梅の花
「ねえ、蒼紫。今月中旬から梅祭りがあるんですって」火鉢に張り付いている蒼紫に、が新聞の折り込みチラシを見せた。チラシにはこの辺りの催し物が書いてあって、付き合い始めの頃はこれを見てよく出かけていたものだ。最近は、蒼紫が寒いのが苦手で外に出たがらないということもあって、利用することも無くなっていたけれど。
2月の中旬といえば、まだ寒い日もあるけれど、日によっては暖かい日もある。会場には露店も出て、来場者には無料でお汁粉が振舞われると書いてあるし、出かけたらきっと楽しいに違いない。弁当を持って行けば、お金を使わずに一日楽しめそうだ。考えてみれば、弁当を持って何処かに遊びに行くというのは、今までしたことが無かった。
けれど蒼紫はあまり気乗りがしないのか、面倒臭そうに応える。
「梅祭りなんて、人が多いだろう。花を見るどころじゃないぞ。酔っ払いも多いし」
付き合いが深くなっても気付いたのだが、蒼紫はあまりで歩くのは好きではないらしい。付き合い始めの頃に色々なところに行っていたのは、何を話して良いのか分からなくて、とりあえず話題を作れそうな処に出かけていたのだと、最近になって告白されたのだ。つまり、今はわざわざ話題を探さなくても良くなったから、どこかに出かける必要性も感じなくなって、出不精の本性を出しているらしい。
しかしそれでは、にとっては“釣った魚には餌をやらない”状態だ。確かに二人で家に籠りきりというのも悪くはないけれど、たまには気分を変えてどこかに出かけたいのだ。別に遠出をする必要は無いけれど、外で一寸豪華な食事とか、景色の良い所に散歩に行くとか、そういうことで良い。会っても家の中に閉じこもって火鉢に付きっきりなんて、出歩くのが好きなには耐えられない。
「でも行きたいの。蒼紫、このところずっと何処にも連れて行ってくれないじゃない」
「花が見たいなら、庭にも梅の木があっただろう。うちから花見弁当のお重を持ってくるから、それに酒と菓子を買ってきたら立派に花見になるだろう」
「えー?」
蒼紫の言う通り、の家の庭には小さな梅の木があるけれど、それを見たって面白くも何ともない。別には花を見たいわけではなくて、いつもと違う雰囲気を楽しみたいのだ。
むぅっと押し黙るを見て、蒼紫は困ったように苦笑する。そして機嫌を取るように頬を撫でながら、
「この時期はまだ寒いし、そんなに何処かに行きたいなら、もう少し暖かくなってから行こう」
「じゃあ、梅は?」
蒼紫の“暖かくなってから”を待っていたら、梅の時期は終わってしまう。蒼紫と手を繋いで梅林を歩きたいとは思っているのに、彼は全然解っていないようだ。
出不精で気持ちを全く察してくれない蒼紫に、はだんだん腹が立ってきた。蒼紫は寒がりだから、火鉢の傍にいられればそれで満足なのだろうが、は違うのだ。考えてみれば火鉢を出してからこっち、蒼紫と外出した記憶が無い。これは由々しきことだとは思う。
二人の関係が安定して何もしないで過ごすことが当たり前になると、そこから倦怠期が始まると友人が言っていたのを、は思い出す。まだ付き合って一年も経っていないのに、もう倦怠期になってしまったら大変だ。そうならないためにも、最初の頃の気持ちを忘れないように、いろんなところに行って雰囲気を変えて新鮮な気持ちにならないといけないのに。
「だから梅は此処ので十分だろう。折角咲いても、ご主人が見てやらなかったら可哀想だ」
の危機感など全く思いもよらないのか、蒼紫は話を打ち切るように面倒臭そうに言う。そして火鉢の中を掻き回して火の加減を調節したりして、のことなどまるで相手にしていないようだ。
確かに此処の梅もそれなりに花は咲くし、他所の梅にかまけて無視するのは可哀想と言う蒼紫の理屈も解らなくはない。けれどそれは、外に出たくないがための方便にしかには聞こえない。蒼紫は自分と出かけるよりも、火鉢にくっ付いている方が良いのだと思うと、情けないやら腹が立つやら、はどうして良いか分からなくなってきた。
「蒼紫は私と出かけるよりも、火鉢と一緒にいる方が楽しいの? そんなに火鉢が好きなら、うちになんか来ないで火鉢とずっと一緒にいれば良いんだわ!」
言っているうちに情けなくなってきて、目まで潤んでくる。はただ、蒼紫と何処かに出かけたいだけなのに、どうしてここまで拒否されなくてはならないのだろう。
もう蒼紫は以前のように自分のことを好きじゃなくなったのかと、悲しくなってきた。と出かけるよりも火鉢の傍が良いなど、蒼紫にとっては自分は火鉢以下の女なのかと、悲しいのと同じくらい悔しくて腹も立ってくる。
普通、焼餅というのは他の女に対して焼くものだとこの歳まで思っていたのだが、火鉢に対して妬くなんて想像もしていなかった。あんな色気も無い、ずんぐりむっくりした物体に対抗心を燃やす羽目になるなんて。そんな状況、普通ではありえない。
突然甲高い声を上げて癇癪を起こしたに、蒼紫は驚いたように初めて彼女の顔をまじまじと見た。いつもは静かな彼女でも、時にはこうやって癇癪を起こすというのは知ってはいたけれど、いきなり怒鳴られるのはびっくりしてしまう。
けれどそれよりびっくりするのは、何だか火鉢に対して嫉妬しているような物言いだ。火鉢なんかに焼餅を焼くなんて、聡明な彼女にはありえないことだと思うのだが、どう考えてもこの癇癪はそれしかない。
いくら蒼紫が火鉢にべったりで外に出たがらないとはいえ、こんなものに焼餅を焼くなんて。普段は蒼紫よりもずっと大人のように振舞っているくせに、こういうところはまるで子供だ。そんな落差が可笑しくて、怒っているを見ながらも噴き出してしまう。
「何よっ?!」
馬鹿にされたと思ったのか、は顔を真っ赤にして怒鳴りつける。
真剣に怒っているのは解っているけれど、でも滅多に見れないそういうも可愛いと蒼紫は思う。可愛くて可愛くて、もう一声上げようとするをぎゅっと抱き寄せた。
「あっ………?!」
「何だ、火鉢に焼餅を焼くなんて、可愛いなあ」
他の女でもなく、生き物ですらない火鉢に焼餅を焼いてくれるなんて、そんなに蒼紫のことを好きでいてくれるなんて、嬉しくてたまらない。いつも彼が文鳥に嫉妬して、が呆れるというのが定番だったから、それが逆になると凄く新鮮だ。
こんなつまらないものに嫉妬してくれているが嬉しくて、蒼紫は酔ってもいないのにその滑滑の頬に思いっきり頬擦りをする。そうすると、は聞き分けの無い子供のように手足をばたばたさせながら、更に大声を張り上げた。
「焼餅なんか焼いてないっ!! 本気で怒ってるのよ、私は!」
「はいはい。暖かくなったら一緒に何処かに行こうな。そうだ、弁当を持って桜を見に行こう。それなら良いだろう?」
小さな子供をあやすように、蒼紫はくすくす笑いながら甘く囁く。
そうされるのはとても心地良くて、はうっかり許してしまいそうになったけれど、ここで許してしまったら元の木阿弥だ。一度機嫌を損ねさせたら簡単には元には戻らないということを教え込むためにも、は更に怒った声を出す。
「それって、火鉢がいらなくなったらってことじゃない。火鉢があるうちは、火鉢と一緒が良いってことでしょ」
「じゃあ、火鉢の代わりにがこうやって俺を温めて。一日中こうしてくれるなら、火鉢なんかいらないから」
「…………………っっ?!」
シラフとは思えないような蒼紫の台詞に、は一瞬で全身を真っ赤にしてしまった。一気に上昇した体温で暖を取るように、蒼紫は抱き攻める腕に更に力を込めて身体を密着させる。
返す言葉も無くて、暴れるのも忘れてしまったように固まっているの顔を後ろから覗き込んで、蒼紫は可笑しそうにくすくす笑う。
「此処の梅なら、こうやって見ても良いだろう? こうすれば、縁側でも火鉢が無くても寒くないから」
「うぅ〜〜〜………」
何だか誤魔化されているような気がしないでもないが、此処まで言われたら許さないといけないのかな、とは思う。これでまだ意地を張っていたら、収拾が付かなくなってしまうことだし、落としどころを見極めるのも、円満な関係を保つ秘訣だ。
そう思ってはみても、結局暖を取れるなら火鉢でもでも良いというのはどうかと突っ込みたくなるが、それはもう黙っていてあげようと思い直す。こうされるのは、も嫌いではないことだし。
だけど、このまま引き籠り生活というのはとしても困るので、この機会に約束を取り付ける。
「じゃあ、梅は諦めるから、桜は絶対連れて行ってね」
仲直りの印にの方からも蒼紫の背中に腕を回して、小さく囁いた。
蒼紫はちぃちゃんに嫉妬し、主人公さんは火鉢に焼餅を焼くバカップル………。もう好きにやってくれ、お前ら(苦笑)。
とはいえ、相手が一つのものに執心して自分の相手をしてくれないのにムカつくというのは、今も昔もよくあることです。だけど、それにムカついたりするのは、まだ愛がある証拠。氷高など、これ幸いとばかりに、自分の趣味に没頭しますからね(←こら)。
まあ、春になれば蒼紫と火鉢は嫌でも引き離されるわけですから、主人公さんの嫉妬は期間限定。年中無休の文鳥に嫉妬する蒼紫に比べたら、全然楽ですよね。蒼紫と火鉢はちゅうはしないですし(してたら怖いって)。
つか、これじゃ“梅の花”じゃなくて“火鉢”がお題みたいですね、今気付いたけど。