日記果つ

 毎日つけていた日記が残り僅かになって、もう今年も終わるのかとはしみじみと表紙を撫でた。ぱらぱらと捲ってみると、一行で終わっている頁もあれば、、一頁では終わりきれなくて紙を足している日もあって、何気無く過ごした一年でも色々あったのだと改めて思う。
 一月一日は丁寧な字で、今年一年への思いや抱負をびっしり書かれている。それから一週間は、何も無い日でも何か書こうと努力した跡が見られるが、そのうち行数が減って、酷いものになると“今日は何も無し”の一行で済まされている日もある。まあ本当に何も無い日だったのだろうが、もう少し書きようが無かったのかと、自分で書いたものなのに可笑しくて、は小さく苦笑した。
 そんな数行で終わる日が何ヶ月も続いて、“ある日”を境に一頁では終わりきれない日が急速に増えてくる。“ある日”とは、初夏の終わりに許婚の墓の前で蒼紫に初めて出会った日だ。
 あの日の日記には、もう蒼紫のことが詳しく書かれている。あの頃のは蒼紫のことを許婚に重ねていたようで、彼の許婚に似たところを綿々と書き連ねている。そのうち、蒼紫そのものについての記述が増えてきて、彼に対するの好意が次第に高まっていく様子が手に取るように解った。高まっていく好意と、それなのになかなか先に進めないもどかしさが綴られていて、読んでいて恥ずかしくなってきた。
 初めて蒼紫がの家に遊びに来た日のこと。初めて口付けを交わした日のこと。花火を観に行って、初めて手を繋いで、夜店で文鳥を買ってもらったこと。次の日にはつがいになるようにもう一羽買ってもらった。それから足を怪我して、『葵屋』で暫く世話になったり、東京から来た蒼紫の友達に会ったり、鴨川で川床料理を食べて―――――
「………………………っ!!」
 初めて蒼紫が家に泊まった日のことを事細かに綴っている頁を見て、は不覚にも耳まで真っ赤になってしまった。
 書いたその日はできるだけ事実だけを書くように心がけたつもりだったけれど、その素っ気無い文章が余計にあの日のことを事細かに思い出させて、恥ずかしいというか、ただ事ではないくらい照れてしまう。照れてしまうけれど、でもあの時の気持ちをまた思い出してドキドキできて、そういう面では日記というのは悪いものではない。
 あの日を境に、二人はやっと本当の恋人同士になれたのだろうと、は今になって思う。それまではお互いの気持ちを分かっているくせにどこか遠慮しているというか、一寸距離を感じていた。あれからも暫くは他人行儀な丁寧語は続いたけれど、でもそれ以前のおかしな遠慮は無くなった。
 あの夜を境に二人の距離は急速に近付いて、近付いた分だけ衝突することもあったけれど、すぐに仲直りすることができた。喧嘩した日の日記を読むと、怒っているのは解るけれど、でもどこか微笑ましい。“微笑ましい”と思えるのも、今の二人がとても良い関係でいるからだ。
 その時はいつだって一生懸命だけど、後から読み返すとその一生懸命さが他人事のようで可笑しい。自分の日記でこんなに楽しめるのは、多分今年が初めてだ。それだけ充実して、一生懸命に過ごした一年だったのだろうと、は思う。
「何を読んでいるんだ?」
 くすくす笑いながら日記を読み返していると、の肩越しに蒼紫が首を突っ込んできて手元を覗き込んだ。
「きゃあっ?!」
 突然の蒼紫の声に驚いて、は頓狂な声を上げると同時に慌てて日記帳を閉じた。火鉢の横で新聞を読んでいるものと思い込んでいて、背後に回られていることに全く気付かなかった。
「なんだ、日記帳か。自分で書いたのがそんなに面白いのか?」
 楽しそうにしていたから何を読んでいるのかと思えば、ただの日記帳で、蒼紫は期待外れのようながっかりした声を出した。新しい小説でも買ってきたと思ったのだろう。
「面白いっていうか………その時のことを思い出して、ね」
 照れたように苦笑して、は答える。
 文章自体が面白いわけではない。誰かが読むことを想定して書いているわけではないから、小説のように盛り上がりがあるわけでもなく、それどころか自身の記憶で行間を埋めなければならないような文章だ。きっとこれを書いた自身しか楽しめないものだけれど、でもそれでも良いと思っている。
 少し傷んだ表紙を掌で撫でながら、はまたくすくす笑ってしまう。今年一年の自分と蒼紫のことが沢山詰まったこの日記は、今までの日記で一番可笑しくて、そして一番大切な日記だ。
 一人で笑っているを怪訝そうに見ていた蒼紫だったが、日記の内容が気になるのか、後ろから手を伸ばしてきた。
「ふーん………一寸見せて」
「駄目よ! これは他人に見せるものじゃないんだから」
 蒼紫の手から守るように、は日記帳を両手で胸に抱え込んだ。別に気まずい事を書いているわけではないけれど、この日記を見られるのは恥ずかしい。他の年はともかく、今年の日記はまだ見せるわけにはいかない。
 この日記には、まだ蒼紫に伝えていない想いが沢山詰まっている。いつかはちゃんと伝えようとは思っているけれど、こういうのはこういう形で一気に伝えるよりも、ちゃんと言葉にして少しずつ伝えた方が良いとは思うのだ。あまり一気に伝えても、今ひとつ真実味が無いというか、それに相応しい時に小出しに言った方が効果的だ。
 の必死な反応に、蒼紫はびっくりしたように目を見開いて彼女の顔を見た。そして、可笑しくてたまらないといった感じで、くつくつと笑う。
「そんなに顔を真っ赤にしなくても………。そんなに見られたら困ることが書いてあるのか?」
 今更に秘密があるとは思わないし、後ろめたいことがあるとは蒼紫も思っていない。大方、西洋詩人のような恥ずかしい文章を書いているのだろうと、彼は勝手に想像する。そういう文章は、後で読み返したら笑えるし、他人には見られたくないだろう。
「見られたら困るっていうか………」
 勝手なことを想像してニヤニヤ笑う蒼紫に、はまだ日記帳を胸に抱いたまま口籠もる。
 見られたら困るというわけではないけれど、でもまだ今は見せたくない。今は見せられないけれど、これから10年後か20年後、今が遠い昔になって、今の気持ちが薄らいでしまった時に、二人でこの日記を読みたいとは思っている。出会った頃はこんなにもお互いのことを好きだったのだと思い出せるように。日記の効用というのは、案外そういうものなのかもしれない。
 来年の日記にはどんなことを書いていくのだろう、とは想像する。今年の日記のように、一頁では書ききれない想いを書き綴っていきたい。そして来年の今頃にはこうやって、蒼紫への想いを読み返してくすくす笑っていられたら言いと思う。
 また顔がにやけてしまう彼女を不思議そうに見ている蒼紫をちらりと見て、は小さく笑った。
<あとがき>
 今年一年の日記を読み返して、二人のことを振り返る主人公さんです。
 日記帳というのは、後で自分で読み返すと爆笑ものだったりしませんか? その時は目の前の事象しか見えなくて一杯一杯になっていても、それが“過去”になってしまうと、どんな辛いことも苦笑いを浮べてしまったり。
 良いことも嫌なことも、そのことがあって今の自分があるのだと思うと、辛かった時期もつまらない日常も“されど愛しき日々”なわけです。
 勿論、今も思い出したくないような辛い思いでもあるけどね。それは自分の中で上手くやり過ごしたり折り合いを付けて、“過去”にできたら良いなあ、って思っていますよ。
 この主人公さんの来年の日記はどうなっているか………。辛いことや悲しいことよりも、嬉しいことや楽しいことが大幅に上回る日記になって欲しいものです。
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