初氷
「あら………」水を張ったまま井戸端に置いていた桶に氷が張っているのを見て、は小さく声を上げた。11月に入って急に寒くなったと思ってはいたが、もう氷が張るようになっていたとは。本格的な冬の到来である。
薄く張った氷を指先でそっと押してみると、パリッと音がして、下からじんわりと水が出てくる。中の水は刺すように冷たくて、反射的に手を引っ込めて指先を唇に触れさせた。
とりあえず水を汲んで、厨房に置いてある水瓶に入れる。冷えるとはいえ、流石に家の中だから水瓶には氷は張っていない。けれど何度か水汲みを繰り返しているうちに手は真っ赤になって、感覚がなくなってくる。この時期の水仕事は本当に辛いと、いつも思う。
竈に火を熾して朝御飯の用意をするついでに、暖を取る。こういうところは、厨房にいる者の役得だ。蒼紫が寝ている部屋は火の気が無いから、まだ布団の中でもぞもぞしているだろうとは想像する。蒼紫は一月生まれのくせにもの凄い寒がりで、彼が泊まりに来た朝は布団から引きずり出すのが一苦労なのだ。
御飯が炊けたところで、今日はどうやって蒼紫を起こそうかと考えながら、は部屋に向かった。
案の定、蒼紫はまだ布団の中に潜り込んでもぞもぞとしていた。起きているのは確かだけれど、まだ布団から出る決心がつかないらしい。氷が張るくらい寒いのだから、にもその気持ちは解る。
解るけれど、いつまでもこのままにしておくわけにはいかない。布団を上げないと火鉢も卓袱台も出せなくて、朝御飯を食べることも出来ないのだ。
「蒼紫、御飯できたわよ」
蒼紫の手が届かないように距離を取って、は声を掛ける。以前、枕元に座って起こそうとしたら、布団の中に引きずり込まれてそのまま昼まで過ごしてしまったことがあって、少し警戒しているのだ。たまにはそんなダラダラした休日もいいけれど、そうしょっちゅうそんなことをするわけにはいかない。
蒼紫はちょこっと顔を出したが、が自分の手の届かないところにいるのを見ると、つまらなそうな顔をしてまた布団の中に潜ってしまった。どうやらまた布団の中に引きずり込むつもりだったらしい。
怠け者の亀のような蒼紫の動きに、はつい吹き出してしまった。寒いのが苦手なのは解るけれど、こんな子供のようなことをするなんて。『葵屋』の人間に見せてやりたいと思う。
「ねえ、早く起きないと御飯冷めちゃうわよ」
「うん………」
返事はするけれど、出てくる気配は全く無い。いつものことだけど、蒼紫を布団から引きずり出すのは一苦労だ。
この前、強引に布団を引き剥がして起こしたせいで、最近はしっかりと布団を身体に巻きつけて、簡単に引き剥がされないようにしている。空腹に訴えようと、御飯を布団の前に持ってきて匂いでおびき出そうともしたけれど、これも最近では「飢え死にしても布団から出たくない」などと言うくらいだから、効果は無さそうだ。本当は、火鉢に火を熾して部屋を暖かくしてやれば良いのだろうが、布団を敷いたままで火鉢を置けるほど部屋は広くはない。
これは一体どうしたものか、とは腕組みして考える。『葵屋』ではちゃんと一人で起きて、お増やお近が朝食に呼びに来る時には布団を上げて着替えも済ませていると聞くのに、どうして此処ではこんなにだらしないのだろう。出会った頃は大人だと思っていたけれど、これでは大きい子供を養っているのと同じだ。
正直、蒼紫よりも文鳥たちの方がまだ手がかからないかもしれない。文鳥たちはもう目を醒まして、餌をねだって籠の中でちぃちぃ跳ね回っている。
「ちぃちゃんだって、もう起きてるのよ? うちでは怠け者の亀さんを飼ってるつもりはないんだけど?」
「羽毛を着ている文鳥と、寝巻きしか着ていない俺とは違う。羽毛を着ている文鳥が寒さに強いのは当然じゃないか」
の意地悪な言葉に、蒼紫は拗ねたような不機嫌な声で応える。大の男が文鳥なんかと比べられて面白かろうはずがないのだ。しかも、仲の悪い文鳥である。
が文鳥を引き合いに出すのが面白くなくて、蒼紫はますます強く布団を巻きつける。もっと可愛らしく起こしてくれたら布団から出ても良いかなと思っていたが、こうなったら意地でも昼まで出たくない。そんなに文鳥が良いなら、文鳥と朝御飯を食べれば良いのだ、なんて大人気ないことまで思ってしまう。
すっかり態度を硬化させてしまった蒼紫を見て、は困ったように溜息をついた。仲の悪い文鳥と比較したのは良くなかったのかもしれないけれど、でもそれでここまで態度を硬化させるのも大人気ない。第一、文鳥と本気で仲が悪いというのも、大人としてどうかと思うのだ。
考えながら、は何気無く庭に視線を遣った。まだ空気は冷たいけれど、もう柔らかな日差しが差し込んでいる。桶の中の氷は、もう解けてしまっただろうか。
「あ………」
名案が思い浮かんで、は急いで庭に下りると、桶の中を覗き込んだ。小さくはなっているけれど、まだ氷は解けきってはいない。
薄い氷を、割れないように指先で注意深く持ち上げると、そのまま家の中に持っていく。そして今度は蒼紫の枕元に座ると、そっと布団を持ち上げた。
「ねえ、蒼紫。氷が張っていたの。今年最初の氷よ?」
何であれ、“初物”とは良いものである。蒼紫は季節の移り変わりに敏感だから、今年最初の氷を見せてあげると言ったら顔を出すのではないかと考えたのだ。
けれどの思惑は完全に外れて、蒼紫は布団の中でうつ伏せになって潜ったまま、顔を上げようともしない。季節の移り変わりに敏感だから、一寸は関心を持ってくるかと思っていたのだが。寒いのが嫌いだから氷なんか見たくないと思っているのか、それともまだ文鳥と比較されたのを根に持って拗ねているのか。多分後者だろうとは睨んでいる。
蒼紫は変に意固地なところがあるから、こうなったら甘えてみたり機嫌を取ってみたり、の方から折れてあげないと、ずっとこのままだろう。だけど、いつもいつもそんな風に蒼紫を甘やかしていたら進歩が無い。そろそろ教育的指導をしてやらないと、とは氷を見ながらニヤリと笑った。
持っていた氷を音を立てないように小さく割ると、はその破片を蒼紫の首筋にそっと滑らせる。
「うわぁああああぁっっ?!」
刹那、今まで聞いたことの無い凄まじい悲鳴を上げて、蒼紫は布団を跳ね除けるように飛び起きた。一体何が起こったのか解らないように背中をバタバタ叩いて、こんな慌てる蒼紫を見るのは初めてのことだ。その姿が滑稽で、は悪いと思いながらもくつくつと笑う。
自分の反応を見てさも可笑しそうに笑うを見て、流石の蒼紫も怒鳴りつけたい衝動に駆られたが、今はまだそれどころではない。小さな氷の欠片が狙ったように手の届かないところに止まっていて、背筋が凍りついてしまいそうなのだ。溶けた水が垂れていくのも気持ち悪い。
「なっ………何……いまっ………?!」
背中に張り付いている氷の破片を取ろうと、背中に両手を回してぱたぱたさせながら、蒼紫は頓狂な声を上げる。いつものように機嫌を取ろうとすると思っていたのに、何だかよく解らない狼藉を働かれて、何か言おうとしても噛みまくって言葉にならない。
暫くそうやってばたばたしていたが、やっと氷が解けてしまうと、蒼紫はぐったりしたように布団に両手をついてしまった。ただでさえ寒い朝なのに、こんな乱暴な起こし方をされるなんて。冗談ではなく、心臓が止まるかと思った。悪ふざけにも程がある。
キッと顔を上げて睨みつける蒼紫に、は悪びれた様子も無く、楽しげにふふっと笑って歪に円い氷を見せた。
「今年最初の氷。桶に張ってたの」
いつもなら抱き締めたくなるなるような無邪気な笑顔に映るが、今のの笑顔は悪魔の微笑みにしか見えない。カッとなって、蒼紫は思わず大きな声を上げた。
「こんなものを背中に入れるなんて―――――」
今にも掴みかからん勢いで怒鳴られて、はびくっと表情を強張らせた。そして、花が萎れるようにみるみる悲しげな顔になる。
「だって、蒼紫が顔を出してくれないんだもの。今年最初の氷を一緒に見たかったのに………」
悲しそうに目を伏せて睫毛を震わせながら、は泣きそうな声で応える。その姿を見たら、何だか自分が悪いことをしているような気分になってきて、蒼紫はそれ以上何も言えない。本来なら蒼紫はもっと怒っても良いはずなのだが、まあ惚れた弱味というやつなのだろう。
今年初めてのものを好きな人と一緒に見たいという気持ちは、蒼紫にもよく解る。彼だって庭に季節の花が咲いたのを見つければすぐにに教えるし、それを二人で見て季節の移り変わりを確認する作業が好きなのだ。そうすることで二人で過ごした時間を改めて感じることが出来て、もっと二人の関係が深まるような気がするから。“初めて”を共有できるということは、それだけいつも一緒にいるということなのだ。
だからが“初めての氷”を蒼紫に見せたいと思う気持ちも、よく解る。特に初氷は薄くてすぐに解けてしまうから、多少手荒なことをしても蒼紫に見せたいと思ったのだろうと思う。その気持ちはとても嬉しい。
折角のの気持ちを踏みにじるように怒鳴ってしまったことを、蒼紫は今更ながら反省した。ずっと氷を握って赤くなってしまった手を温めるように、自分の手をの手に重ねて優しく言う。
「………ごめん。折角持ってきてくれたのに、怒鳴って悪かった」
「ううん。私もびっくりさせてごめんね」
殊勝な声でそう言うの唇が、笑うようにそっと動いた。
さっきまでの悲しげな声も表情も、実はお芝居だったのだ。びっくりさせて一寸悪かったかなと思ったのは本当だが、こうすれば蒼紫がそれ以上怒ることが出来ないと見越して、一芝居打ったのである。作戦通り蒼紫は布団から出てきたし、おまけに怒鳴るどころか逆に謝ってきて、全部の思惑通りだ。
こんなお芝居が通用するのも、蒼紫がのことが大好きで、いつも彼女のことを一番に考えてくれているからだ。それが解っているから、作戦が成功したことよりも、蒼紫がこんな反応をしてくれたことの方が何倍も嬉しい。
嬉しいけれど、そこで完結しないのが女のずるいところだ。蒼紫の気持ちに付け入るように、は一寸甘えた声で約束を取り付ける。
「でもね、私、自分が見つけたものは全部蒼紫と一緒に見たいの。だから、私が声をかけた時はちゃんと応えて欲しいの」
要するに、が声を掛けたらさっさと布団から出ろということなのだが、それをそのまま言うと角が立つから、少し遠回しな表現を使ってみる。
言い回しが良かったのか、一寸甘えた声が良かったのか、蒼紫は淡く頬を染めて小さく頷いた。これで今度からは、怠け者の布団亀から抜け出せるはずだ。子供の躾けもそうだが、大人の男の躾けも飴と鞭が効くらしい。
子供のような蒼紫の様子が可愛くて、は小さく笑う。初めての白い息は見せることが出来なかったけれど、これで“初めての霜”で真っ白になった庭木を見たり、“初めての霜柱”を二人で踏み潰したりできるはずだ。蒼紫とは全ての“初めて”を共有したいと、は思う。
「今度は、桶にちゃんと氷が張っているところを一緒に見ようね」
ふふっと笑いながら、は蒼紫の手の上に自分の手を重ねた。
惚れた弱みに付け込む主人公さん。優しそうに振舞いながら、実は鬼なのかも………。そして、そんな主人公さんの思惑に気付いていないのか、素直に操縦されている蒼紫。御頭なのに………。完全に主人公さんに骨抜きにされてしまっていますね(笑)。
きっとこれから、主人公さんが“俺色”ならぬ“私色”に蒼紫を染めていくんでしょうね。で、私色に染められているのに、その自覚が全く無い蒼紫、みたいな。御頭なのに………。いやいや、そういう関係が案外うまくいくもんなんですよ。蒼紫、気性は素直そうなので、あっさり主人公さんに染まりそうだし。
でもこんな御頭を見たら、般若たちは草葉の陰で泣くだろうなあ………。それとも、「そうそう。そういう時は女の言うことを聞いてた方が丸く収まるんですよ」なんて、尤もらしく頷いてたりするんでしょうか。