『葵屋』へ行く道の途中に、長い桜並木がある。気が付けば桜はもう満開で、柔らかな風が吹くとひらひらと儚げに花びらを散らしている。
 今日は珍しく、蒼紫に『葵屋』に招待された。昨日、美味しい桜餅を貰ったから、にも振舞いたいのだという。彼がお茶をやるとはには初耳だったが、まあそういうのが似合いそうな雰囲気ではある。
 室内でやるのか野点なのかは訊き損ねてしまったが、こんな良い天気の日に茶をてるなど優雅なものだ。『葵屋』の庭はの家の庭よりもずっと立派だから、それを見ながら茶を飲むというのはきっと楽しいに違いない。
「あ………」
 手土産を何も考えてなかったことに気付いて、はふと足を止めた。蒼紫だけならともかく、同居人もいるのだから手ぶらで行くというわけにはいかない。
 本当は菓子が一番無難だが、先方で桜餅を用意しているというのだから、それは駄目だろう。かといって、残るようなものではかえって迷惑になるかもしれないし、“一寸した手土産”というのは簡単なようで難しい。
「うーん………」
 桜餅に合いそうな良いものはないだろうかと、顎に手を当てて考える。今の季節なら蓬餅というのも組み合わせとしては綺麗だが、菓子はそんなにいらないだろう。まあ、『葵屋』は操を初めとする若い女たちがいるから、菓子はいくらあっても構わないかもしれないが、
 そんなことを考えていると、突然強い風が吹いた。ざあっと枝が揺れて、桜の花びらが一気に降り注ぐ。
「あらら………」
 着物にも花びらがかかってしまって、は小さく溜息をついて軽く払った。桜の花びらがはらはらと散るのは綺麗だけど、こんなに一気に降り注がれると風情も何もあったものではない。
 傍の木を見上げると、さっきの風で大分散ってしまったのか、所々寂しい状態になっている枝もある。桜は咲いてしまうと散るのも早いから、今が盛りなのだろう。来週にはもう、葉が混じった見苦しい状態になっているかもしれない。
「桜………」
 そういえば、花屋に桜の枝が売ってあった。暫く蒼紫とは休みが合わないから、今年は多分花見には行けないだろうし、桜の枝を何本か買って、それを花見の代わりにすれば良い。桜の花を見ながらのお茶というのは、いかにも優雅だ。
 自分の発想に満足げに微笑むと、は軽い足取りで歩き始めた。





 我ながら良い考えだと思ったのだが、何処の花屋も桜は売り切れになっていた。今の時期はもう、桜の出荷自体が終わっているのだと店員は言っていた。
 代わりに、昨日入荷したばかりだというオランダ産の“チューリップ”とかいう花を勧められて、断るのに一苦労だった。赤だの桃色だの、確かに可愛い花だとはも思ったけれど、西洋の花は茶の席には合わない。
 仕方が無いので、桜の代わりに桜草の鉢植えを持って行くことにした。形は全く違うけれど、一応“桜”と名前にも付いているのだし、気は心というやつだ。
「こんにちは」
 『葵屋』の勝手口から声を掛けると、すぐに蒼紫が出てきた。いつもならお増かお近が出てきて、彼は奥の部屋で待っているのに、珍しいことだ。
「遅かったな。どうしたのかと思ったぞ」
 を中に招きいれながら、蒼紫は少し不機嫌に言う。どうやら彼女の到着があまりにも遅いので、待ちくたびれて途中まで迎えに行こうとしていたらしい。
 迎えに来てくれるのだったら、もう少しゆっくりして、あの桜並木を一緒に歩きたかったなあ、と思ったが、それを言うと怒られそうなのでは黙っている。代わりに、少し申し訳なさそうな顔をして、
「ごめんなさい、一寸買い物をしていたの。これ、お土産。桜草よ」
「そんなに気を使わなくても良かったのに」
 鉢植えが入った袋を渡されて、蒼紫は小さく苦笑した。いつもの家に遊びに行く時は蒼紫は手ぶらなのだから、土産など必要無かったのに。彼にとっては、と二人で『葵屋』の庭を見ながら茶を飲むだけで十分なのだ。
「本当は桜を買うつもりだったんだけど、何処も売り切れだったの。今年は一緒にお花見に行けそうにないから、一枝だけでもって思ったんだけど………」
「ああ………」
 言われてみれば………と思い出したように、蒼紫は小さく声を上げた。
 最近は旅館も料亭も忙しくて忘れていたが、世間では花見の季節だったのだ。日が暮れてからの家に行く日が続いていたから、桜の花をのんびりと見上げるということも無かったし、と休みも合わないから、花見をしようという発想も無かった。
「一寸違うけれど、今年の桜はこれで。来年はちゃんとお花見に行きましょう」
 今年の桜を二人で見られないのは残念だが、桜は今年だけのものではない。来年も再来年も変わらず咲くのだし、来年も再来年も二人は変わらず一緒にいるのだから。
「………いや―――――」
 の襟首に小さなものが挟まっているのに気付いて、蒼紫はそっと手を伸ばした。
「今年の桜はこれで」
 にっこりと微笑む蒼紫の指先には、桜の花びらが一枚あった。あの桜並木を通った時に挟まったものらしい。
 地面に落ちなかったそれは、瑞々しい桜色をしていた。一筋の皺も破れも無くて、あんなところに挟まっていたのにとても綺麗な形をしている。
 こんなものが首に入っていたのに気付かなかったのには驚いたけれど、は蒼紫に釣られるように微笑んでしまう。
「花びら一枚だけの花見?」
「桜の花びらが地面に落ちる前に拾うと、“いいこと”があるんだそうだ。操が言っていた。だから、今年はこれで良い」
 蒼紫の言葉に、はぽかんとした顔をしてしまった。酔っている時は別として、蒼紫がこんな乙女のようなことを言うなんて信じられない。
 けれど、いつもは現実主義者の顔をしている蒼紫が、こんな夢のあることを言うなんて微笑ましい。信じる信じないは別として、そんなことを言うのがとても可愛らしくて、はくすくす笑ってしまった。
「でも、その後利益はもう終わっちゃったかも。私の“いいこと”は、たった今あったから」
「え?」
 不思議そうな顔をして、蒼紫はを見た。
「何があったんだ?」
 凄く知りたそうな顔をして訊いてくるけれど、はふふっと笑うだけで答えない。
 桜の花びらを見つけて、蒼紫がにっこりと微笑んでくれたこと。それは“いいこと”というにはあまりにもちっぽけなことかもしれないけれど、大好きな人がそうやって笑ってくれることは、凄く嬉しい。
「んー、内緒ぉ」
 くすくすと笑いながら、は蒼紫の部屋に歩いて行った。
<あとがき>
 今年の春は何故か忙しくて、のんびり桜を見る余裕すら無かったです(涙)。通勤の途中にある桜を観ただけで終わってしまいましたね。来年はきちんと花見をしたいです。
 考えてみれば、主人公さんが『葵屋』に遊びに行くというのが無かったので、今回は『葵屋』に遊びに行かせてみました。ドリームには書いてませんが、二人がお茶を飲んでいる間は『葵屋』の人々は蒼紫の部屋の前を意味も無くうろちょろしてそうです(笑)。
 “桜の花びらが地面に落ちる前に取ったらいいことがある”というのは、以前メールで教えていただいたジンクスです。私は初めて聞いたんですけど、なんだかロマンチックで良いですね。椿さん、ネタ提供ありがとうございました。
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