雛祭り

 梅の花も五分咲きを超えて、昼間はとても暖かくなった。早いもので、もう桃の節句だ。
 本当はの家にも雛人形を飾らなくてはならないのだが、まだ幼い妹がいるということで生憎実家に置きっぱなしにされている。良い機会だから久々に実家に帰ろうかと思わないでもなかったが、そうなると折角の桃の節句を斎藤と過ごせなくなってしまうから、どうにも悩ましいところだ。
 実家に斎藤を呼んで本格的な桃の節句を祝おうかとも思ってみたが、妹だけならともかく、弟も合わせて3人の子供がいるのだから、きっと落ち着かないだろう。第一、斎藤はあまり子供が好きではなさそうだ。周りできゃあきゃあ騒がれたら、怒って帰ってしまうかもしれない。
 けれど、斎藤に雛人形を見てもらいたい。というか、雛人形を飾って、二人で雛祭りをしたいのだ。雛人形を見ながら、「あたしも早くこうなりたいなあ」なんて言って、隣で斎藤が「うーん」と唸っているところを想像したら、はうっとりしてきた。
 とはいえ、今から五段とか七段の雛人形を買うわけにはいかないし、それ以前にの家も斎藤の家も、あんなものを置く場所など無い。残念だが、今年は散らし寿司と蛤の潮汁を作って、桃の花を飾るだけで妥協するしかないようだ。
 そんなことを考えながら歩いていると、小間物屋の飾り窓が雛祭り仕様になっているのを見つけた。春らしい小物が可愛らしく飾り付けられていて、こういうのを見るだけでは気分がうきうきしてくる。
「あ………」
 窓に張り付いて中を見ていると、掌に乗るくらいの小さな雛人形が目に入った。これなら置く場所には困らないし、後片付けも簡単だ。それに斎藤だって、これなら置くのを許してくれるはずだ。
 そう思ったら、居ても立ってもいられなくなってきた。これは絶対に買わなくては。
 幸い、財布の中身には若干の余裕はある。は駆け込むように、小間物屋に入った。





「………何なんだ、これは?」
 食べるだけに用意された卓袱台を見て、斎藤が呆れたような声で訊いてきた。
 卓袱台の上には、小間物屋で買った雛人形と、桃の花が飾られている。これに散らし寿司と蛤の潮汁が並べられて、“雛祭りの食卓”だ。
 は元々、こういう行事ごとをするのが大好きな性格のようだとは思っていたが、斎藤の家で雛祭りをするとは思わなかった。こういうのは女の家でやるものだと、斎藤は思っているのだが。
 は楽しそうに茶を淹れながら、
「今日は桃の節句だから、散らし寿司と蛤の潮汁です。それと桃の花も買っちゃいました」
「いや、そうじゃなくて………どうして雛人形が兎なんだ?」
 散らし寿司も蛤の潮汁も、斎藤にとってはまあどうでも良い。否、仕事から帰って散らし寿司なんて手のかかるものを作るなど、たいしたものだと感心するくらいだ。問題は、飾られている雛人形である。
 が買ってきた雛人形は、桜の花弁を模した台座に仲良く並んでいる、兎の立ち雛だったのだ。いくら兎が好きとはいえ、よくもまあこんなものを見つけてきたものである。
「可愛いでしょ? 台座が桜の花弁になってるんですよ。最後の一個だったんです」
 この買い物に大満足らしく、は満面の笑みを浮かべている。
 この兎の雛人形は京都から取り寄せたものだそうで、人形の位置が東京と逆になっている。東京生まれの東京育ちのには一寸違和感があるが、それがまた京都のものという感じで、意味も無く高級な感じだ。おまけに立ち雛で人形の身長差がはっきりしているものだから、それがまた斎藤と並んで立っている姿を連想させて、には嬉しい。
 斎藤は兎というよりは、狼か野犬のような容貌だが、この際それはどうでも良い。彼と自分が並んでいると想像できるということが、にとっては重要なことなのだ。雛人形になった二人を想像すると、斎藤の呆れ顔も目に入らずにうっとりしてしまう。
「まあ、良いけどな」
 うっとりしているを放置して、斎藤はさっさと箸を取った。最近ではもうの妄想には慣れてしまって、いちいち突っ込みを入れることも無い。
 その声にはっとして、も慌てて箸を取った。
「いただきます」
 散らし寿司を食べながら、は雛人形と斎藤の顔を交互に見る。
 斎藤は雛人形など存在していないように黙々と食事をしていて、それには少し不満だ。折角買ってきたのだから、少しくらい話題にしても良さそうなものなのに。もしかして、こういうのはあまり好きではないのかな、とは残念に思う。
 雛人形は、食事が終わったらまた箱にしまうことになっている。3月3日を過ぎても出しっぱなしにしていたらき遅れてしまうからだ。勿論そういうのは迷信だとは解っているし、そもそも23歳というのは既に世間では嫁き遅れの部類に入っているのだから、今更と思わないでもないが、やはり縁起は担ぎたい。
「それ、ずっと飾っておくのか?」
 人形を見ているに気付いて、斎藤が漸く話題を振ってきた。
「御飯が終わったら、片付けますよ。本当はずっと飾っておきたいんですけど、3日過ぎても飾っていたらお嫁に行けなくなりますから」
「迷信だろ、そんなもの。それにお前はちゃんと嫁に行けるから、安心しろ」
 真面目な顔をして答えるに、斎藤は散らし寿司を食べながら素っ気無く言う。
 確かには年齢的には嫁き遅れの部類に入るが、見た目はまだ十分に若くて可愛らしいし、こうやって家の中の切り盛りも出来るのだから、まだいくらでも選り好みができるはずだ。実際、警視庁の若い職員の間には、を狙っている節のある者もいる。
 けれどそんなことを知らないは、今ひとつ納得できない。結婚は就職みたいに一人で出来るものではないし、相手から「結婚しましょう」と言われなければならないのだ。斎藤がそう言ってくれるのならとしては全く問題は無いのだが、まだそこまでの仲ではないのだから、できる限りの縁起は担ぎたい。
 でも―――――は斎藤の言葉を反芻する。“お前はちゃんと嫁に行けるから”というのは、もしかして斎藤が引き取ってくれるということなのだろうか。彼の性格からいって、希望的観測や励ましを言うはずが無いし、不確定なことも言い切ったりはしない。
 急に、卓袱台の雛人形が現実味を帯びてきて、はまた口許がにやけてしまう。台座が桜の花弁ということで、桜の華が舞い散る中での二人の祝言を想像して、うっとりしてきた。
 自分の妄想にすっかり舞い上がってしまっているに、斎藤は毎度のこととは思いつつ小さく溜息をつく。何を妄想しているのか大体の察しは付くが、よくもまああれだけの言葉でここまでうっとり出来るものだと感心してしまう。
 ここで一旦落としておかないと、このまま何処かへふわふわ飛んでいってしまいそうだ。斎藤はできるだけつまらなそうな顔を作ると、素っ気無く言う。
「嫁き遅れになる前に、ちゃんとお前に相応しい男を探してやる。警視庁には若い独身男の在庫は山積みだからな」
「えー………」
 ぷしゅ〜ぅ、と音がしそうなくらいに大袈裟に、はしょげてしまった。
 嫁き遅れるのは勿論嫌だけど、斎藤以外の男と結婚するのはもっと嫌だ。と斎藤はまだきちんと交際しているわけではないけれど、それなりにお互いのことを考えていると、は思い込んでいたのに。
 は斎藤のことが好きで好きで、家に押しかけたり御飯を作ってあげたり、飼っている兎の世話も引き受けているくらいだ。けれど思い返してみれば、彼女はこんなに行動で表しているのに、斎藤の方からはっきりと「好き」と言われたことは無い。合鍵を預けたり、一緒に夕飯を食べるくらいだから嫌いではないはずなのだが、そこまで深く考えるほどの“好き”ではないということなのだろうか。
 斎藤にとって自分は何なのだろうと思うと、は悲しくなってきた。兎の世話もする飯炊き女としか思われていなかったら、悲しい。
 軽く意地悪をしたつもりだったのに予想外に大袈裟にしょげられて、斎藤の方が驚いてしまった。他の男を斡旋する気など無いくらい、これまでの彼の態度を見ていれば解りそうなものなのに。言葉どおりに受け取って、素直だといえば素直なのだろうが、もう少し信用しろと言いたい。
 このままでは泣いてしまいそうなので、斎藤は一つ咳払いをすると、できるだけつまらない顔と声を作って言葉を補う。
「まあ、どうしてもどうしてもどうしても駄目だったら、俺が責任もって引き取ってやるから。だから絶対に貰い手はあるから安心しろ」
「……………………っっ?!」
 その言葉に、さっきまでしょげていたの顔が、一瞬で茹蛸のように真っ赤になってしまった。全身の血液がもの凄い勢いで駆け巡って、頭の中が心臓になったようにバクバクする。
 どうしても駄目だったら責任もって引き取ってやるってことは、つまり“結婚の約束”の約束と取っても良いということなのだろうか。もしそうなら、死ぬほど嬉しい。
 適齢期を過ぎても結婚できなかったら斎藤が引き取ってくれるというのなら、嫁き遅れても良いと思えるようになってきた。否、それどころか積極的に嫁き遅れたい。どうせ23まで独身だったのだから、25で結婚しても30で結婚しても、斎藤が相手ならにとっては同じだ。
 まだきちんとした約束ではないけれど、斎藤からそれらしい約束を取り付けることが出来て、は再び舞い上がってしまう。嬉しくて嬉しくて目が潤んできて、にやにや笑いも止められない。
「それだったら、このお雛様、端午の節句まで飾っておこうかなあ」
 端午の節句までどころか、斎藤と結婚できるまでずっと飾っておきたい。そうしたらきっと適齢期を遥かに過ぎても独身で、約束通り斎藤が引き取ってくれるはずだ。そうなったら、この兎の雛人形のように、ずっと二人でいられる。
 さっきまで地の底まで沈んでいたのに、いきなり月まで舞い上がってしまいそうなくらいに浮かれているを見て、斎藤はそっと溜息をつく。立ち直りが早いというか、何というか………。こういう性格なら、人生はさぞかし楽しいことだろう。
 でもまあ、自分の言葉で面白いくらいに一喜一憂というのは、可愛らしいといえば可愛らしい。一緒に暮らして観察するだけでも楽しいだろう。
 ただ、ここまで“好き”という感情を真っ直ぐにぶつけられると、斎藤は一寸困ってしまう。そうされるのは嬉しいのだが、どうやって返せば良いのか分らないのだ。自分の世代との世代は少し違うのかな、とこういう時、少し思う。
 兎の雛人形を横目で見ながら、は嬉しそうに御椀に口を付ける。そんな彼女の姿を見ていると斎藤も胸の中がくすぐったくなって、こみ上げる笑いを隠すように同じく御椀に口を付けた。
<あとがき>
 京都旅行の時に色々な形の兎の雛人形を見つけて、思いついたネタです。京都はいろんな和兎モノがあって良いですね。また行きたいなあ。
 で、兎部下さんも脳内お雛様になってもらいました(笑)。これがいつになったら本当の“お雛様”になれるのかな………。この時点ではまだ、ちゅうも済ませてないんだが(苦笑)。
 斎藤、“嫁き遅れたら俺が引き取る”って宣言したんだから、ゆくゆくはちゃんと引き取ってあげてくださいよ。兎部下さん、全力で婚期を逃す気でいるみたいだし(笑)。
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