夕立
「夕立がきそうだ」縁側に座って空を見上げていた蒼紫が、独り言のように呟いた。
さっきまで目が痛くなるほどの陽射しだったのに、いつの間にやらどんよりと厚い雲に覆われ始めている。こうなったら降り始めるのは早い。
「一雨降ったら、少しは涼しくなるでしょうね」
菓子と茶を盆に載せて、が厨房から出てきた。そして蒼紫の隣に座って、
「最近雨が降らなくて庭木も元気が無かったから、丁度良いですわ。どうぞ」
「ありがとうございます」
わらび餅と茶を前に出されて、蒼紫は軽く頭を下げた。
墓参りの時に知り合って二月近く経つし、蒼紫もこの家に何度も遊びに来ているのだが、まだ二人の間からは硬さが抜けない。もう少し馴染みたいと思っているのは互いに伝わり合っているのだが、二人ともそのきっかけを掴みかねているのだ。
「しかし、早めに帰らないといけないようですね。降りだしたら帰れなくなる」
困ったような顔をして、蒼紫は再び空に目をやった。
「傘くらい、お貸ししますよ」
菓子を出したばかりだというのに、もう帰る話だなんて。「雨が降ったら暫くいさせて下さい」くらい言えばいいのに、とはもどかしく思うが、それは顔には出さずに穏やかに微笑んで答えた。
二人が会えるのは休みが同じ日だけだから、今度会うのは多分一週間後か十日後。だから蒼紫が家に来てくれる日は、出来るだけ長く一緒にいたいとは思っているのだ。それに、蒼紫が好きだというから、わらび餅までちゃんと用意したのに。
とはいえ、「雨が止むまで此処にいればいいでしょう」などと積極的に引き留めるのはどうかと、も思う。家に遊びに来るけれど二人はまだ手も握ったことも無い間柄で、そのくせそんなに積極的に引き留めたら、恋人面して図々しいと思われるかもしれない。
「しかし、土砂降りになりそうですし………」
そうしょっちゅう会えないのだから、できる限り此処にいたいのは蒼紫も同じだ。しかし、かといって、夕立が過ぎるまで此処に居座るというのは図々しすぎるだろうと思う。家に遊びに行く仲ではあるけれど、未だ手を握ったことも無い間柄で、それなのにまだ来てもいない夕立が過ぎるまでいさせてくれと頼むのは、にも迷惑な話だろう。家に上げただけで恋人面するなと思われるかもしれない。
それなら恋人面できるような行動を起こせばいいのだが、それも蒼紫には出来ない。やり方を知らないというわけではないのだが、何というかきっかけが掴めないのだ。下手に行動を起こして嫌われたくないという臆病な気持ちもあるのだろう。10代の少年少女ではあるまいし、と自分でも思うのだが、を目の前にするとそうなってしまうのだから仕方が無い。
こんな風に何も出来ないまま無為に時間を過ごしていたら、そのうちに呆れられて他の男に関心を移されるかもしれない。そう思うと居ても立ってもいられなくなるくせに、それでも何も出来ない自分の不甲斐なさに、蒼紫は内心溜息をついた。
「それなら、せめてお菓子を食べていってください。折角用意したのですから」
蒼紫の内心の葛藤に気付いていないは、引き留める口実にとりあえずわらび餅を勧めてみた。
菓子は好きではないけれどこれだけは好きだと蒼紫が言ったから、用意したのだ。黒蜜が好きと以前言っていたから、それも多めにかけてある。
まだ何も無い関係だけど、自分が以前言っていたことをこうやって憶えていてくれたということは、蒼紫には嬉しい。とても小さなことだけど、そんな小さなことを憶えているくらい自分のことを気にかけてくれているということが嬉しい。
「そうですね。いただきます」
目だけで微笑んで、蒼紫は皿を手に取った。
蒼紫は殆ど表情を変えないが、嬉しそうなのはにも判った。出会った頃はあまりにも表情を変えない人だから、自分と一緒にいても楽しくないのだろうかと心配していたものだが、どうやらそうではないらしいということに最近気付いた。喜怒哀楽の表現が乏しいだけで、よく観察すれば意外と表情の動きがあることも。一緒にいる時はずっと蒼紫の観察をしているから、も彼の表情の動きを読めるようになったし、蒼紫も以前に比べれば少しだけ表情が豊かになったと思う。
そういうところは歩み寄れているのに、肝心なところは全く歩み寄れる様子が無いのが、には不思議で堪らない。多分、蒼紫は並外れて真面目な人なのだろう。何の約束も無いのにそんなことをするのは良くないと思っているのかもしれない。そのくせ、の家には休みの度に遊びに来るのだから、よく分からないのだが。
もしかしたら、こちらからきっかけを作ってやらなければいけないのだろうかと、は最近になって思うようになってきた。蒼紫のような人は一つきっかけを掴めば、あとは簡単に先に勧めるような気がする。
とはいえ、の方から動くような真似をすると、軽い女と思われるのではないかという心配もある。こういう人は女が積極的になると引いてしまう可能性があるし、何より、軽い女だとか男慣れしている女だと思われたくはない。
無言でわらび餅を食べながら、お互いにどうしたものかと考える。このまま手をこまねいていたら、半年過ぎても一年過ぎても何も無いまま過ぎてしまいそうだ。お互い、もう14、5歳の子供ではないのだから、それなりの関係にはなりたいとは思っている。いやらしい意味ではなく、この歳ならそうなるのが自然だと思うのだ。
けれど良い案が思い浮かばなくて、二人とも小さく溜息をついた。
「どうしました?」
自分が突っ込まれる前に、蒼紫はに尋ねる。
「………え?」
自分が溜息をついたことに気付いていなかったらしく、はきょとんとした顔をして蒼紫を見た。そして、一寸考えるように首を傾げて、
「こうやっている間に夕立が来たら、四乃森さんを引き留めることが出来るのになあって」
冗談めかした口調だったが、蒼紫はドキッとしてしまった。に此処にいてくれと言われたら、夕立が来なくても此処にいたい。と同じように冗談めかしてそう言ったら、許してくれるだろうか。
緊張した面持ちで口を開きかけた時、が小さく笑って言った。
「冗談です」
「ああ………」
やっぱりそうかと、蒼紫は小さく声を上げた。がっかりしたような声音になってしまったのではないかと気になってを盗み見たが、彼女は相変わらず小さく微笑んでいる。
その後の言葉が続かなくて、蒼紫は誤魔化すようにから視線を逸らした。も気まずくなってしまったのか、黙って俯いてしまう。
即座に否定したのがいけなかっただろうかと、は後悔した。でも、いつもは表情を変えない蒼紫があんなに驚いたように目を瞠るから、冗談にしないと引っ込みが付かないような気がしたのだ。そうしないと、自分が軽い女だと思われてしまいそうだったから。簡単に男を誘うような女だと思われるのは、絶対に嫌だった。
だけど、こうでもしなければ蒼紫は食べ終わったら帰ってしまいそうだったし、冗談めかして言えば居やすいんじゃないかと思ったのだ。結果は、蒼紫をびっくりさせてしまっただけだったけれど。
無言の蒼紫の横顔を、はそっと盗み見た。蒼紫はむっつりとして何か考え込んでいるようで、もしかしてからかわれたと思って怒ってしまったのだろうか。
謝ろうかと思ったが、謝ったらからかったことを認めてしまうみたいで、それも出来ない。何か気の訊いたことを言わなくてはとが必死に考えていると、蒼紫の方が口を開いた。
「雨が降らなくても、さんが引き留めてくれるなら、此処にいますよ」
「…………え?」
一瞬、何を言われたのかよく判らなくて、はきょとんとした顔をしてしまった。言われたことをゆっくりと反芻して理解すると、今度はみるみる頬が紅くなる。
そんなこと言って、さっきの自分みたいにすぐに「冗談です」と言われたらどうしようと思ったが、一呼吸おいた後も蒼紫は何も言わない。何も言わずに、の言葉を待つようにじっと顔を見ている。
そうやって蒼紫にじっと見詰められるのは初めてのことで、は恥ずかしくなって俯いてしまった。その反応が初々しい少女のようで、蒼紫はつい息を漏らすように笑ってしまう。
そんな蒼紫の笑いに、はますます恥ずかしそうに顔を紅くした。その笑い方がからかうような感じではなく、今まで聞いたことの無いような柔らかなものだったから。そんな笑い方も出来るのかと驚くと同時に、胸の奥をくすぐられるような妙な感覚を覚えて、は顔を上げられない。
耳まで紅くして、蒼紫の視線から逃れるように顔を背けるの様子が可愛らしくて、蒼紫は一寸意地悪をしてみたくなった。
「さん」
囁くように呼びかけながら、蒼紫はの頬を包み込むように片手を当てて、無理やり自分の方を向かせる。
「やっ………」
は抵抗するように小さく身を引いたが、あえなく蒼紫の方に顔を向けさせられてしまった。恥ずかしいのか緊張しているのか、その頬は熱でもあるかのように紅潮して、目も潤んでいる。
潤んだ瞳が何とも艶かしくて蒼紫は一瞬ドキッとしたが、それを悟られないように柔らかく微笑んで尋ねた。
「夕立が過ぎるまで、此処にいても良いですか?」
駄目なわけがない。夕立が過ぎるまでどころか、ずっとこうやって隣に座っていたい。そう答えたいけれど、蒼紫の微笑みに心臓がバクバクして、口を開いたら飛び出してしまいそうで、は何も言えない。
蒼紫がこんな風に微笑むことが出来るなんて、知らなかった。いつも無表情で、よく見ないと嬉しいのか怒っているのかも分からないような人だけど、こんな風に微笑むことも出来るのかと、は未だに信じられない気持ちで蒼紫の顔を見詰める。
信じられないことだけど、でもこの表情をずっと独り占めにしたい。こうやって隣に座って、この人がいつもこんな微笑を見せてくれたら、どんなに幸せだろう。隣にいる人が笑っているだけでこんなに幸せな気分になるというのも、最後にそう思ったのはいつだっただろうか。
胸がはちきれそうなほどの幸福感で声も出せなくて、は紅い顔のまま小さく頷いた。
『他人行儀な蒼紫と主人公さん』シリーズ第二回“甘い一時”の没ネタリサイクルです。本当はキスもさせずに頬に触れるだけで終わらせるつもりだったのですが、当時はそれでは話に締りが無いような気がして、なし崩しにキスをさせてしまったのです。お陰で、キスとお手々ニギニギが逆になっちゃって、おかしなことになったわけですが。
実はこれ、元ネタがありまして。『万葉集』に収録されている相聞歌の“雷神(なるかみ)の 少し響(とよ)みて さし曇り 雨も降らぬか 君を留めむ”と返歌の“雷神の 少し響みて 降らずとも 我は留まらむ 妹(いも)し留めば”が元ネタです。主人公さんと蒼紫の台詞が意訳になっています(あくまでも意訳ですよ)。
この相聞歌のように、まだ初々しい恋人同士の雰囲気が伝われば、このドリームは成功なのですが………。