月見
ついこの間まで寝苦しい夜が続いていたのに、彼岸を過ぎたら急に寒くなった。“暑さ寒さも彼岸まで”とはよく言ったものである。寒くなったせいか、今年の新酒の出来が良かったせいか、は晩酌をする日が増えた。特に蒼紫がやって来た夜はいつも飲んでいる。
蒼紫は下戸だと以前言っていたが、それは人より酔いの回りが早いというだけで、全く飲めないというわけではないらしい。ただ、酔うと一寸困った酒癖が出てしまうのだが。
その夜もいつものように、縁側で月を見ながら二人で酒を飲んでいた。が働いている小間物屋の主人から御裾分けで貰った新酒は水のように癖が無くて、下戸の蒼紫でもすいすい飲めるらしい。気が付けば銚子を一本空けていて、彼にしては珍しいことだ。
けれどやはり下戸だから、銚子一本でも完全に酔いが回っているらしい。顔色は殆ど変わっていないが、にこにこして妙に上機嫌なのがその証拠だ。そろそろ例の酒癖が出る頃だな、とはそれとなく蒼紫との間に距離を置き始める。
酔って暴れるとかに暴力を振るうということは無いのだが、蒼紫には一寸困った酒癖がある。否、正確には“外で出されるには困った酒癖”か。家の中でなら少しも困ることではないのだが、此処で酒癖が出たら困る。
とはいえ、あからさまに距離を取ると蒼紫が機嫌を損ねるのは必至なので、は文鳥の籠を取り込む振りをして部屋の中に入ろうとする。
「ちぃちゃーん、そろそろお家に入りましょうねぇ」
鳥籠に風呂敷を被せて家の中に入ってしまえば、蒼紫の酒癖が出ようと別に構わない。というか、むしろ大歓迎だ。
が、四つん這いで鳥籠を取ろうとするの肩をがっちりと掴むと、蒼紫は普段からは考えられない強い力で自分の方に引き寄せた。は小さく悲鳴を上げたが、そんなものは聞こえないように自分の膝に座らせて、逃げられないようにしっかりと抱き締める。
それでも逃げようと、は蒼紫の膝の上でじたばたと暴れる。が、そうやって抵抗するのも可笑しそうに笑う蒼紫の声を聞いていたら何だか馬鹿馬鹿しくなってきて、は小さく溜息をついて身を任せるように寄りかかった。
身を預けながらも膨れっ面のが可笑しいのか、蒼紫は後ろから顔を覗き込んでくすくすと笑う。笑いながら結い上げられた髪を解いて、指先で丁寧に梳き始めた。どうやら完全に酔っ払っているらしい。
蒼紫は酔っ払うと、いつもこうやってを抱き締めたり、べたべたしたがるのだ。もともとに触れるのは好きなようだが、酔うとそれが更に顕著になる。膝に乗せて愛玩動物にするように体を撫でたり、人形みたいに髪を梳いたり、とにかく異常にに触りたがるのだ。いつぞやは頬擦りまでされて、それには流石に閉口した。
勿論だって、蒼紫にそうやって触られるのは嫌ではない。どちらかというとそうされると嬉しいと思うのだが、でも場所を弁えずにやられるのは困るのだ。こんな庭先でやられて、もし近所の誰かに覗かれたりしたら、どうするのか。ただでさえ最近、明らかに家族ではない男が出入りしていると、近所で噂になっているのだ。
おまけに二人の様子を見て文鳥が嫉妬しているのか、籠の中を飛び回りながらちぃちぃ騒いでいる。こんな夜遅くに文鳥が騒いで、不審に思った隣人が塀から覗いたらと思うと、は気が気ではない。
「ねえ、誰か覗いたら………」
「こんな時間に覗く奴なんていないさ。それに………覗かれても別に俺は構わないし」
不安げなの言葉を軽く笑い飛ばして、蒼紫は頬に口付けながら囁く。今夜は相当酔っ払っているらしい。少し冷えるからと熱燗にしたのが悪かったか。
蒼紫が構わなくても、は構うのである。ただでさえ女の独り暮らしというのは周りの興味をそそるらしいのに、こんなところを見られたらどうなることか分かったものではないのだ。
「ねえ、少し寒くなってきた。中に入らない?」
普通に言っても無駄らしいと悟って、は大袈裟に身を震わせて言った。本当は全然寒くなんかないけれど、こう言えば蒼紫も中に入らざるを得ないはずだ。どんなに酔っ払っても、蒼紫はの身体を気遣うことは忘れないのだから。
が、の目論見はあっさりと外れて、蒼紫は彼女を包み込むように更に身体を密着させる。
「こうすれば寒くないだろう?」
「中に入った方が、風が無い分マシだわ」
「中に入ったら、折角の名月が勿体無いじゃないか」
口を尖らせて反論するに、蒼紫は愚図る子供をあやすような甘い声で囁く。そうしながら指先にの髪をくるくると巻きつけたり、そうかと思えば丁寧に手櫛で梳いたりする。猿の毛繕いのようにの髪で遊ぶのが、酔った蒼紫には面白いらしい。確かにの髪は絹糸のような手触りだし、酔って火照った指先にはひんやりとした感触が心地良いのだろう。
そうやって髪の毛を弄られながら囁かれると、も一瞬そうかなあ、と納得してしまいそうになるが、よく考えてみたら蒼紫は碌に月を見ていない。さっきからの顔を覗き込んだり、髪の毛で遊んだり、月なんかそっちのけなのだ。
それに気付いて、は一寸意地悪な口調で突っ込んでみる。
「それなら私の髪で遊んでいないで、お月様を見たら?」
「西洋では、月をあまり見ていると狂気を引き起こすというからね。そんなに見るものじゃない」
さっきは「折角の名月が勿体無い」と言っていたくせに、言っていることが滅茶苦茶だ。酔っ払いにまともな答えを求めるのが間違っていた、とは小さく溜息をついた。
呆れて溜息をついているのを、観念した溜息と解釈したらしく、蒼紫は楽しそうに喉の奥で笑う。笑いながら、もう一度の頬に口付けると、きゅうっと強く抱き締める。
「それに、月を見るより、月に照らされているの顔を見ている方がずっと良い」
甘く囁かれて、は不覚にも耳まで真っ赤にしてしまった。酔っ払いの戯言だと思ってみても、そういわれるのは凄く恥ずかしくて、でも嬉しい。
体中が熱くなって、その熱が蒼紫にも伝わったのか、の背後から楽しそうに笑う声が聞こえた。
「ほら、暖かくなった」
顔を紅くして俯いているの顔を覗き込んで、蒼紫は可笑しそうに言った。
お題は“月見”なのに、全然月なんか見てないやん、この二人………。っていうか、バカップルもここに極まれりですね(笑)。
原作では蒼紫は下戸だと自分で言っていますが、あの手の男は本当は絶対いけるクチだと見た。ただ、酔っ払ったら常日頃から鬱屈しているものが大爆発するということが自分でも解っているから、下戸って言っているんだと思うんですよ。酒に呑まれる自分が怖いんですね。
ああいう真面目そうな他人に限って、酔っ払ったらやたら触ってきたりとかするんですよね。どうでも良い奴とかそれ以下の奴だったらぶん殴ってやりたくなりますが、それが大好きな人だったら「もぉ〜♥」ってなもんですよ。主人公さん、全然本気で抵抗してないし。こうなるのを期待しながら蒼紫に飲ませてるのかも(笑)。