菜の花

 の家の近所の土手にも菜の花がちらほらと咲き始めて、春が近いことを示している。もう少しすれば土手は綺麗な黄色に染まって、下の方で弁当を広げる家族連れや、土筆取りをする人の姿を見ることができるだろう。
 もそうやって斎藤と一緒に弁当を食べたいと思って誘ったことがあるのだが、即座に断られてしまった。ああいうところで食べるのは好きではないのだという。食事は屋根のあるところでなければ嫌だということなのだろう。
 けれど、この菜の花を斎藤に見せたい。前に梅の花を見せた時は嬉しそうだったから、花を見るのは好きだと思うのだ。
 彼の家は何も無くて殺風景だから、菜の花を飾るだけでぱっと明るくなると思う。それに、花が散っても種が残っていたら、庭に植えることもできる。上手くいけば、何年後かには斎藤と二人で庭の菜の花を見ながら食事もできるだろう。
 何年か後の春に、二人で菜の花で一杯になった庭を眺めるのを想像してみる。その頃には二人は一体どうなっているだろう。今よりも関係が進んでいて、ぺったりと寄り添っていられたら良いなあと思う。
 寄り添っているどころか、子供まで生まれていたらどうしよう。自分にそっくりの女の子と、斎藤にそっくりの男の子がいて、庭で遊ぶ子供たちを二人で眺めているところまで想像して、はうっとりしてきた。まだ手を繋いだことしかないくせに、こういう想像は果てしなく暴走してしまうのだ。
 この素敵な未来図を、妄想だけで終わらせたくない。これを現実にするには、どうしても菜の花が必要な気がしてきた。二人で菜の花が咲くのを観察したり、出来た種を庭に植えたりするうちにもっともっと仲が進展するかもしれない。一つのことを二人で協力し合って達成すると、親密度が格段に上がるというのはよく聞く話ではないか。
 さわさわと揺れる菜の花を見ながら、菜の花を巡る二人の未来予想図を果てしなく妄想して、は一人でニヤニヤしてしまうのだった。





 そして翌日。
 斎藤は残業で遅くなるということで、今日は兎の世話をするだけで帰ることになってしまった。残業の日は大抵、警視庁で店屋物を取って済ませるので、夕飯入らないのだ。
 折角菜の花を持ってきたのに見せられないのは残念だが、仕事なら仕方がない。幸い、まだ硬い蕾のものを中心に摘んできたから、強いて今日見てもらわなくても問題はないだろう。
 卓袱台の上に新聞紙にくるんだ菜の花を置いていると、見慣れないものが気になって仕方がないのか、兎が体を伸ばして鼻をひくひくさせている。どうやら自分の餌だと思っているようだ。
「これは食べるものじゃないよ。2、3日したらお花が咲くから待っててね」
 今にも菜の花を食べてしまいそうな様子の兎に、は頭を撫でながら優しく言う。菜の花は蕾のうちは食べることが出来るけれど、これは食べるために取ってきたものではないのだ。斎藤と二人で花を見て、ゆくゆくは種を取って庭に植えなければいけないのだから。
 けれど兎は、どうして食べてはいけないのか理解できない様子で、不思議そうに小さく首を傾げる。兎にしてみれば、美味しいものを目の前に置いているくせに食べてはいけないと言われるのだから当然だ。
 誰もいない時に兎が菜の花を食べてしまわないようにしなくては。は花束を取ると庭に下りて、水を張った桶にそれを突っ込んだ。兎は庭に下りないから、此処に置いておけば大丈夫だ。後は花を飾る花瓶を持って来れば良い。
 明日から、斎藤と二人で菜の花を観察できると思うと嬉しくて、はまだ硬い蕾を見ながら小さく笑った。





 その翌日、二人とも非番だったので、は昼から花瓶を持って斎藤の家に向かった。
「あれ………?」
 昨日の夕方に井戸端に置いていた菜の花が無い。勿論家の中にも無かったし、は花瓶を抱えたまま井戸端で首を傾げる。
「ああ、その菜の花なら、兎と一緒に昨日食ったぞ。俺が菜の花が好きだってこと、よく知ってたなあ」
「え―――――っっ?!」
 兎を構いながらの悪びれもしない斎藤の言葉に、はびっくりしてそのまま固まってしまった。
 あの菜の花は、食べるためのものではなかったのに。しかも、結構な本数を摘んできたはずなのに、それを全部食べてしまっただなんて。
 怒っているのか悲しいのか悔しいのか、自分でもよく判らない気持ちが体の中をぐるぐる回って、行き場の無い感情にの身体はぶるぶる震えてきた。あの土手にわざわざ見に行くのは嫌だろうから、此処で二人で菜の花を見ようと思って摘んできたのに。毎日綻んでいく蕾を見ながら、「早く咲くと良いですねぇ」なんて夕食の話題にしたかったのに。
 確かに菜の花は食べられる花なのだから、おかずにするために置いていると思われてもおかしくはないし、食べないように書置きをしておかなかったも悪かったのかもしれないが、それにしても一人で全部食べてしまうのはひどすぎる。彼女がこういう季節ものが好きなのは承知しているくせに少しも残していないなど、思いやりというものが全く無いではないか。
 何から抗議して良いのか分からないくらい頭が混乱して、言葉の代わりに涙が出てきて、今にも零れ落ちそうなくらい目が潤んできた。の目は人一倍大きいから、潤んでいるだけでも泣いているように見える。
 真っ赤な顔をしてぶるぶる震えているを見て、斎藤は漸く事の重大さに気付いたのか、兎を構う手を止めてぎょっとする。そして早口で取り繕うように、
「もしかして、今日の夕飯だったのか? や、一人で食べたのは悪いと思ったんだが、つい………。そうだ、今から八百屋に行って買ってくるから―――――」
「あれは食べる菜の花じゃなかったんです! 斎藤さん、菜の花見物に行きたがらないだろうから、せめて此処で見ようと思って摘んできたのにっっ!! 種が出来たら此処に植えようと思ってたのに………。もういいですっっ!!」
 怒りに任せて言いたいことをぶつけると、唖然としている言葉も出ない斎藤を残して、そのまま家を飛び出した。





 家に帰っても悔しくて悲しくて、夕飯を作る気力も起きない。菜の花などあの土手に行けばまだいくらでもあるのだし、それくらいのことで斎藤を怒鳴ったのは大人気なかったかなと少し思わないでもなかったが、それでもやはりには許せないことだった。菜の花を食べてしまったことよりも、彼女の分を残してやろうという気持ちが無かったというのが許せない。調理してしまっても、それを「お前も食え」なんて出されたら、一寸は怒ったかもしれないが、笑って許せたかもしれないのに。
 こういう時、もしかしたら自分と斎藤は価値観が合わないのかな、とは思う。は斎藤と一緒にいろんなところに行きたいと思っているけれど、斎藤はあまり外出したがらないとか、彼女は一年の行事を一つ一つ大事にしたいと思っているけれど、彼はどうでも良いと思っているなど、少しばかり感覚がずれている。菜の花の件にしても、斎藤は食べることしか考えてなかったし、食べるにしてもの分を残すという思いやりが欲しかったのに。
 けれど、合わないとか何とか思いながらも、まだ斎藤のことを好きな自分がいるのも事実。斎藤がいない毎日などには考えられないし、考えたくもない。
 夕御飯も作らないまま飛び出してしまったけれど、斎藤と兎はちゃんと食べただろうかと、ふと思った。斎藤はいい大人だから自分の分くらい何とかすると思うが、兎にもきちんと餌を与えただろうか。面倒臭がって人参を丸々一本投げ与えるような男だから、一寸心配だ。あんなに派手に怒鳴って飛び出したくせに心配するなんて馬鹿みたいだと思うけれど、やはり気になってしまう。
 そんなことを考えていると、誰かが玄関の戸を叩く音がした。
「はーい!」
 潤んだ目を擦って、は玄関を開けた。
「?!」
 そこに立っていたのは、気まずそうな顔をした斎藤だった。手には満開の菜の花の花束を持っていて、そのあまりにも意外な組み合わせに、は挨拶をするのも忘れて唖然としてしまった。
 満開の菜の花など、花屋から買ってきたのだろうか。絶対にこんなものは買いそうにない男なのに。否、それ以前に、菜の花と斎藤など、もの凄い組み合わせだ。
「さっきは悪かったな」
 唖然として口を開けたまま何も言えないに、斎藤が凄く気まずそうに言ってきた。斎藤が謝りに来たというのも信じられなくて、は益々唖然としてしまう。
 「そんなに気にしないで下さい」とすぐに応えなくてはいけないと頭では判ってはいるのだが、斎藤が花束を持ってきたというのと、わざわざ家まで謝りに来たという事実に頭が付いていけなくて、言葉が出ない。せめて、「菜の花ありがとうございます」くらい言わなくてはいけないのに。
 何も言えないのを機嫌を損ねていると勘違いしたのか、斎藤は益々気まずそうな顔をして言葉を続ける。
「さっきの菜の花の代わりといっては何だが………。それと、仕出しの弁当とお前の好きな苺大福も買ってきたから、一緒に食べよう」
「苺大福?!」
 その言葉に、は思わず身を乗り出した。苺大福は、彼女の大好物なのだ。でも苺大福を買ってきてくれたことより、斎藤が自分の大好物を憶えてくれいてたことの方が何倍も嬉しい。
 目を輝かせて喜色満面のの顔を見て、漸く機嫌を直してくれたかと斎藤はほっとした。落ち込むことはあっても怒ることはないが激怒した時は、本当にどうしようかと思ったのだ。日頃怒らない人間が怒ると、そのままこれまでの関係まで断ってしまうことも少なくない。それだけは絶対に避けたかったし、そのためにいつもなら絶対に入らない花屋や菓子屋を駆けずり回った甲斐もあったというものだ。
 花束を渡しながら、
「考えてみれば、いつもお前に飯を作らせてばっかりで、俺が何かしてやるということが全然無かったもんなあ。今度の休みには二人で何処かに行くか」
「えっ………?!」
 思いがけない斎藤の誘いに、はぱっと頬を紅くした。
 二人で何処かに出かけるなど、もしかして逢い引きの誘いだろうか。斎藤と行きたいところは沢山ありすぎて、どこから行けば良いのか判らないくらいだけど、一番行きたいのは斎藤の家の近くにある洋食屋だ。あそこでコース料理というのを食べながらワインとかいう洋酒を開けたら、自由恋愛中の恋人同士みたいではないか。それで夜道を手を繋いで歩いちゃったりなんかしちゃったら、最高だ。
 そんなことを想像していたら、菜の花を食べられたことなどどうでも良くなってきた。否、斎藤が花束を持ってきてくれた時点で、の中ではもうどうでも良くなっていたのだろう。
 でもあまり簡単に機嫌を直すと単純な女だと思われそうで、はこみ上げる笑いを隠すように菜の花の中に顔を埋める。もう夕方だけどお日様の匂いがして、その香りに胸がきゅうっとしてしまうのだった。
<あとがき>
 花束を持って「ごめんなさい」をする斎藤を書きたくて書いたネタです。菜の花の花束と斎藤なんて、凄い組み合わせだな………。しかも、苺大福付きですよ。自分で書いておいてアレですが、ありえねぇ………(汗)。
 しかし、庭先にある菜の花を発見して、観賞用とは思わずにさっさと食っちゃうなんて、一寸口卑しいぞ、斎藤(笑)。やっぱり斗南の貧乏生活のせいで、食べ物に対しては一寸執着が強いのかな。原作でも食べるシーンが結構あるし(蕎麦ばっかりだけど)、ああ見えて結構食いしん坊なのではないかと勝手に睨んでいます、私。
 部下さんも何度も洋食屋デートを妄想しているので、そろそろ洋食屋に連れて行ってあげたいですね。でもナイフとフォーク使えるのかな、この二人。箸で洋食を食べるって、アリですか?
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