雛祭り

 操が雛人形を見たいと言っているから出して欲しい、と蒼紫に言われて、は朝から準備をしていた。
 実家を出た時に家財道具と一緒に持って来てはいたのだが、飾るのはこの家に来てから初めてのことだ。ずっと押入れに入れっぱなしだったから、黴やネズミが心配だったけれど、幸いにも綺麗に保存できていたようだ。衣装にも紙魚しみも虫食いも無い。これなら『葵屋』の面々にも安心して見せられる。
 数日前、たまたま雛祭りの話題が出たから、つい「うちにもお雛様があるのよ」と口を滑られてしまったのだが、こんなことになるなら言わなければ良かったと、は少し後悔してる。雛人形は、出すのも片付けるのも一日作業なのだ。蒼紫は何もしないから「操にも見せてやろう」などと軽く言うし、勝手に約束までしてくるし、罰として後片付けは全部蒼紫にやらせようと思う。
 そんなことを考えていると、玄関が開く音がして蒼紫が家に上がってきた。以前は「お邪魔します」と一声掛けていたのだが、最近はこうやって我が家のように無言で上がってくる。最近では殆ど毎日のように此処に来て、『葵屋』にいるよりも長い時間を過ごしているから、もう我が家も同然なのだろう。この分だと、一緒に暮らす日も近いかもしれない。
 雛人形を粗末に扱うと縁遠くなると昔から言うけれど、今まで自分にそういう相手が現われなかったのはそのせいだったのだろうかと、はふと思った。許婚のこともあって出会いを避けていたところも勿論あったけれど、箱に閉じ込められっぱなしだった雛人形が怒っていたのかもしれない。お陰で蒼紫に出会えたのだから、彼女としては何一つ問題は無いのだが。
 そして雛人形が縁に関係するというのなら、自分たちを外に出してくれるかもしれないと思って、蒼紫をに引き合わせてくれたのかもしれない。蒼紫が雛人形を出そうと言わなければ、今年も人形たちは押入れの隅に追いやられていたはずだから。そんなことを想像すると可笑しくて、は人形を見て小さく笑う。
「全部出してしまったようだな。立派な雛人形じゃないか」
 『葵屋』から持ってきたお重と菓子を置いて、蒼紫が感心したように言った。
 の雛人形は五段飾りのごくごく普通のものだが、そう言われるとと悪い気はしない。出してしまうまでは面倒臭かったけれど、出して良かったと思う。雛人形たちも褒められて、心なしか表情が嬉しそうだ。
「あ、でも―――――」
 不意に蒼紫がお内裏様とお雛様に手を伸ばすと、右と左を入れ替えた。
「何をするの?!」
 お内裏様を向かって左側、お雛様を右側に置き直されて、は思わず大きな声を出してしまった。けれど、蒼紫は全く悪びれた様子は無く、
「お内裏様は左、お雛様は右じゃないか。久々に出したから忘れたのか?」
「違うわ。お内裏様が右で、お雛様が左よ。男の人だから判らないだろうけど、そう決まってるの。宮中では天皇さんが右、皇后さんが左でしょ」
「宮中ではどうか知らないが、東京で暮らしていた時は何処でもお内裏様が左、お雛様が右だったぞ。東京の人間が揃いも揃って間違えるなんてことがあるはずが無い」
 の説明など聞く耳持たず、蒼紫は強硬に言い張る。ほかのことは譲っても良いが、こういう行事ごとはきちんとしておかないと、が恥をかいてしまうのだ。特に今日は翁と操が来るのだから、こういうことはきちんとさせておかなくてはいけない。
 蒼紫は男であるが、お庭番をやっていた頃は大名屋敷や江戸城の雛人形を見ていたのだ。それらは全てお内裏様が左、お雛様が右に置かれていた。町人の家でならともかく、格式のある大名がそんな間違いをするわけが無いではないか。だから、“お内裏様は左、お雛様は右”というのが正しい。
 けれど強気でそう言われては、も引っ込めない。確かに雛人形を出すのは久々ではあるが、実家の母親にも確認したし、念のために人形屋に展示してあるのも見てきたのだ。これで食べていっている人形屋が間違う道理が無い。
 としても、他の事はほんの数日のことなら譲っても構わないが、雛人形は別だ。変な置き方をして哂われるのはであるし、蒼紫が勝手に置いたと言ってもそれは変わらない。これから『葵屋』の人間とは長い付き合いになるのだし、何も知らない女だと思われては困るのだ。
「だって、お雛様ってもともと宮中のものでしょ。それなら天皇さんと同じで、お内裏さまは右よ」
 そう言いながら、は二つの人形を入れ替えた。そこをすかさず、蒼紫も更に入れ替える。
「宮中がそうだといっても、そもそもそれが勘違いなんじゃないのか? 大体、宮中なんか見たことも無いくせに。俺は江戸城の人形も見たことがあるんだ。そこでも人形はこうだった」
「何で蒼紫が公方さんの雛人形なんか知ってるのよ。士族でもないくせに」
「それは………」
 の指摘に蒼紫は言葉に詰まってしまった。
 自分が御庭番衆であったことは、まだには言っていない。いつかは言わなければならないとは思ってはいるものの、許婚のこともあってまだ言う勇気が出ないのだ。
 いっそのことこの機会に、と一瞬思わないでもなかったが、ドサクサに紛れて言うべきことではない。許婚を殺したのは新選組で御庭番衆ではないのだが、にとっては同じ敵側の人間だ。折を見て、の様子を見ながらゆっくりと説明しなければ、彼女の心に大きな傷を与えてしまうだろう。
 何と言って説明しようと黙り込んで考えていると、突然が蒼紫の頬を両手で引っ張った。
「そんなすぐ判る嘘をついて。そんなことしちゃ駄目でしょ」
 上目遣いで睨みつけるの怒り顔は可愛いが、頬を抓る指の力は本気だ。しかも抓るだけではなくギリギリと捻り上げて、捻り上げられた部分は早くも真っ赤になっている。
うひょひゃなひって。ほんふぉふふぁって嘘じゃないって。本当だって!」
 信じてもらえるとは流石に思ってはいなかったが、まさか体罰が来るとは思わなかった。
 頬を引っ張られたままの間抜けな顔で言いながら蒼紫はの手を払おうとするが、も払われまいと更に指に力を入れる。そして、小さな子供にお説教をするように、
「どう考えたって、蒼紫が江戸城のお雛様を見ることができるなんてありえないでしょう。それとも、密偵というのは実は嘘で、実は華族様だったとでも言うの? 華族様が料亭で会計方なんてするわけないでしょ。嘘を言うなら、もう一寸頭を使いなさい」
 すぐ判る嘘をついてしまうのは可愛いと言えないでもないが、でも嘘はいけない。一つの嘘を許したら、それで済むと勘違いをして同じことの繰り返しになってしまう。こういうことは、小さいうちから叩いておかなければいけないのだ。
 “教育的指導”の名の下に、が説教をしながら抓る手を上下に振りたてていると、甲高い少女の悲鳴がした。
「蒼紫様、どうしたの?!」
 その声に驚いて二人同時に玄関を見ると、開け放たれた戸口のところで操と翁が唖然とした顔をして立ち尽くしていた。
 口論で夢中になっていたとはいえ、二人して操たちの訪問に気付かなかったとは。しかもこんなところを見られて、も蒼紫も顔を赤くして硬直してしまう。
 時間が止まったかのように固まっていた四人だったが、最初に我に返ったのはだった。
 猫のような俊敏な動きで蒼紫から離れると、両手を後ろに回す。そして、気まずい雰囲気を取り繕うように乾いた笑い声を上げて、
「やだ……こんなところ見られちゃって………。
 あ、上がってくださいな。まだ一寸散らかってますけど、すぐにお茶を淹れますから」
 挙動不審になりながらもさり気なく人形の位置を変えて、はまだ唖然としている二人を家に招きいれた。





「雛人形の場所で喧嘩とは」
 が事の経緯を説明すると、翁は愉快そうに笑った。が、操にはまだ笑い事ではないらしく、敵意むき出しの大きな目でを睨みつけている。たかだか人形の位置で蒼紫の頬を抓っていたのだから当然だ。
 おまけに隣に座る蒼紫は、赤く腫れた頬を見せ付けるようにしつこく撫でていて、もうは居心地が悪いといったらない。強く抓りすぎたのは少し反省しているが、悪いのはお互い様だとは思うのだ。
「お内裏様は向かって右側で、お雛様は左だって言うのに、蒼紫さんが逆だと言い張って………。でも、人形屋さんでもお内裏様は右側なんですよ?」
 蒼紫が江戸城の雛人形を見たことがあると言う見え見えの嘘を言ったということは、流石にも黙っていた。『葵屋』では“しっかり者の若旦那”を演じているのだから、それを壊したりしたら流石に可哀想だと思ったのだ。
 小さくなって言い訳のように説明するを見て、翁は益々可笑しそうにカラカラと笑う。そういう風に笑われるといかにも下らないことで喧嘩をしていたようで、は恥ずかしくて居た堪れなくなってしまう。
 横目で蒼紫を盗み見ると、つまらなそうな不機嫌顔で押し黙っていて、“『葵屋』の若旦那さん”の顔を作っていた。此処にいる時とは全く違う顔つきには一寸可笑しくなったが、そういう状況ではないので俯いて笑うのは我慢する。
 一頻り笑うと、翁は大きく息を吐いた。そして種明かしをするような口調で、
「それはどちらも正しいんじゃよ。京都ではさんの言われる通り、東京では蒼紫の言うように逆になるんじゃ。東京と京都の両方で暮らした儂が言うんじゃから、間違いない」
「えぇっ?! そうなんですか?」
 翁の予想外の答えに、は思わず頓狂な声を上げてしまった。東京と京都で逆だとは、反則だ。
 愕然とするを横目で見て、蒼紫は急に強気になったのか、得意げに小さく鼻を鳴らす。
「ほら見ろ。やっぱり俺が正しかったんじゃないか」
 前の二人には聞こえないような小さな声だったが、その言い方がまたの癇に障って、むぅっと押し黙ってしまった。が、客人の前で不機嫌な顔をするわけにもいかず、無理矢理笑顔を作って蒼紫を見る。
「そうね。でもこれは“私の”雛人形なんだから、私のやり方が正しいのよ?」
 不機嫌を押し殺した妙に優しい声と、顔は笑っていても目が笑っていないを見て、蒼紫はビクッと全身を強張らせる。彼女がそういう顔をする時は、ただ事ではなく怒っている時だ。翁たちが帰った後のことを考えると、今から胃が痛くなってしまう。
 激怒しているからといって、が暴力を振るうとか怒鳴りつけるとかいうことは無い。が、押し黙ったまま蒼紫を無視するのだから精神的にきついのだ。普段がなかなか怒らないだけに、彼女の怒りを解くのは天岩戸を開くよりも難しい。
 翁たちの前であることも忘れて、悪戯を見咎められた犬のように小さくなっている蒼紫を見て、は不覚にも噴き出してしまった。こういう可愛い姿を見せるから、ついついすぐ許してしまうのだ。
 けれど翁と操にとってはこんな蒼紫を見るのは初めてだったようで、また唖然とした顔をしている。が、すぐに翁が豪快に笑って、
「蒼紫はすっかりさんの尻に敷かれているようだのう。しかし、女性が強い方が家の中は上手くいくもんじゃ。結構、結構」
「まあ…な。うん………」
 恥ずかしそうな困ったような顔をして、蒼紫は小さく頷いた。
<あとがき>
 東夷と京女の“文明の衝突”です。冠婚葬祭は地方によって全然違いますからね。自分の地方では当たり前のことだと思っていたことが、他所では非常識だったり………。
 しかし蒼紫、主人公さんに頬っぺたを引っ張られたり、お説教されたり大変です。っていうか、いつかは過去のことを話さないといけないんですけどね、蒼紫。じゃないと、いつまでも嘘つき呼ばわりですよ(笑)。
 主人公さんにビビリが入ったり、体罰を受けたり(いや、“教育的指導”か)、蒼紫はヘタレ街道まっしぐらです。しかもそのヘタレっぷりを翁と操ちゃんにも見られちゃうし………。これでめでたく(?)『葵屋』でもヘタレ認定です。………頑張れ、蒼紫!
 椿さん、雛人形の配置についての情報、ありがとうございました。
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