梅の花
の通勤路には、毎年一足早く花を咲かせる紅梅の木がある。寺の塀の上から一本だけ道路側に枝を伸ばして、その先端にその年一番の花を咲かせるのだ。普通ならその後、他の花も次々と咲いていくはずなのだが、何故かその花一輪だけしか咲かなくて、それがかれた頃に他の花が咲き始める。初めてこれを見付けた時は、狂い咲きなのだろうかとも思っていたのだが、毎年続くところを見ると、そういう性質の花なのだろう。日当たりの関係もあるのかもしれないが、咲くべき時期を待ちきれずに開花するこの梅の花は、春が待ち遠しくてたまらない自分と同じだとは親近感を覚える。
そして今年も、例の場所の蕾が膨らみ始めて、は毎朝その様子を観察している。一輪しか咲かないし、春を告げるにはまだ少し早いけれど、でもこの梅の花が咲くのは待ち遠しい。枝の先に一輪だけ赤い花が咲くのは、そこだけぱっと明るくなって綺麗だと思う。
この花が咲いたら、一番に斎藤に見せようとは決めている。斎藤はあまり季節の移り変わりには関心が無いようだが、それでもこの紅梅を見せたら喜んでくれると思うのだ。こんな時期に咲く梅なんて、他には無いのだから。
一輪だけ咲いた梅の花を二人で見上げるところを想像して、はうっとりする。小さな紅い花を見て「可愛いですねぇ」と言う彼女に、「お前のほうが可愛いぞ」なんて現実では絶対言ってくれない台詞を言ってくれる斎藤を妄想して、は一人で照れてしまうのだった。
そうやって毎日妄想と観察を続けて、明日にでも花が咲きそうなくらいに蕾が膨らんだ頃―――――
「あ―――――っっ!!」
がたがた震えながらが雨戸を開けると、庭に薄っすらと雪が積もっていた。昨日の夜から凍えるように寒いと思っていたが、雪が降っていたとは。
庭木が薄っすらと雪化粧をしている様は、寒がりのも綺麗だと思う。寒いのは嫌いだけれど、雪を見るのは大好きだ。
いつもなら子供のように嬉しげに庭に下りるだが、今朝は事情が違う。これだけ雪が積もっているということは、あの梅の蕾も雪に埋もれているかもしれない。氷漬けになって、そのまま立ち枯れてしまったら大変だ。
は急いで顔を洗って着替えると、朝食もそこそこに家を飛び出した。
案の定、例の梅の木にも雪が積もっていて、先端の蕾はすっかり雪に覆われて見えなくなっていた。
「あー………」
唖然として、は先端の雪の塊を見上げる。
まだ蕾が硬い状態だったら、雪に覆われてもどうということは無かったかもしれないが、あの蕾はもう先の方に紅い花弁が顔を覗かせていた。この雪で中まで凍ってしまっていたら大変だ。いつかの冬には、同じくらいまでに成長した蕾が霜にやられて、そのまま立ち枯れてしまったこともあったのだ。
折角斎藤と二人で見ようと楽しみにしていたのに、ここで枯れてしまわれたら大変だ。は雪を払ってやろうと頑張って背伸びをするが、あと少しというところで指先を掠めるだけで枝に届かない。跳び上がって叩き落そうかとも考えたが、一つ間違えば枝まで折ってしまいそうで、どうして良いのか途方に暮れてしまう。
梅の時季になればこの木も満開になって、一輪だけ咲くよりもずっと綺麗なのだが、この最初の一輪をどうしても斎藤に見せたい。そのためには、どうしてもあの蕾から雪を払わなくては。ぐずぐずしていたら、本当に凍り付いてしまう。
「何やってるんだ、こんな朝っぱらから?」
爪先立ちで腕を伸ばしてぶんぶん振り回していると、後ろから斎藤の不審そうな声がした。
ビクッとしてが振り返ると、呆れた顔をした斎藤が立っている。丁度此処は、二人の通勤路が交わる地点なのだ。いつもは通勤時間がずれているので朝は会うことが無いのだが、ぐずぐずしているうちに斎藤が出勤する時間になっていたらしい。
真っ赤な顔をして、は伸ばしていた腕を慌てて引っ込める。間が悪いというか、斎藤に発見される時は、彼女は妄想をしている真っ最中だったり、こんな変な動きをしている時が多くて、いつも恥ずかしい思いをするのだ。こういう姿を見られる度に、どうしてもっと普通の時に声をかけてくれないのだろうと、は八つ当たりじみたことを思ってしまう。
「あの枝の先っぽに、もうすぐ咲きそうな梅の蕾があるんです。雪で凍ったら枯れちゃうから、払ってあげたいんですけど………。斎藤さん、払ってあげてもらえませんか?」
には届かないけれど、背の高い斎藤なら少し手を伸ばせば届く高さだ。
けれど斎藤は呆れたような顔をして、
「梅なんて、まだ咲かないだろう。それに雪に覆われていたって、硬い殻で守られているから大丈夫だ」
まだ何処の梅の木を見ても、米粒のような小さな蕾が付いているだけで、まだ咲く気配は無い。いくら此処の日当たりが良いといっても、まだ雪が降るようなこの時期に花が咲くなどあるわけが無いではないか。
「咲きますよぉ! 此処の場所だけ、何処よりも早く咲くんです。あたし、毎日観察してたんですから。もう硬い殻を破って、花弁が見えてたんですよ。今日が暖かかったら、絶対咲いてたくらいなんですから」
斎藤の反応は予想していたから、別に腹は立たない。だってこの梅の花を知らない時に同じことを言われたら、きっと同じ反応をしていると思うのだ。けれど、この蕾を枯れさせるわけにはいかないから、必死な口調で頼み込む。
斎藤がこんな反応をするということは、逆に花が咲いたところを見せたらもの凄くびっくりするはずだ。そのことを想像したら、は楽しくなる。
が、勝手に盛り上がっているとは反対に、斎藤はあからさまに疑いの目を向ける。こんな時期に梅が咲くなど、普通ならありえないのだから当然だ。
「いくら早咲きでも、普通はまだ咲かんぞ」
「だから此処のは特別なんです!」
ぷぅっと膨れて、は反論する。すぐに信じてもらえないのは仕方が無いと思うが、嘘をついていると思われるのは心外だ。そんな嘘をついたって、には何一つ得なことは無いのに。
上目遣いに睨みつけるの視線に圧されて、斎藤は仕方無さそうに溜息をつくと、枝の先に手を伸ばした。とりあえず雪を払ってやれば、も納得するのだ。
雪を払ったらちゃんと蕾を見せて、これは花弁ではなくて蕾に色が付いているだけだと説明してやろうと思いながら、斎藤は丁寧に雪を払う。半分凍りかけた雪がさらさらと落ちると、紅い色が姿を現した。
「ああ………」
本当に紅い花弁が出てきて、斎藤は小さく驚きの声を上げた。この時期にこんな状態になっているなど、一瞬目を疑ったが、どう見ても花弁だ。しかもその蕾は半分開きかけていたのだ。
今日が良い天気だったら綺麗に開花していただろうという花を見て、もびっくりしたように大きく目を見開いた。近いうちに咲くだろうと予想はしていたが、まさか今日咲くとは思ってなかった。
「………凄い、もう咲いてる」
今まで雪に覆われていたのだから、この梅の花を見たのはと斎藤が最初の人間だ。まだ半開の状態だけど、誰もまだ見ていない梅の花を斎藤と二人で見られたのは、舞い上がってしまうくらいに嬉しい。
毎日観察を続けながら、絶対に斎藤と二人で一番乗りで見るんだと念じていたの思いが、梅の花にも通じたのだろう。そうでなければ、こんな寒い日に花を咲かせてはくれない。
思いが通じたのが嬉しくて、はそれ以上の言葉が出ない。斎藤も予想以上に驚いてくれたし、今日は朝からとっても良い日だ。
「花は、何にしても半開きの時が趣があるものだな」
残りの雪を丁寧に払いながら、斎藤が小さく呟く。
幕末の頃、新選組の副長だった土方歳三が言っていた台詞だ。『鬼の副長』と呼ばれていたけれど、意外と風流人で暇さえあれば下手糞な俳句を捻っていて、今思えば面白い人物だったと思う。
あの当時は、何を言っているのかと思っていたが、土方と同じ歳になった今では彼の言っていたことも解るような気がする。それが歳を取ったということなのだろう。そういえば梅の花は、土方の好きな花だった。
久々に昔のことを思い返していた斎藤だったが、不思議そうに見上げるの目に気付いて、照れ臭そうに苦笑する。そして彼女の頭にぽんと手を置いて、
「これくらいの時が、どんな風に花を咲かせるか色々想像できて良いものなんだ。予想以上に綺麗に咲かせることもあるしな」
きょとんとして見上げるを見ながら、この娘はどんな風に花開くだろうと斎藤は想像してみる。年齢的にはもう満開といっても良いのだが、まだまだ彼の目から見ればこの梅の花と同じくらいの状態だ。開花しそうでなかなかしなくて、見ていて苛々する時もあるけれど、でもいつ開花するのかを待つのも楽しい。
若い頃だったら、無理矢理蕾をこじ開けて何もかもを駄目にしていたかもしれないけれど、こうやって自分から花開く時を待てるようになったというのは、年の功ということか。あまり待たされるのも困るけれど、暫くはこの状態を楽しむのも悪くはないと思う。
「さて、そろそろ行かないと遅刻するぞ」
何を言っているか解らないように考え込むを促すようにそう言うと、斎藤は警視庁に向かってさっさと歩き始める。
「はーい」
斎藤の言うことは今一つ意味が解らなかったけれど、喜んでくれたようだったことだけはにも解った。それだけでも、彼女には嬉しい。
次は全開のところを二人で最初に見れるようにして下さい、と梅の木に念を送って、は斎藤の後ろを追いかけた。
梅の花よりも、目の前の兎部下さんの開花宣言が待ち遠しくて仕方ないようです、斎藤(笑)。
こればっかりは、無理矢理こじ開けるわけにもいかないですからねぇ。っていうか、本物の花だって、無理矢理蕾をこじ開けたら花自体を駄目にしちゃうわけですが。斎藤、我慢できなくて無理矢理部下さんを開花させようとして、ぼろぼろにしないように自制してもらいたいものです。壊してしまって「あーあ……」じゃ、洒落にならんって。
しかし斎藤、さり気に昔の上司の作品批評……。まあ確かに、上手いとは言いがたい俳句ですけどね、豊玉先生(苦笑)。「梅の花 一輪咲いても 梅は梅」って、奥が深いんだか、そのまんまなんだか………。そんなこと言いながら、土方さんラブなワタクシ(笑)。“鬼の副長”のくせに、こんなしょうもない俳句を捻ってしまうギャップ萌えです。