月見

 今日は十五夜。今夜は斎藤と月見をする約束をしていたのだが、は独りで縁側に座っている。というのも、急な出張が入って斎藤は現在北関東だか東北だかに行っているのだ。詳しい場所はにも教えられていないが(極秘の仕事なのだそうだ)、とにかく北にいるというのだけは確かだ。
 今頃、斎藤は何をしているだろう、と月を見上げては考える。今頃、こうやって月を見上げているのだろうか。それとも、まだ仕事の最中で月見どころではないのだろうか。がこうやって月を見ているように、斎藤も月を見上げていれば良いと思う。隣で月見をすることは出来なかったけれど、せめて同じ時に同じ月を見ていたい。
 今日には帰れると斎藤が言っていたから、は友達からの誘いも全部断って、ススキと団子を用意していたのだが、全部無駄になってしまったようだ。一人でもせめて気分だけでも盛り上げようと飾り付けをしてみたのだが、やっぱり一人で月を見ても面白くない。今更友人を誘いに行ったところで、この時間ではもう誰もの家には来てくれないだろう。こんなことだったら、夕方の時点で誰かの家に遊びに行っていれば良かったと、は後悔した。
「もうっ。斎藤さんの嘘つき!」
 腹立ち紛れに、拳骨で太腿を叩いてみる。
 斎藤だって、その時は今日帰れると思っていたのだろうし、出張が思いの外延びて一番困っているのは彼だというのも解っているけれど、でもやっぱり腹が立ってしまう。斎藤と二人きりで過ごすために、友人の誘いを全部断ってしまったのだから尚更だ。
 本当だったら今頃、斎藤と差し向かいで酒を飲んでいただろうと思うと、は悲しくなってくる。七夕の時もそうだったけれど、こういう季節の行事を一緒に過ごすと、何となく親密度が上がるものなのだ。それでドサクサ紛れに関係が進展することもあるかもしれないのだし。
「斎藤さん、今頃どうしているのかなあ………」
 しょんぼりと溜息をついて、は独りごちた。
 斎藤が今何処にいるのか、どんな仕事をしているのか、は全く知らない。密偵の仕事というのは―――――特に斎藤が担当する仕事は危険なものが多いようだから、怪我なんかしていなければ良いなあと思う。いつだったかの時は、脚に大怪我をして帰って来た時があったのだ。あの時もどんな仕事をしていたのか遂に教えてもらえなかったが、またあんな大怪我をするような仕事をしていたらどうしようと、は出張の度に不安なのだ。
 今日帰って来れなかったのは仕方が無いけれど、せめて無事に帰って来て欲しいとは祈るような思いで月を見詰める。斎藤が危ない目に遭っていたり怪我をしているところを想像するだけで、胸が締め付けられるように痛くなる。どんな仕事をしているのか、何処にいるのかも判らないのだから、余計に不安なのだ。
 想像するとどんどん悪い方に考えてしまうから、今頃風呂に入って窓から見える月を眺めているかもしれない、と思い直す。その時に、との約束を思い出してくれるだろうか。ちらっとでもに対して悪いと思ってくれているなら、それだけでもう許せるとは思う。けれど斎藤のことだから、「仕事だから仕方ないだろうが」と言われそうだが。まあ、そっちの方が斎藤らしいと、は思い直す。
「………まあ、いいけどね」
 拗ねたように呟くと、は団子を一つ口に放り込んだ。
 団子は歯ごたえも丁度良くて、なかなか良く出来ている。今年は餡子を入れてみたけれど、斎藤に合わせて甘さ控え目の漉し餡にしたせいで、幾つでも食べられそうだ。明日になったら表面が硬くなってしまうだろうから、無理にでも今日中に食べてしまわなければ。
 自分の団子を自画自賛しながら食べていると、誰かが玄関の戸を叩く音がした。こんな時間にの家を訪れる人間なんかいないし、友人だって今更月見に誘いには来ないだろう。そもそも女の独り暮らしの家にこんな夜遅くの訪問なんて、常識ではありえない。
 相手も名乗らないし、もしも押し込み強盗なんかだったりしたら大変なので居留守を決め込もうかと思ったが、何故かその時に限っては玄関に向かってしまった。もしかしたら斎藤が来てくれたのかもしれないと、心の何処かで一寸期待したのかもしれない。こんな時間に斎藤が帰ってくるわけがないし、帰って来たとしてもこんな時間にの家に来るわけがないのに。
「どなたですか?」
 ドキドキしながら戸に耳をそっと玄関の戸に顔を寄せると、は緊張を押し殺した声で尋ねる。それに応えた声は―――――
「俺だ、早く開けろ」
「斎藤さんっ?!」
 その声は、慣れ親しんだ面白くなさそうな斎藤の声。斎藤の言葉が終わらないうちに、は鍵を開けるのももどかしげに玄関を開けた。
 そこに立っていたのは、出張の手荷物を持ったままの制服姿の斎藤だった。どうやら家にも帰らずに、東京に着いたその足での家に来たらしい。
 此処に来てもらえただけでも嬉しいのに、東京に着いて真っ直ぐ来てくれたというのが、には涙が出るほど嬉しかった。嬉しくて嬉しくて、この気持ちを伝えたくて思わず斎藤に抱きつきそうになってしまったが、流石にそれは恋人でもないのに図々しいと思い直して、どうにか堪える。
 言葉も出せずに紅い顔で目を潤ませて見上げるとは対照的に、斎藤は相変わらず面白くなさそうな無表情で言った。
「さっき東京に着いたんだ。遅くなって悪かったな」
「うぅん。来てくれただけで嬉しいです。上がって下さい。すぐに何か作りますから。お腹空いたでしょ?」
 東京に着いた足で来たのだと斎藤の口から改めて聞かされて、もう死ぬほど嬉しくて、はつい斎藤の腕を掴んで中に引っ張った。斎藤からに触れることは何度かあったが、の方から斎藤に触れるのは初めてのことだ。
 が、斎藤はの手を優しく払う。そしていつもよりも幾分柔らかい声で、
「いや、今日は遅いからこのまま帰る。今日は顔を見に来ただけだ。それと、土産も渡したかったしな」
 土産など明日渡せば済むものなのだが、勿論これは口実だ。と月見をする約束を破った後ろめたさを解消させたかったというのもあったが、それよりも土産を見たの喜ぶ顔を早く見たかったのだ。子供のような屈託のないの笑顔を見れば、仕事の疲れも吹っ飛ぶような気がした。
 は一瞬残念そうな顔をしたが、“土産”という言葉にぱっと表情を明るくする。予想通りの反応に、斎藤も気を良くしたように口の端を軽く吊り上げた。
「まあ、何処にでもあるようなものだがな。極秘の任務だったから、土地の名物は買えん」
「ありがとうございます」
 小さな紙袋を渡されて、は弾むような声で礼を言った。本当は土産なんかよりも、一緒に月見をしてくれた方が何倍も嬉しかったのだが、疲れて帰ってきた斎藤にそんなことは言えない。大変な仕事をしてきた帰りにの家に寄ってくれただけでも、本当ならありえないことなのだから、これ以上望んではいけないと自分に言い聞かせる。
 袋を開けると、中から出てきたのは桃色の縮緬ちりめんで作られた兎の置物。掌に乗るくらいの、とても愛らしい兎だ。こんな愛らしいものを斎藤が買ってきたというのも信じられないが、それよりもこれを選んでいる斎藤の姿は、想像力豊かなでも想像を絶する。
 この兎と斎藤の組み合わせはとても可笑しくて、これを会計場に持って行く彼の姿を想像しては笑いそうになってしまったが、笑うと失礼だからどうにか我慢する。
「可愛い! 斎藤さんが選んでくれたんですか?」
「たまたま汽車の時間に余裕があったから、駅の売店にあったのを買っただけだ」
 怒ったように言う斎藤の目の縁は紅く染まっていて、その口調もどうやら照れ隠しらしい。斎藤は動揺すると、いつもこうやって目の縁が紅くなるのだ。
 こんな物が駅の売店に売ってないことくらい、汽車に乗ったことの無いだって知っている。汽車の時間に余裕があったのは本当かもしれないが、何処かの小間物屋に足を運んで買ったに違いないだろう。けれどそれを言うと斎藤が不機嫌になるのは解っているから、はそのことには全く気付いていない振りをした。斎藤はのために何か一手間かけた時は、そのことをひた隠しにしようとするのだ。一度それをが見破って、斎藤が本気で怒ったことがあった。
 どうして斎藤がそんなことをひた隠しにして、それを見破られると本気で怒るのか、には皆目見当がつかない。のために何かをしてやったのだと言ってくれた方が、もっと素直に大喜びできるのに、といつも思う。本当のことを言ったら、が気を遣うと思っているのだろうかと想像してみるが、書類の処理を手伝ってもらったりする時はやたらと恩着せがましく言ったりするのだから、訳が分からない。
 兎を見詰めて首を傾げて考えているの様子に、斎藤は少し怪訝な顔をしたが、またしょうもないことを考えているのだろうと勝手に解釈した。どこにでも売ってあるような兎の置物でも大喜びしてくれたのだから、斎藤にとってはそれで満足だ。
「じゃあ、また明日な」
 表面上はにこりともせずそう言うと、斎藤はの返事も待たずに踵を返した。本当は一緒に月見を出来なかった分、少し世間話をして帰ろうかと思っていたのだが、流石に出張帰りの身では辛い。歳は取っても体力は衰えていないと思っていたが、こういうところはやはり歳を感じさせて、斎藤は心の中で苦笑した。
 本当に土産を渡すだけで帰られてしまって、は名残惜しそうなのと同時に一寸つまらなそうな顔をしたが、引き留めることはしない。本人は隠しているつもりだったかもしれないけれど、斎藤が疲れているのは解っていたから、これ以上自分に付き合わせてはいけないと思ったのだ。
「おやすみなさい!」
 遠ざかっていく斎藤の後ろ姿に明るい声でそう言うと、も家に入って玄関の鍵を閉めた。
 結局今夜は一人で月見をすることになってしまったけれど、でもさっきまでのような寂しさはもう無い。斎藤が東京に着いて一番のの家に来てくれて、しかもわざわざ土産まで買ってきてくれたのだから、もう月見なんてどうでも良くなったのだろう。一つ嫌なことがあっても、それに勝る嬉しいことが一つあれば、そのことでの中は一杯になってしまうのだ。
 嬉しくて嬉しくて、笑いがこみ上げてくるのが堪えきれなくて、は胸の前できゅっと兎を握り締めると、頬を染めて小さく「へへっ」と笑ってしまうのだった。
<あとがき>
 斎藤の出番は少ないけれど、一応斎藤ドリームです。そういえば今年は月見なんてしてないですねぇ。つか、団子を供えてススキも飾ってちゃんとお月見している方って、いらっしゃいます? いつかはそんなちゃんとしたお月見をしたいんですけどねぇ。
 しかし、斎藤の家に押しかけた後は、自分の家に招待するなんて、着々と関係を進めていってますなあ、主人公さん。斎藤も縮緬兎なんか手土産に持ってきて、何だか良い感じだし。
 此処まで接近しているんだから、ちゃっちゃとくっ付けよ、と思ってらっしゃる方も多いと思いますが、この微妙な距離感が私的にはツボなので、このままダラダラとキスもさせずに一年くらいやっていきたいなあと思ってます。うちのサイトの斎藤も蒼紫も、基本的にえらく晩生なのが売りなんで(それ、売りなのか?)。
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