正月太り
今年に入って斎藤の兎が急に大きくなったと、はふと気付いた。拾った頃はまだ大人になりかけの子兎で、それに比べると大人になった今は大きくなってしまって当然なのだが、それから更に大きくなったような気がしてならない。今も八百屋から貰ってきた大根の葉をさくさくと食べている姿を観察しているけれど、その後ろ姿を見ると尻がどっしりと丸々している。正月前は、もう少しすっきりしていたような気がするのだが………。
眉間に皺を寄せて考えていると、少し離れて新聞を読んでいた斎藤がふと顔を上げて言った。
「お前ら、正月前に比べて丸々してないか?」
「へ?」
何の脈絡も無い斎藤の言葉に、はきょとんとして彼を見る。
「お前“ら”」と一括りにしているということは、斎藤から見ると兎は勿論、も太ったということらしい。まさか自分までそう言われるとは思ってなくて、はびっくりしたように両手を頬に当てた。
確かに今年の正月は斎藤の家に入り浸って、彼に言われるままに餅や菓子を食べていて、一寸身体が重くなったような気はしていたけれど、まさか斎藤の目から見ても分かるくらいに太っていたとは。着物の上から見ても太ったことが判るということは、相当太ったということだ。
女友達に指摘されるならともかく、斎藤に指摘されると、には立ち直れない。元々彼女は少しぽっちゃりしているのだから、それで太ったと言われるということは、痩せ型の斎藤から見たら大デブに見えているのかもしれない。そう思ったら精神的打撃のせいか、胃まで痛くなってきた。
落ち込んでいるの様子に気付いていないのか、斎藤は新聞を置くと大根の葉に夢中になっている兎を無理矢理膝に乗せて、腹の肉をぐにぐにと両手で揉む。食事を中断させられて、兎は不機嫌そうに手足をじたばたさせるが、それも無視して斎藤は余った肉を思いっきり引っ張った。
「ほら、こいつなんか、こんなに腹の肉が余ってるぞ。このまま放っておいたら、二段腹になるんじゃないか?」
面白がっている斎藤の言葉が、まるで自分への当てこすりのように感じられて、はますます落ち込んでしまう。彼女の腹はまだ兎のように肉は余っていないけれど、斎藤の頭の中ではあんな風に鷲掴みにできる腹にされていると思ったら、悲しいやら腹が立つやら。かといって実際に斎藤に自分の腹を見せてやるわけにもいかないし、やり場の無い気持ちに悶々としてしまう。
これは何が何でも痩せなくては。少なくとも正月前の体型に戻って、腹の肉がどうのこうのと斎藤に言わせないようにしなければ。
膝の上でぐっと拳を握り締めて、は静かに決心する。毎日2個食べている大福を我慢すれば、少しは違うはずだ。
そんなの決意など全く気付かずに、斎藤は更に笑いながら言葉を続ける。
「しかし、あんまりでかくなると、可愛くなくなるなあ。このまま大デブになったら、本当に非常食だぞ」
「ひっ……非常食って何ですかっ?!」
斎藤のとんでもない残酷発言に、は真っ青になって悲鳴のような声を上げる。
兎は食用にもなる生き物だし、そもそも斎藤の出張先で兎鍋になるところを引き取られたのだから、“非常食”という表現は洒落にならない。この兎が鍋になるのを免れたのも、「小さくて食いでが無かった」と斎藤が言っていたくらいなのだから、丸々太ってそれなりに肉が取れる大きさになったら食べられてしまってもおかしくはないのだ。
真っ青になっているに、斎藤は初めて驚いたように彼女の方を見た。が、別段悪びれた様子も無く、
「ああ。こいつ、名前が無いから、とりあえず“非常食”って呼んでるんだ。“兎さん”じゃ芸が無いからな」
「酷い! 食べる気なんですか?!」
「いや、食う気は無いが―――――」
冗談で言ったつもりなのに、は目に涙さえ溜めていて、今度は斎藤がびっくりする番だ。流石の斎藤も、もう何ヶ月も養い続けている兎を今更〆る気にはなれない。そもそもこの兎は、のために持ってきたのだから。
実はこの兎、が斎藤の家に来やすいようにという陰謀の下に飼われているものなのだ。大好きな兎を好きなだけ触らせてやると言えば、も毎日彼の家に通ってくるし、夕飯を作って待っていてくれるし、斎藤にとっては良いこと尽くめである。そんな良い口実の兎を〆るわけがないではないか。
けれどそれを説明するわけにはいかず、何と言って誤魔化そうかと斎藤が黙り込んでいると、は眦を吊り上げて強引に兎を奪い取った。そして守るようにぎゅっと抱き締めると、斎藤に聞こえよがしに兎に語りかける。
「斎藤さんに食べられないように、絶対痩せようね。明日から毎日散歩しよう」
兎は斎藤に食べられないように、そしては彼に嫌われないように頑張って痩せるのだ。「あんまりでかくなると可愛くなくなるなあ」などと言う男なのだから、も兎も小さいままでいなくては。
兎も自分の身の危険を察しているのか、決意を秘めた力強い目でを見上げた。
翌日から、兎に胴輪を付けて、夕方に散歩することになった。痩せるには、食事療法と運動を同時進行するのが一番効果的だ。でも兎は、うっかり食事量を減らすと飢え死にする可能性があるので、運動だけ。そして運動する時間があまり無いは、食事療法を中心にすることにした。
兎の散歩といっても、家から近所の商店街に夕飯の買出しをするのに連れて行くだけなのだが、それでも兎の身体には結構な運動量にはなるはずだ。今まではゴロゴロするのが好きな兎だったが、本当に“非常食”にされたらたまらないと思っているのか、家にいる時も必死に跳ね回っている。
そしては、それこそ兎のような野菜だけの食生活だ。医学を勉強している友人の話によれば、御飯を食べずに葉ものの野菜だけ食べるようにしていると、面白いように痩せるのだという。その代わり、一、二週間でやめないと身体を壊してしまうというから、短期集中型だ。確かに、野菜しか食べないと力が出ないし、一寸身体がふらふらすることもある。
けれどそれだけ苦労した甲斐があってか、一週間が過ぎた頃にはの顔も、頬の辺りが少しすっきりしたようだ。顔の肉が落ちると一寸大人っぽい顔になったようで、思わぬ副効用に大満足である。これなら斎藤も、少しはのことを大人として見てくれるような気さえしてきた。
一方兎も、毎日の運動の甲斐があって、かなり身体が締まってきたようだ。肉も以前に比べると随分と硬くなっているし、これなら斎藤に“非常食”と呼ばれずに済みそうだ。
兎と自分の減量の成功に、は浮かれていたのだが―――――
「兎は肉が締まったら一寸可愛くなったが、お前は痩せたら可愛くなくなったな。老けたぞ」
膝の上に兎を乗せて腹の肉を揉んでいた斎藤が、突然思い立ったように言った。
「え………」
褒められると思っていたのに予想外のことを言われて、は唖然としてしまう。
ぱんぱんの丸顔が少し細くなって、大人っぽくなったつもりだったのに。は慌てて手提げから手鏡を取って、自分の顔を見る。
斎藤が“太った”と言うから頑張って痩せて、痩せたら絶対褒められると思っていたのに、これでは何のために頑張ったのか解らない。いつも子供扱いするから、せめて顔だけでも大人っぽくなったら好かれるんじゃないかと思ったのに。
別に何をして欲しいというわけではないけれど、せめて「綺麗になったな」くらいの言葉は欲しかった。これじゃあ何のために痩せたのか分からなくなって、腹が立つやら悔しいやら、はぷぅっと膨れる。その顔を見て、斎藤は可笑しそうに口許を綻ばせた。
「そうやって膨れると、前と同じだな。お前、ずっとそうやって膨れてろ」
「そんなぁ………」
眉を八の字にして、は情けない声を上げた。ずっと膨れてろなんて、痩せた意味が無いじゃないか。食べたいものも我慢して、あんなに頑張ったのに。
でも、「痩せたら可愛くなくなった」などと言うことは、丸顔のは可愛いと思っていたということなのだろうか、とは一寸調子の良いことを想像してみる。斎藤は大人の女性が好みだと勝手に思い込んでいたけれど、もしかして子供顔が好きだったりするのだろうか。それだったら、としては凄く嬉しい。
「痩せたら可愛くなくなったってことは、痩せる前は可愛いって思っていたってことですか?」
無邪気を装って、は小首を傾げて尋ねる。その瞬間、それまで意地悪く笑っていた斎藤の顔が首まで真っ赤になった。
「ばっ………何を馬鹿なっ………このど阿呆っっ!!」
軽い気持ちで訊いたのに、思いっきり怒鳴りつけられて、は思わず身を縮こまらせる。
そっと斎藤の様子を窺うと、彼はまだ赤い顔をして兎を相手になにやらブツブツ言っている。兎は兎で困ったような顔をしていて、その様子がには可笑しい。
あんなに怒鳴りつけるということは、の推測は当たっていたと言うことなのだろう。斎藤は丸顔が好きで、痩せたよりも前の少しぽっちゃりしたの方を可愛いと思ってくれているというのなら、嬉しい。
明日からは斎藤の好きな丸顔に戻るために、ちゃんと食事をしなくては。減量は結局無駄になってしまったけれど、実は自分が斎藤の好みに適っていたのだと分かったのが嬉しくて、は顔が緩んでしまうのだった。
兎さんの名前が“非常食”というのは、BBSでの遣り取りから派生した設定です。しかし非常食って、斎藤が言ったら洒落にならない………。実は兎さんには裏設定の名前があるのですが、それを明かすのはまだ先のお話。
で、正月といえば“正月太り”です。今は一日から仕事をしているんでそうでもないのですが、正月に仕事をしていなかった頃は、確実に太ってましたね。だって、殆ど家から出ないわ、出たら出たで飲み会だわで、食べてばっかりなんだもん(苦笑)。きっと主人公さんも、斎藤の家でお餅やお菓子を食べていたんでしょう。
此処にきて、兎主人公さんはぽっちゃり丸顔設定になってしまいました。まあ兎って、丸々しているイメージはあるんですけどね。そしてこのシリーズでは、斎藤は丸顔童顔好き設定ということで。拍手コメントで「ロリコン疑惑発覚!」というのを戴いて、爆笑しました。いや、兎部下さんは恵さんと同じ23歳なので、厳密にはロリコンではないのですが………。
ま、痩せても太っても、「そのままの君が良いよ♥」ってことでしょうか。死んでも言わなそうだがな、斎藤。