菜の花
やっと火鉢がいらない日が増えてきて、久々に二人で外出した。このまま閉じ籠りきりの生活が続いたらどうしようとは本気で危惧していたのだが、どうやら杞憂だったようだ。蒼紫は基本的にあまり外出はしないが、彼女が誘えば喜んで付いてくるし。家と職場の往復では気付かなかったが、いつの間にか梅の花も咲いていて、春はもうそこまで来ている。来月には桜も咲くだろうし、そうしたら弁当を持って花見に行こうとは思う。
「何だか急に暖かくなったなあ」
川べりを歩きながら、蒼紫が独り言のように呟いた。
「そりゃそうよ。もう3月なんだもの。蒼紫もちゃんと起きられるようになったし、そろそろ火鉢も片付けなきゃね」
「うーん………」
からかうように言うの言葉に、蒼紫は困った顔をして小さく唸る。暖かな日が続いて火を入れることが無くなった火鉢はすっかり邪魔ものになっているが、本当になくなってしまうのは一寸嫌らしい。冬の間中、ずっとくっ付いていたものだから、無くなってしまうと寂しいのかもしれない。
けれど、今時火鉢があるなどの家くらいなものだ。先日、彼女の友人が遊びに来た時も、びっくりされて爆笑されたものである。「うちには寒がりのお客さんが来るから」と言い訳したものの、恐らく面倒臭くて出しっぱなしにしていると思われていることだろう。場所を取る上にいらない恥までかかされて、としては蒼紫がいなければすぐにでも物置にしまいたいくらいなのだ。
「あ、菜の花」
少し先の土手が黄色く染まっているのを見つけて、は繋いでいた手を解いてそっちの方に走って行った。
「凄い……もう満開になってる」
土手から川まで一面菜の花で埋まっていて、は思わず溜息をついた。さわさわと風に揺れながら春の香りを放っていて、その香りは何だか懐かしい気持ちにさせる。
ふと、子供の頃、許婚と近所の菜の花畑で遊んでいたことを思い出した。母親が弁当を持たせてくれて、菜の花を摘んだり許婚が蝶々を取ってくれたりして、今となっては懐かしい思い出だ。
梅よりも桜よりも菜の花が好きなのは、きっとそんな思い出があるからだろうと思う。あの頃は二人とも本当に子供で、彼はいつも纏わり付く小さなを少し鬱陶しそうに見ていたけれど、それでもちゃんと相手をしてくれた。今思えば、同じ歳の男の子たちと遊ぶ方が楽しかっただろうに、よくあんな小さな自分の相手をしてくれたものだとは思う。もしかしたら、あの頃から周りの大人に「大人になったら結婚するんだから」と言い含められていたのかもしれない。
けれど彼は結婚する前に死んでしまった。甘えるばかりで許婚らしいことを何一つしてやれなかったことが、今でもには心残りだ。彼の仕事が命を落とすほど危険なものだと知っていたら、何もかもを済ませてから送り出したかったと、今でも思う。そうすればきっと、たとえ同じ結果だったとしても、こんなにも彼に心を残したりはしなかっただろう。
菜の花は懐かしい気持ちになるけれど、彼との思い出が詰まりすぎていて切なくもなってしまう。一番好きな花だけれど、でも―――――
物思いに耽っていると、突然蒼紫がの手を強く握った。
「?!」
その感触には一気に現実に立ち戻る。驚いて隣を見ると、心配そうな顔をした蒼紫が立っていた。
「どうしたんだ、そんなに物思いに耽った顔をして」
「うん………」
昔のこと、そして許婚のことを思い出していたとは言えなくて、は気まずそうに目を伏せる。
結婚の約束もしているのに、それでもまだ彼のことを忘れられないのかと誤解されるのは嫌だった。こうやってたまに思い出して切なくなることはあるけれど、彼のことは既にもう過去のことで、切なくなるのもただの感傷に過ぎないのだから。今のにとっての“一番”は蒼紫だと、自信を持って言える。
けれど隠そうとしても蒼紫にはの考えていることが解ってしまったらしく、握っていた手に更に力を込めた。まるで、彼女が何処にも行かないように繋ぎとめようとしているかのように。
「今度、弁当を持って此処に来ようか。花見は桜ばかりじゃない」
「どうしたの、急に」
思い出の中の許婚に対抗するかのような蒼紫の言葉に、は驚いて彼を見上げる。
けれど蒼紫は何も考えていないような呑気な声で、
「冬の間、ずっと何処にも行かなかったからな。たまには何処かに連れて行かないと、怒りっぽくなるようだし」
「何よ、それ?」
小さく笑って冗談めかして言う蒼紫を、は微量の媚を含んだ上目遣いで軽く睨みつけた。
表面上は二人とも冗談めかしているけれど、お互いに相手の考えていることを探るような目をしている。相手の気持ちを疑っているわけではないけれど、でも蒼紫としては気にならないわけが無いし、そうなるとの方も後ろめたさを感じずにはいられない。
蒼紫と二人で菜の花の思い出を作っていったら、菜の花は許婚の花ではなくて、蒼紫の花になるのかな、とは考えてみる。そうやって少しずつ許婚との思い出を蒼紫との思い出に書き換えていって、何を見ても蒼紫を思い出すようになる日が来るのだろうか。
それは少し寂しい気がするけれど、でも蒼紫と生きていくというのはそういうことだ。それに、いつかそうなれば良いと思う自分がいるのもまた事実。許婚のことは忘れなくても良いと蒼紫は言ってくれるけれど、そうやって少しずつ彼が遠い思い出の人になることを、は望んでいる。
「次の休みに、『葵屋』のお花見のお重を持ってきて。私、お菓子とお酒を用意しておくから」
きゅっと手を握り返して小さく微笑むと、は蒼紫に軽く寄りかかった。
私は毎年、菜の花でお花見をします。桜も好きですけど、菜の花の方が“春が来た”って感じがしますねぇ。あの黄色が、春って感じです。
蒼紫のことが一番好きでも、やっぱり許婚のことは思い出してしまう主人公さん。たとえ過去になってしまっても、本当に好きだった相手のことは忘れられないものですよね。何も無いまま別れてしまった相手なら尚更。“未練”とは違うけれど、何なんだろうな、あれは?
けれど、誰が言ったか知らないけれど、「男の恋は“保存して終了”、女の恋は“上書き保存”」。主人公さんの想い出は、こうやって少しずつ蒼紫との想い出に書き換えられていくんでしょうね。それは少し寂しいけれど、でもそうやって書き換えられるっていうのは、きっと幸せなことです。
何年か後の春に菜の花を見る時には、蒼紫とお花見をした時のことを思い出せるようになると良いですね。