元旦
除夜の鐘を聞きながら蕎麦を食べ終えるとすぐに、と斎藤は三社参りに向かった。夜明け前から行けば人は少ないだろうし、帰る頃には初日の出を拝めると見込んだからだ。が、その予想は完全外れて、二人はただ事ではない人込みの中でもみくちゃになっている。最初に行った近所の小さな神社の境内でも、いつもは人っ子一人いないのに、何処からそんなに人が集まってきたのだろうと思うくらいぎゅうぎゅう詰めになっていた。東京中の人間がたちと同じことを考えているのかと疑いたくなるくらいだ。
飛び抜けて背の高い斎藤はともかく、小柄なは周りに押されたりもみくちゃにされたりして、髪も着物もよれよれになって悲惨な状態になってしまった。それでもどうにか一つ目と二つ目の神社は回れたが、最後のところは比較的大きな神社のせいか、人が多すぎて一歩も前に進めない。
は相変わらず前後左右からぎゅうぎゅうに押されるし、斎藤は斎藤で前に進めなくて不機嫌そうに黙り込んでいて、新年早々最悪の状況だ。の予定では、斎藤と二人で並んでお賽銭を上げて、「何をお願いしたんですか?」なんて楽しく初詣をするはずだったのに。年越し蕎麦を食べながら思い描いていた状況とあまりにもかけ離れていて、だんだん泣きたくなってきた。
おまけに寝不足と人酔いのせいで気分まで悪くなってきて、の顔色がだんだん白くなっていく。ふらふらになりながらも、はぐれないように斎藤の着物の袂をきゅっと握っていると、漸く彼女の異変に気付いたのだろう。それまで前しか見ていなかった斎藤が、ふとを振り返った。
「こりゃ、本殿まで行くのは無理そうだな。他当たるか?」
「………はい」
斎藤が思ったよりも怒っていないことが判って、は一瞬だけ気分が悪いのを忘れて小さく微笑んだ。自分が誘ったのに、そのせいで斎藤が不機嫌になったら悲しい。
けれど気持ち悪いのが吹き飛んだのも一瞬で、はまた頭がぼーっとしてくる。一瞬だけすっきりした分が揺り戻したようで、鉛のように身体が重く感じられた。
目に見えてふらふらし始めたの様子に、斎藤がぎょっとしたように慌てて毛糸の襟巻きに埋まった彼女の顔に手を当てた。たまにしか触れないが、は斎藤よりも体温が高いはずなのに、今の彼女の頬は酷く冷たく感じられる。どうやら貧血を起こしかけているらしい。
「おい、気分が悪いのか? 吐きそうか? 此処では吐くなよ。人のいない所に行くまで我慢しろよ、良いな?」
焦りながらも早口で一気にまくし立てると、斎藤はの肩を抱くようにして、乱暴に人込みを掻き分けながら鳥居の方まで歩いて行った。
神社の隣の広場に付くと、斎藤は隅の長椅子にを座らせた。流石に此処には人はいなくて、その分冷たい風がそのまま身体に当たるけれど、今はその冷たい空気がには心地良いようだ。彼女はほっとしたように、大きく深呼吸をした。
少し休ませると幾分顔色はマシになったようだが、それでもまだの顔は血が通っていないように白い。いつも元気な彼女がこんな顔をするなんて、よほど具合が悪いのだろう。やはり無理にでも少し寝させてから連れ出せば良かったと、斎藤は後悔した。
「顔、真っ白だぞ。今日のところはもう帰った方が良いな」
ぐるぐる巻きにしているマフラーを解いてやりながら、斎藤は小さな子供を諭すような優しい口調で言う。ただの寝不足と人酔いなのだから、少し眠ればすぐに元気になるはずだ。それからまた何処かに参拝に行っても、初詣には十分に間に合うはずだ。
いつもならそうやって優しく言われると嬉しくてたまらないのに、今回ばかりははその優しさにかえってしゅんとしてしまう。自分から初詣に誘ったのに、新年早々こんなに迷惑をかけてしまって、自分の不甲斐なさが悔しくて、目が潤んできた。
今年は斎藤に“大人の女”だと認めさせてやる、とつい数時間前に決心したばかりなのに、もうこれだ。これでは斎藤にまともに相手にしてもらえなくても仕方がない。そのうち斎藤もの相手をすることが嫌になって、他の彼に相応しい女のところに行ってしまうのではないのだろうかと、ますます悲しくなるような妄想までし始めてしまう。
目に涙を溜めて俯いているを見下ろして、斎藤は困ったように小さく溜息をついた。勝手な妄想をして勝手に落ち込んでいるらしいことは彼にも判っている。「気にするな」と言ってやったところで、がますます意固地になってしまうのも判っている。今のは斎藤の気持ちがどうこうというよりも、自分が歯痒くてたまらないといった顔をしているのだから。
だから斎藤は、何も気付いていない振りをして、に背を向けてしゃがみこむ。
「慣れない徹夜で疲れたんだろう。此処からなら俺の家が近いから、うちで少し寝ると良い。ほら、おぶってやるから」
自分の無茶を叱られるかと思いきや、おぶってやると言われて、はびっくりして潤んだ目を擦りながら顔を上げる。
「や、あたし、重いですから………」
斎藤におんぶしてもらうのが嬉しいとか、こんなに迷惑かけたのに更に迷惑をかけて申し訳ないとか思う前に、体重のことを気にしてしまうなんて間抜けなことだが、そこが女心というものなのだろう。が乗った瞬間に、斎藤が重さに耐えかねて潰れたりしたら恥ずかしい。
けれど斎藤は強引にを背負うと、何でもないように立ち上がった。見た目は細いけれど、を軽々と背負えるくらいの力はあるのだ。
初めての高い視界に、は怯えるように斎藤の首にしがみつく。
いつものだったら、斎藤の目から見える世界はこんな風なのかと彼の肩越しに回りを見たり、身体を密着させていることが嬉しかったり恥ずかしかったりで、何処までも浮かれてしまうところだが、流石に今日はそんな気分にはなれない。それどころか、今日は特別な日なのに斎藤にこんなことまでさせてしまって、そんな自分が情けなくて涙が出てきた。
泣いたらますます斎藤を困らせてしまうのに、それどころか嫌われてしまうかもしれないのに、一度涙が出ると止まらなくなってしまう。せめて泣いている気配を知られまいと、歯を食い縛って息を止めていたが、それでも斎藤に気付かれないようにするというのは無理な話だ。
洟を啜る小さな音に気付いて、斎藤は困ったように苦笑して振り返る。
「何だ、泣くほど気分が悪いのか?」
からかうような斎藤の声に、は歯を食い縛ったままぷるぷると首を振った。こうするとますます愚図っている子供のようだが、言葉にしようとするとそのまま声を上げて泣いてしまいそうだった。
いい歳をして子供みたいなの反応が可笑しくて、斎藤は笑うように小さく息を漏らす。
「じゃあ、眠くて愚図ってるのか?」
そんなことないのは解っているけれど、反応が面白いからからかってみる。妄想したり、怒って膨れているのをからかうのも面白いけれど、こうやってぐすぐす泣いているのをからかってみるのも、には悪いと思いながらも面白いのだ。彼女はもしかしたら、斎藤の最高の玩具なのかもしれない。
斎藤の内心を知ってか知らずか、は彼の予想通り、子供のように激しく首を振った。
「そんなんじゃないですぅ………」
本当は、二人で三社参りをして、来年も再来年も、ずっと一緒にいられますように、と神様にお願いするつもりだった。それから二人で初日の出を見て、二人で御屠蘇を飲んで、出来合いのものだけど御節を一緒に食べるつもりだったのに。それに今日は、元日というだけではなくて、二人にとって大事な日だった。
「今日は斎藤さんのお誕生日だったのに………。一番に“おめでとうございます”ってお祝いしたかったのに………」
今日は斎藤の誕生日だったのだ。初めて二人で過ごす誕生日だから、彼の好きなものを作ってあげて、彼が喜ぶようなことをしてあげたかった。それなのに一方的に迷惑をかけてばかりで、そんな自分が情けなくてはますます泣けてきた。こんなことで泣いていたら、呆れられるか鬱陶しがられると思うのに、どうしても涙が止まらない。
声を殺して泣くを見ながら、斎藤は小さく笑う。
「なんだ、そんなことか………」
「笑い事じゃないですぅ」
馬鹿にされたと思ったのか、はしゃくり上げながらぷぅっと膨れた。今年は怒って膨れないと決めたのに、これもいきなり挫折だ。
だけど、そんな抱負も忘れてしまうくらい、にとっては“笑い事”ではないし、“そんなこと”でもない。斎藤の誕生日は、にとっては自分の誕生日と同じくらい大切な日だ。この日がなかったら、斎藤はこうして此処に存在していなかったのだから。
が真剣に怒っているのが解って、一寸悪かったかなと思ってはみるけれど、でもやっぱり斎藤には可笑しい。ぐすぐすと鼻を鳴らしながら膨れる顔も、泣き濡れた目で睨むのも、何だか子供のようで可愛らしい。
「一番におめでとうと言ったんだから、良いじゃないか。もう祝われても嬉しい歳でもないが、おめでとうと言われると悪い気はしないな」
そう言った斎藤の声も表情も穏やかで、その優しい顔には胸がきゅうっとなってしまった。顔が熱を持ったように熱くなって、それを見られないように、慌てて下を向く。
「でも、折角のお誕生日なのに、こんなに迷惑かけちゃって………」
「別に迷惑じゃない」
そう言いながら、斎藤はの身体を軽く揺すってずり上げる。
「それよりも、お前が俺の誕生日を憶えているなんて意外だったな。ありがとう」
その口調はぶっきらぼうだけど、最後の言葉だけは優しくて暖かい。その声だけで気持ち悪かったのも眠いのも嘘のように掻き消えてしまって、は赤い顔のままきゅうっと斎藤にしがみつくのだった。
1月1日はお正月であると同時に斎藤の誕生日でもあるので、「斎藤お誕生日おめでとうドリーム」もかねて。誕生日が来ても34歳を永遠にループです。サザエさんワールドだから(笑)。
寝不足と人酔いで折角の初詣が最悪の思い出になったということがあります、私。しかもあまりの気持ち悪さに情緒不安定になってぐすぐす泣き出して、相手から「うぜぇ……」と言われたことも………。今思うと、どれだけウザイ女だ、私? って感じなんだが(笑)。若かったんだ、許してください。
しかし、ぐすぐす泣いてる部下さんをおんぶしてあげて、しかもからかったり何だりして、何処まで懐の深い男なんだ、斎藤。愛だね、愛! 良いなあ、部下さん。これだけ溺愛されてるんだから、「可愛い」って言ってもらえなくても、ちゅうが無くても、もうそんなのどうでも良いじゃないですか。
………って、やっぱそれは駄目ですか。そうですか(苦笑)。近いうちにどうにかちゅうに持ち込みたいところですね。