていうのも、一寸アレですもんねぇ。すぐ毒牙にかけそう(←おいっ!)。
一緒にUPした蒼紫のシリーズは順調にステップアップしていきましたが、この兎さんと狼さんのコンビは、ずっと足踏み状態でいて欲しいなあ、と私的には思ってしまうのです。