桜
警視庁の桜並木が満開になった。一寸前まで枯れ木だったのに、一つ開花したらあっという間だ。斎藤の執務室からは桜が良く見えるから、は暇さえあればずっと並木の方を見ている。今も朝の掃除の手を休めて外を見ると、下では今年入庁した女子職員たちが桜の木の下できゃあきゃあ騒ぎながら掃き掃除をしていた。
外の掃除は新人の仕事だ。も警視庁に入庁した最初の一年は、ずっと外の掃除をしていた。
「今日もあいつらはうるさいな」
執務室に入りながら、斎藤が呆れたように声を掛けてきた。
「あ、おはようございます。今からお茶の用意をしますから、一寸待っててください」
ぼんやりしているうちに、斎藤の出勤時間になっていたのだ。いつもなら今頃は掃除を終わらせて茶の用意をしているのに、今日は少しのんびりしすぎてしまった。
は慌てて給湯室に行くと、たまたま湯を沸かしていた同期の女子職員から少し分けてもらって、斎藤の分だけ茶を淹れてきた。
「お待たせしました」
「ああ………」
茶を受け取りながら、斎藤桜並木の方に視線をやる。下ではまだ、新人たちが楽しそうに掃除をしていた。
「あいつら、まだ女学生気分が抜けんようだな。気楽なもんだ」
「そうでもないですよ」
雑巾を洗いながら、は応える。
「一緒に掃除をしながら相手の性格を見て、派閥の仲間に入れるかとか色々考えてるんです。桜が散るまでにどの仲間に入るか決めておかないと孤立しちゃうから、結構大変なんです」
にも覚えがあることだが、入庁したての頃はまだ知り合いもいないし、誰と性格が合うか判らないし、とても不安だった。仕事中はお喋りができないから、こういう朝の掃除の時に一寸喋って相手の性格を見て、仲良くなっていったのだ。
仲良くなった後に「失敗した」と思っても、その頃にはもう派閥がきっちり出来上がっていて、今更仲間に入れてもらえないという悲惨な状況になってしまうから、一見楽しそうな掃除風景でも、水面下では必死だ。
この桜が散るまでに仲間を作っておかないと、よほどのことが無い限り独りぼっちになってしまう。仕事中はともかくとして、一緒に昼食を食べる相手がいないというのは悲惨だ。独りで食べるのは平気だという者もたまにはいるけれど、殆どの者はそうはなりたくないと思っている。昼休みに独りで食べなければならないというのは、女の世界では何よりも悲惨なこととされているのだ。
「お前らの世界も大変なんだなあ」
の説明に、斎藤は世紀の大発見でもしたかのように驚いた顔をした。
これまで斎藤も、新人たちの動向を見ているはずなのに、全く気付いていなかったらしい。鋭い洞察力を持っているように見えて、女の世界のことには意外と疎いようだ。あるいは、殆ど接することの無い新人たちのことには関心が無かったのかもしれない。
「そうですよ。あたしも同じだったんですから」
「お前は楽しそうに見えたがなあ」
斎藤の記憶が正しければ、当時のは遠目で見る限りでは常に新人仲間の中心にいて、楽しそうにしていたはずだ。そんな深いことを考えているようには、全く見えなかった。
「えー………?」
「お前も大変だったんだなあ」と言ってもらえると思いきや、そんな反応をされてしまって、は一寸がっかりした声を上げる。
斎藤の目には楽しそうに見えたのかもしれないが、あの頃はなりに必死だったのだ。独りぼっちになるという最悪の事態を避けるために、気が合いそうな者には片っ端から声を掛けてみたり、出来かけの派閥の中に入ってみたり、結構大変だったのである。まあ、その必死さが外に伝わっていないのなら、それはそれで成功なのだが。いくら仲良くしようと頑張っても、その頑張りや必死さが表に出てしまうと、相手からは引かれてしまうものなのだから。
それにしても、斎藤がそんなの姿を知っているとは意外だった。が外の掃除をしていたのは5年くらい前の話だし、その頃はまだ彼とは口も聞いた事が無かったはずだ。
「お掃除してたの、見てたんですか?」
確かに此処からは掃除をしている新人たちの姿はよく見えるが、斎藤がそんなものを真剣に見ているとは思わなかった。そういうのには興味は無いとは思っていたが、意外と若い娘がきゃあきゃあ騒いでいるのを見るのが好きなのかもしれない。堅そうに見せながらも、彼もただの男だったということか。
斎藤の意外な一面を発見して、は一寸引いてしまった。若い娘の姿を見て鼻の下を伸ばす斎藤なんて、想像したくもない。
の目が変わったことに気付いて、斎藤は慌てて弁解するように言う。
「別に見ようと思わなくても、嫌でも見えるんだから仕方ないだろう。大体、お前の当番の時はいつもうるさかったから―――――」
「うるさいのは私だけじゃないですぅ!」
ぷぅっと膨れて、は反論する。
あのころは確かに、女学校を出たばかりで今よりもずっと落ち着きは無かったけれど、でもだけが飛び抜けてうるさかったということはないはずだ。特に彼女の同期はうるさいと評判だったし、その中で飛び抜けて、ということはありえない。
けれど斎藤は意地悪く口の端を吊り上げて、
「いいや、お前が一番うるさかった。お前の声だけは飛び抜けて此処まで聞こえていたからな」
「えー?!」
確かに声の通りは良いとはよく言われているけれど、まさか飛び抜けて聞こえるほどだったとは。しかも声の主がだと特定できるほどに聞こえていたとは、今更ながら恥ずかしい。
でも、そんな頃から斎藤が自分を見ていてくれていたのかと思うと、恥ずかしいけれど一寸嬉しい。が斎藤を知らないうちから、彼は彼女のことを知っていたなんて、もしかして“運命”なのかな、と思えてくる。
あの頃の斎藤は自分のことをどう思っていたのだろうと想像すると、それだけではドキドキしてしまう。そして、が斎藤の下に配属された時、彼はどう思ったのだろう。
「そんな昔からあたしのことを知っていたなんて、不思議な感じですね。斎藤さんと縁があるのかなあ?」
この部屋から桜並木までは結構な距離があって、目が良いでも新人を個体識別はできないのに、斎藤は同期の中から彼女だけを見つけてくれていたのだ。そして彼女の声だけは聞こえていたなんて、やっぱりには“運命”だと思えてくる。本当に斎藤が“運命の人”だったら、どんなに良いだろう。
桜の木の下にいるを斎藤が見つけてくれていたなんて、まるで物語みたいだ。物語だったら二人は結ばれることになるのだけれど、現実はどうなるのだろう。
目の縁を紅く染めて茶を啜る斎藤を見て、はふふっと笑った。
春は始まりの季節。というわけで、今年の新人ちゃんたちを見ながら、兎部下さんが新人ちゃんだった頃を思い出す二人です。
女の世界って、色々大変なんですよ。中学からずっと“女の世界”で生きてきた私が言うんだから間違いない(笑)。いや本当に、職場も女の世界なんですよ。お陰で、女の世界を無難に泳ぎきる技術には自信があります。
兎部下さんは素直で可愛いから、きっと女の子の間でも好かれてるんじゃないかなあ、と思います。素直な子は何処の世界でも好かれるものです。
しかし斎藤、遠く離れた部下さんを発見できるなんて、凄い目と耳をしてますなあ。愛の力?(笑) その頃から部下さんに目をつけていたとしたら、一寸怖いけれど笑えますね。