初氷

 11月に入ったら急に寒くなって、通勤には外套と襟巻きと手袋が手離せなくなった。去年の賞与で買った外国製の毛糸の襟巻きをぐるぐると巻いていると、寒がりのでも快適に過ごせる。手袋と対で一寸高かったが、良い買い物だったと今でも思う。
 けれど、ぐるぐると襟巻きを巻いたの姿は、斎藤はあまり好きではないらしい。こうやって一緒に通勤している今も、少し呆れたような嫌そうな顔で、時々の方を見ている。
「お前、その格好………」
 の姿を上から下までさっと見て、斎藤は呆れたような声を出した。
「何ですか?」
「その歩くよりも転がった方が早そうな格好は、何とかならんのか?」
「えー? でも斎藤さんと同じくらいしか着てないですよぉ」
 斎藤の言葉に、は不満そうに口を尖らせて応える。確かに外套の下は厚着をしているし、襟巻きもぐるぐる巻いているけれど、でも“転がった方が早い”という表現は言いすぎだと思うのだ。斎藤だって同じようにいつもより厚着をしているし、襟巻きだって巻いているのに。
 不服そうに膨れるに、斎藤は更に言う。
「お前はチビだから、俺と同じくらいしか着てなくても、丸々して見えるんだよ。特にその襟巻き!」
 いきなり襟巻きをビシッと差されて、はびくっとする。
「そんな口まで埋もれるまでぐるぐる巻いていたら、余計に丸々して見えるんだよ。お前は鞠か?!」
「ひどーい! こうしてないと寒いんですよぉ。真冬になったら毛糸の帽子と耳当ても買おうと思っているのに」
 再びぷぅっと膨れて、は反論した。
 斎藤は若い頃に京都と東北の方で過ごしていたから寒さには強いのだろうが、東京以外の冬を知らないくせに極端な寒がりのはには、今の時期でも耐え難いくらいに寒いのだ。斎藤は嫌っているけれど、この襟巻きが無かったら、外に出られないとさえ思う。
 が、斎藤はそうは思っていないらしく、呆れたのを通り越してぎょっとした声を上げた。
「まだ着込む気なのか?!」
「だって―――――」
 抗議をしようとした時、道の隅にある水溜りが凍っているのに気付いて、はそっちの方に駆け寄った。珍しいものを見つけると、今までのことをすっかり忘れてそっちに行ってしまうなど、子供と同じだ。
 反論の言葉を待っているのに、そのことさえも忘れたように白く凍った水溜りをじっと見ているに、斎藤は呆れたような目を向けた。寒がりなら、水溜りに氷が張るのなんか鬱陶しがるのが本当だろうに、は嬉しそうに爪先でコツコツと叩いたりしている。寒がりの子供でも雪が好きなのと同じなのだろうかと、嬉しそうなの背中を見ながら思った。
 この様子だと、暫く氷で遊びそうだ。まだ時間があるから少しくらいなら付き合ってやるかと、斎藤は煙草に火を点けた。いくら何でも、一本吸い終る頃にはも氷に飽きるはずだ。
「斎藤さん、水溜りが凍ってますよ」
 爪先で氷を叩きながら、は嬉しそうに斎藤を振り返る。まるで自分の発見を親に報告する子供のような様子に、斎藤は苦笑した。無邪気といえば無邪気なのだろうが、いい歳をして、と思わないでもない。
 しかし、氷が張っているくらいでこれだけ喜べるなど、ある意味羨ましいと斎藤は思う。それくらいのことで喜べるなら、毎日が楽しい事だらけだろう。だからはいつもにこにこしていられるのだろうか。どんなに小さなことでも喜べるなら、それはきっと幸せなことだ。
 黙って煙草を吸って見ている斎藤の反応が不服なのか、はもう一度念を押すように言う。
「ねえ、斎藤さん。水溜りが凍っているんですよ。見てくださいよ」
 どうやら氷で遊ぶだけでは飽き足らず、斎藤にも一緒に見てもらいたいらしい。若い頃に寒さの厳しい京都や斗南で暮らしていた彼には、水溜りに出来た氷など珍しくも何ともないのだが。
 けれど東京生まれの東京育ちのにとっては珍しい現象だから、斎藤にも一緒に珍しがって欲しいのだろう。その気持ちは判るのだが、いい歳をしたおっさんが「本当だ。凄いなあ」などと水溜りの氷に感心するなんて、あまり見た目の良いものではない。こういうのは、のように若くて可愛らしい娘がやるから可愛いのだ。
 それを自覚しているから、斎藤は煙草の煙を吐きながらぶっきらぼうに応える。
「寒くて水溜りが凍るのは当たり前のことだ。沸騰したら見に行くけどな」
「………………」
 あまりにも素っ気無い言葉に、は次の言葉が出ない。斎藤の言うことはこの上なく正しいのだが、でもそんな言い方はないと思うのだ。別に、「本当だ、凄いなあ」なんて言いながら一緒に氷を突付いて欲しいとか思っているわけじゃなくて、季節の移り変わりを示す一寸したことを斎藤と分かち合いたいだけなのに。
 斎藤が見に来てくれたらすぐに氷から離れるつもりだったのだが、相手にされないとこのまま彼のところにもどるのも癪な気がして、は意味も無くコツコツと氷を叩き続ける。相手にしてくれないから怒ってるんだと意思表示をしているつもりなのだが、斎藤には全く通じていないらしい。彼もが氷に飽きるのを待っているかのように、無言で煙草を吸い続けている。
 こうなったら、割れるまで叩かないと気が済まなくなってきた。爪先で叩いていたのを、今度は踵をガツガツと叩きつける。斎藤への苛立ちを、氷に叩きつけているみたいだ。
 何度叩いても割れなくて、だんだん氷にまで馬鹿にされているような気分になってきた。むかむかしてきて、は全体重をかけて踵を氷に叩きつけた。
「あっ………?!」
 これで割れるかと思いきや、氷は意外としぶとくて、逆にの足が跳ね返されてしまった。勢い良くつるんと滑って、そのまま後ろ向きに倒れそうになってしまう。
 その刹那、の両脇に斎藤の腕が差し込まれて、後ろから抱きとめられる。
「阿呆か、お前は。いい歳して氷で滑るんじゃない」
 一寸怒ったようにそう言いながら、斎藤はをちゃんと立たせて手を離した。二十歳を超えた大人だというのに、これでは手のかかる子供と全く変わらない。
「………すみません」
 恥ずかしそうに俯いて、は消え入るような声で謝る。いい歳して子供みたいに氷で足を滑らせてしまったのも恥ずかしかったけれど、それよりも一瞬とはいえ、斎藤と密着したことの方が恥ずかしかった。を支えるためとはいえ、天下の往来で斎藤に抱き締められたのだ。斎藤にはその気が無いのは判りきっているけれど、でも天下の往来で抱き締められたのは嬉しい。次は、ちゃんと抱き締められたいなあ、なんて大胆なことを考えてしまう。
 前の方から抱き締められた時も、嬉しくて恥ずかしくて心臓が破裂しそうだったけれど、後ろから抱きとめられるのは妙に安心感がある。何というか、包み込まれて守ってもらえているような、不思議な感じなのだ。前から抱き締められるより、こっちの方が好きかも知れない。いつか斎藤と恋人同士になったら、後ろからの抱っこをおねだりしてみようかと思う。斎藤に後ろからぎゅっとしてもらっているところを想像したら、それだけで恥ずかしくて身体の中がもぞもぞしてきた。
 そんな下らない妄想をして顔を赤くしているに気付いているのかいないのか、斎藤は新しい煙草を咥えて火を点ける。
「ったく………煙草も無駄にするし………」
「へ?」
 ぶっきらぼうに言う斎藤の言葉にが地面を見ると、彼の足許にまだ長さのある煙草が転がっていた。自分が転びかけたのを見てびっくりして落としてしまったのだろうかと見ているに、斎藤は煙を吐いて言葉を続ける。
「咥えたまま支えたら、灰が落ちてお前が火傷するかもしれないだろうが」
「あ………」
 あの一瞬でそこまで考えていたのかと、は改めて斎藤に感心した。だったらきっと、そこまで頭が回らない。
 斎藤は凄い、と感心して見上げるに、斎藤は一寸意地悪く口の端を吊り上げて、
「煙草の方を取っても良かったんだが、すっ転んでそのままどこまでも転がられても困るからな」
「は?」
 確かにこの道は緩やかな下り坂になって入るけれど、転んだからってそのまま転がっていくわけが無いではないか。確かには着膨れて入るけれど、鞠ではないのだからコロコロと転がって行くはずが無い。
 ぷぅっと膨れて上目遣いで軽く睨みつけるを、斎藤は可笑しそうな顔をして見下ろす。丸々と着膨れている上にそんな風に膨れたら、益々丸々として見える。小さくて丸々として、新種の可愛い生き物みたいだ。軽く突付いたら、コロンと転がってしまいそうである。
「そんなに膨れると、益々丸々膨れて見えるな。ほら、急がんと遅刻するぞ」
 可笑しそうにそう言うと、斎藤は咥え煙草のまま大股で歩き始めた。
 また丸々としていると言われて、は改めて自分の姿を見る。出かける前に鏡で確認した時はそれほど着膨れているとは思わなかったけれど、斎藤から見たら丸々して見えるのだろうか。
 今度の賞与が出たら、“カシミア”とかいう山羊の毛を使った肌着を買おうかと考える。毛糸のマフラーより高価だけれど、薄くて温かいと聞くし、それを着たら今よりは着膨れを解消することは出来るはずだ。斎藤は着膨れたの姿を嫌がっているようだし、それが元で一緒に歩いてもらえなくなったら困る。
「何やってるんだ。さっさと歩かんと、そのまま転がすぞ」
 着膨れしている身体を見ながら考え込むを振り返って、斎藤が一寸意地悪な口調でからかうように言った。
「転がりませんってば!」
 雪玉のように斎藤に転がされている自分の姿を想像して、は不覚にも吹き出してしまう。笑いながらも、跳ねるような足取りで小走りに斎藤の後を追いかけるのだった。
<あとがき>
 一緒に通勤する二人です。偶然途中で会ったのか、待ち合わせて一緒に通勤しているのか、どちらかが家に誘いに来て一緒に通勤しているのかは、お好きに想像してください(笑)。なかなか進展しないように見せかけながら、地味にお近づきにはなっているようです、この二人。
 “着膨れ”っていうとあんまりいいイメージじゃないけれど、小柄で可愛い系の女の子がもこもこしているのって、一寸可愛くないですか? 冬支度の小動物みたいで。何だかんだ言いながら、斎藤の目には主人公さんはそう見えているんですよ。フィルターかかってるから(笑)。
 でも主人公さん、11月の時点でこんなに着膨れしていたら、真冬はどうやって乗り切るつもりなんだろう………?
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