息白し
警視庁を出ると、肌を刺すような寒さには思わず首を竦めてしまった。今年は比較的暖かな日が続いていたが、流石に11月になれば本格的に寒くなる。一寸歩いただけでも手が悴んできて、指先が痛くなる。今度の休みには襟巻きと手袋を出さなくては、と手に息を吐きかけながら思った。
「あ………」
吐いた息がふわりと指先を白く包んだ。本格的な冬の到来に、は驚いたように小さく目を瞠る。
そろそろ鍋料理の時期だな、とふと思いついた。今までは独りでおでんや鍋をつついていたけれど、今年は斎藤と二人でやってみようかと思う。以前、一週間だけ斎藤の家で家政婦をやって以来、彼の帰りが早い日は一緒に夕御飯を食べるようになっているのだ。
今は別々の皿で御飯を食べているけれど、一緒に鍋を突付くと親密度が上がるような気がする。お互いに具を取り合いっこしたり、譲り合ったりしているところを想像したら、本当に恋人同士になったみたいだ。斎藤が自分の器に魚や豆腐をよそってくれるところを想像したら、嬉しくて恥ずかしくて、はうっとりしてしまう。
斎藤と二人で鍋を食べるとしたら、どんな鍋が良いだろう。普通に寄せ鍋というのも良いけれど、酒を飲みながら湯豆腐というのも渋くて良いかも知れない。斎藤と湯豆腐という組み合わせは、とてもよく似合うような気がする。二人で差し向かいで湯豆腐を突付いている姿を想像して、は益々うっとりした。
「何やってるんだ、お前?」
「ひゃあっ?!」
道のど真ん中でうっとりとしているところに背後から突然斎藤の声がして、は思わず身体を跳ねさせて頓狂な悲鳴を上げた。
「斎藤さん、残業するんじゃなかったんですか?」
口から飛び出そうなくらい激しくドキドキしている胸を押さえて、は慌てて振り返った。びっくりしたのと恥ずかしいのとで顔を真っ赤にしているが、斎藤はいつものつまらなそうな無表情で見下ろしている。の妄想癖は以前から気付いているし、今のところ実害は無いからどうでもいいと思っているのだろう。
真っ赤になっているのをからかったら面白い反応をしそうだと思ったが、それをするといつまでも本題に入れそうにないので、つまらなそうな無表情を装ったまま口を開いた。
「そのつもりだったが、今日済ませなくても良い仕事だったからな」
以前はほぼ毎日のように遅くまで残業をしていた斎藤だったが、早く帰れる日は一緒に夕食を食べようと約束してからは、出来るだけ残業はしないようにしている。早く帰ればが夕食を作ってくれるからというのもあるが、彼女と一緒に食べたいから早く帰ろうと思うのだ。何気無い世間話でもが喋ると面白いし、それを聞きながら食べる食事は、どうということのない料理でもとても美味しいと思う。
漸く顔の赤味が引いて落ち着きを取り戻すと、はねだるような一寸甘えた声で提案する。
「ねえ、斎藤さん。今日はお鍋にしませんか?」
この時間に斎藤が帰るということは、今日はと夕御飯を食べるということだ。今日は寒いし、丁度二人で鍋をしているところを妄想している最中だったし、今日は鍋日和なのかもしれない。
まだ給料日前だからあんまり贅沢なものは入れられないけれど、野菜は斎藤の家に少し残っていたし、あとは鳥肉か魚を買えば良いだろう。二人で買い物をしているところを想像したら、仕事帰りの共働きの夫婦みたいだと、またまた妄想が暴走してしまった。
二人で具材を選んでいるところを想像して口許を緩めてしまうを横目で見て、斎藤は呆れたようにそっと溜息をついた。自分が隣にいるのだから妄想する必要は無いと思うのだが、それでもまだ妄想するネタがあるというのがある意味驚きだ。もしかしたらは、泳ぐのを止めたら死んでしまうサメやマグロのように、妄想を止めたら死んでしまう生き物なのかもしれない。
「そうだな………」
応える斎藤の口から白い息が漏れたのを見て、は本当に冬が来たのだと改めて思った。そういえば、斎藤が白い息を吐くのを見るのは、初めてのことだ。
が斎藤の下に就いてから一年以上経つのだから冬は二度目のはずなのに、彼の白い息を見るのは初めてだ。最初の冬は配属された直後で、まだ斎藤のことが恐くてまともに見ることが出来なかったのだろう。あの頃は斎藤が少し動くだけでも、いつもびくびくしていた。
斎藤が恐くなくなったのはいつからだっただろう、とはふと思った。配属された時は、警官とは思えない悪人面な上に無口で無愛想な彼が恐くて、出勤するのさえ苦痛を感じていたのに。いつからこんな風に、斎藤とずっと一緒にいたいと思うようになったのだろう。
「お前、手袋持ってないのか?」
手に息を吐きかけながら並んで歩くを見下ろして、斎藤が尋ねた。この寒いのに素手でいるものだから、指先が赤くなって痛々しい。
けれど、は全く気にしていない様子で、
「持ってますよ。まだ出してないですけど」
「ふーん………」
鼻を鳴らしながら、斎藤は自分がしていた防寒用の皮手袋を外した。そしてそれをの前に差し出す。
「ほら、手袋しているだけでも全然違うだろう」
去年の冬から一緒にいるから、が寒がりなのは斎藤もよく知っている。冷え性なのか、特に指先が冷えるらしく、去年の冬もストーブを焚いた部屋なのに頻りに手を擦り合わせているのをよく見ていたのだ。
斎藤の手袋は男物だから、には勿論大きすぎるだろうが、それでもしていないよりはマシだろう。斎藤は若い頃に京都と斗南の冬を過ごして寒さには慣れているから、手袋が無くてもどうということは無い。
手袋を差し出されてはびっくりしたような顔をしたが、すぐに嬉しそうにきゅうっと微笑む。頬を赤くして子供のように顔をくしゃくしゃにして笑うのを見るのが、斎藤は好きだ。自分がこういう風に笑えないから、余計にそう思うのだろう。そうやって笑うと子供のようなの顔は益々子供のようになって、つい頭を撫でてやりたくなる。
嬉しそうに手を伸ばしかけたが、ははっとしたようにその手を止める。そして、一寸困ったように、
「でも、斎藤さんは………?」
「俺は別に構わん。若い頃にずっと北の方にいたから、寒いのには慣れてる。そんな真っ赤な手をしていたら、見てるこっちが痛くなる」
「でも………」
「じゃあ、片手だけでもしたら違うだろう。ほら」
まだ遠慮するに、斎藤は殆ど押し付けるように右の手袋を握らせた。そして左の手袋を自分の手に嵌める。
は戸惑ったように渡された手袋をじっと見ていたが、これ以上遠慮するとかえって失礼だと思ったのか、消え入るような小さな声で礼を言って手袋を嵌めた。
案の定、斎藤の手袋はの手には大きすぎて、指先が一関節分くらい余っている。けれど彼の体温がまだ残っている手袋はとても暖かい。もしかしたら斎藤と手を繋いだらこんな感じなのだろうかと想像してしまって、胸がどきどきしてきた。
手袋をした右手で裸の左手を包むように握る。こうすれば風が当たらないし、手袋をしている斎藤と手を握っているような気分にもなれて、一石二鳥だ。
嬉しそうに胸の前に両手を組んでいるを見て、斎藤も何だか胸の奥がくすぐったくなってきた。の笑顔というのは、忘れかけていた初々しい感情を呼び覚ます効用があるらしい。もう中年に差しかかろうとしている男と初々しさなんて気色悪い組み合わせだと自分でも思うが、たまにはこういうのも悪くないとも思う。
初々しいついでに、一寸気恥ずかしいけれど手を繋いでみようかと思う。辺りは暗くなり始めているし、人通りも無い。それに手袋をしていない方の手は寒いままなのだから、手を繋いだら少しは温かくなるはずだ。手を繋ぎたいから手を繋ぐというのは恥ずかしいが、暖を取るために手を繋ぐと思えば少しは恥ずかしくないかもしれない。
「左手が寒いだろう。ほら」
できるだけぶっきらぼうな風を装って、斎藤は右手を差し出す。が、は出された手の意味がよく解らないのか、きょとんとして小首を傾げた。そんな顔をされると、斎藤は急に自分のやっていることが恥ずかしくなってきた。
「手を繋いだら、少しは温かいだろうが。お前が嫌なら別に良いが」
「へ………?」
恥ずかしいのを紛らわすように思わず苛立った声を出した斎藤に、は益々きょとんとした顔をした。が、言われたことを理解するとみるみる顔が赤くなって、耳まで赤くなる。
手を繋ごうなどと言われるなんて、夢にも思わなかった。斎藤と手を繋いで歩くのは何度も妄想していたけれど、現実に手を繋ごうと言われるなんて。妄想が現実になったのが嬉しくて嬉しくて、興奮してしまって目まで潤んできた。それを見られるのが恥ずかしくて、は慌てて下を向く。周りが薄暗くなっていて、本当に良かった。
心臓が破裂しそうなほどバクバクして、油断をすると呼吸まで荒くなりそうだ。動揺を悟られないように細心の注意を払いながら、はそっと斎藤の手に自分の手を伸ばした。
手と手が触れ合うと同時に、斎藤の手がの手を優しく包む。その感触がくすぐったくて、は思わず肩を震わせてしまった。
何か喋らなくてはと思うのだが、緊張で上擦った声しかでなさそうな気がして、は何も言えない。それよりも手が汗をかいてベタベタしていないだろうかとか、凄く緊張しているのが伝わってしまわないだろうかとか、そんな心配で頭が一杯だ。手を繋ぐくらいでこんなにも緊張していることが斎藤に伝わったら、恥ずかしい。
黙って俯いていを見て、斎藤は息を漏らすように小さく笑う。彼の手の中での手はどんどん温かくなってきて、まるで懐炉みたいだ。二十歳を超えたいい大人のくせに手を繋ぐだけでこんな反応をするなんて、何だか可愛らしい。
「お前、体温高いな。懐炉みたいだぞ」
からかうように言ってやると、は益々恥ずかしそうに身を小さくする。手も益々温かくなって、これなら手袋いらずだなと思いながら、斎藤は小さく笑った。
ぐはぁっっ!! 書いてて滅茶苦茶恥ずかしいです。手を繋ぐだけの話なのに、どうしてこんなに恥ずかしいのやら。
兎部下さんシリーズは他人行儀シリーズと並んで糖度高めなドリームなんですが、兎部下さんの方が書いてて恥ずかしいです。何でかな? 純情路線一直線の斎藤が恥ずかしいのか? どんなもんだよ、こんな35歳。兎部下さんにかかると、大人の余裕でリードするというより、同じレベルでモジモジ君………。
とりあえずお手々ニギニギはクリアです。でも次にお手々ニギニギするのはいつかなあ………。こんなんだから、主人公さんの妄想は止まらないんですよ。つか、そういうプレイなのか、斎藤?(←それは多分違うから)