野分
「こりゃあ泊り込みだな」ガタガタと揺れる窓を見ながら、斎藤がうんざりしたように呟いた。
昼から酷い風が吹いていたけれど、夕方からこれに横殴りの雨が加わり、本格的な台風になってしまった。今日は残業をせずに明るいうちに帰ろうとがしつこいくらい言っていたのは、どうやら正しかったらしい。これではもう、外にも出られない。
「確か、非常食の乾パンが備品室にありますよ。取ってきましょうか?」
それまで斎藤の隣で黙って外を眺めていたが、明るい声で提案した。だって家に帰れなくて困っているのだか、だからってくらい声を出しても仕方ない。
職員食堂はとうの昔に閉まってしまったし、購買の職員も帰ってしまった。外に買出しに行くのはこの様子では不可能だし、そもそも店が開いているわけがないのだから、そうなると非常食で飢えをしのぐしかないということになる。
今夜は乾パンか、と自分で提案しておきながら、はそっと溜息をついてしまった。以前、話のネタになるからと少し食べさせてもらったことがあるのだが、乾パンと言うのは味も素っ気もない食べ物だった。本当に非常食という感じで、飢えをしのぐ以外の何ものでもない。それに飲み物は水しかないのだから、本当に何かの修行みたいだ。こんなことになるんだったら、斎藤を置いて自分だけでも帰るんだった、とは今更ながら後悔した。
斎藤も乾パンは食べたことがあるから、同じように思っているらしい。心底嫌そうに顔を顰めた。
「あんなもん、人間の食べ物じゃないだろう」
どんな時でも食べ物には文句を言わない彼であるが、乾パンだけは駄目のようだ。というか、乾パンを食べ物として認めていないようだ。その意見に対しては、も異存はない。異存は無いのだが、そもそも夕食が乾パンという羽目になったのは、斎藤のせいである。
けれどそんなことは仮にも上司相手には言えなくて、は不機嫌そうに黙り込む。その横で当の斎藤は更に不機嫌な顔をしていたが、ふと思いついたように言った。
「そうだ。宿直の奴らの夜食を分けてもらうわけにはいかんのか?」
「それが………今日は本庁の宿直は無いそうなんですよ。近年稀に見る大型台風で、みんな帰しちゃったらしいです。隣の留置場は宿直はいるんですけど」
「ってことは、本庁に残っているのは俺とお前だけか?!」
今更のように、斎藤は驚いた声を上げた。昼間、総務の人間が早く帰るように言って廻っていたはずなのに、どうやら斎藤はこの事実を知らなかったらしい。
は呆れたように小さく溜息をつくと、
「そうですよ。だから食べるものは乾パンと水しかないんです。こうなるから早く帰ろうって言ったのに………」
「うわ……最悪………」
の言葉に、この世の終わりのような声を出して、斎藤はそのまま頭を抱え込んでしまった。いつも何があっても顔色一つ変えない彼が、此処まで落ち込むというのは珍しいことだ。余程乾パンが嫌いなのだろう。
乾パンが嫌なのは、も同じである。斎藤と二人きりという状況は嬉しいけれど、でも折角の二人きりの食事が乾パンというのは勘弁してもらいたい。そもそも状況を読まずに斎藤が残業すると言うからこんな事になったわけで、頭を抱えたいのはこっちだとは密かに溜息をついた。
けれど、いつまでもそうやって頭を抱えて溜息をついたところで、状況は変わらない。広い本庁で斎藤と二人きりなんてそうそうあることではないのだから、この状況をもっと楽しまなくては。朝まで二人きりなんて、一寸ドキドキするじゃないか。
そう思ったら、は楽しくなってきた。水と乾パンだけというだけの夕食というのも、まるでどこか山奥で遭難したみたいな気分だ。山奥で遭難した男女がそのまま熱い夜を過ごすなんて、流行小説でもよくある設定で、もしかしたらそんなことになってしまうかも………と思ったらドキドキしてきた。
両手で紅くなった頬を覆っているを、斎藤は心底呆れた目でちらりと見下ろす。読心術の心得は無くても、この妄想癖を持つ部下が何を想像しているのかは、大体見当がついている。こんな状況でも妄想の世界に入れるというのは、ある意味大したものだ。
「妙な妄想してないで、食料を調達に行くぞ」
からかうような口調のその言葉に、はびっくりしたように顔を真っ赤にした。全身を大袈裟なくらいにビクッと震わせて、まるで隠れていたのを見つけられた兎みたいだ。
そんなの様子が可笑しくて、斎藤は思わず顔を背けて口許を覆ってしまった。そして笑いをおさめると、いつもの面白く無さそうな無表情を作って、
「電気が通っているうちに行かんと、もしかしたら停電するかもしれんぞ」
「えー、停電するんですかぁ?」
停電なんかしたら、ますます山奥で遭難した人みたいな状況になってしまう。小説のような展開になるのはも吝かではないけれど、まだ心の準備というものができていない。大体、今日の下着は一寸古いものだし………。
もう止まらない妄想列車に乗り込んでしまっているに、斎藤はもう一度呆れたように溜息をつくと、無言で部屋を出て行く。もうかける言葉も無いといったところだったのだろう。
「あ、待って下さいよぉ!」
バタン、と扉が閉められた音に漸くはっとして、は慌てて斎藤の後を追った。
備品部屋の電灯を点けると早速二人で乾パンの入った段ボール箱を探す。壁の両側にある棚に詰め込まれている箱には中身の表示は全く無くて、この中から探すのは一苦労のようだ。
「無いですねぇ………」
「ロウソク、一応持って行っておくか。停電になったらいけない」
「あと、毛布も貰っていきましょうよ。朝晩は冷えるし」
人がいないのを良いことに、好き勝手に箱を漁っている。普段は此処に入ることは殆ど無くて、何があるのか二人とも全く知らなかったが、案外色々なものを備蓄しているらしい。災害用品も充実している。
こうやって二人で備品を漁っていると、宝探しをしているようで楽しくなってくる。箱を開ける度に色々なものが発見できて、空腹も忘れてしまいそうだ。
そういえば子供の頃は台風がくると訳も無くわくわくしたなあ、とは箱を漁りながら思う。いつもと違う凄いことが起こっているということが、子供心に楽しかったのだろう。
大人になってからは台風が来るなんて鬱陶しいだけだったけれど、今回は違う。広い本庁で斎藤と二人きりで、多分何も無いだろうけれど、でも何が起こっても変じゃないこの状況は、胸がドキドキする。今までの台風の中で、一番ドキドキしている。
斎藤はどうだろうかと、そっと盗み見てみる。が、彼はいつもと同じ無表情で箱の中身を漁っていた。斎藤にはと二人きりという状況よりも、箱の中身の方が大事らしい。自分ばっかりドキドキして、は何だか損した気分になった。
一寸気を抜くとそのまま止まらない妄想列車に乗ってしまいそうな自分を戒めながら、再びはごぞごぞと箱を漁り続ける。ありもしない“熱い一夜”なんかよりも、乾パンの方が切羽詰った問題なのだ。
「おい、あったぞ」
暫くごそごそしていると、斎藤が乾パンの袋と水が入った瓶を発見した。戦利品を高々と掲げてに見せたその瞬間―――――
バチン、と何かが弾けるような音がして、部屋が真っ暗になった。暴風に耐え切れずに、外の電線が切れてしまったらしい。
「えっ?! 何っ?! 斎藤さんっっ!!」
突然のことに、は情けない声を上げてしまった。電線が切れて停電しただけのことだとは頭では解っているのだが、それでも真っ暗というのはどうしようもなく怖い。暗闇が怖いというのは、動物の本能なのだろう。
手を伸ばしても何も触れないし、だんだん平衡感覚まで怪しくなってきて身体がふらふらしてくる。それがますますの不安を煽って、何か掴まるものを求めて手を振り回した。
と、その手が突然暖かくて大きなものに包まれる。あっと思う間も無く、そのまま強く引っ張られた。
「こっちだ」
斎藤の声と同時に、の額にこつんと小さくて硬いものが当たる。それが斎藤の制服のボタンであることに気付くのに、一瞬の間があった。
びっくりして声も出せないうちに手を離され、の頭上でシュッとマッチをする音がした。ロウソクに火が点されて、ふわりと周りが明るくなる。
ロウソクの柔らかな灯りに照らされて、いつもと違う雰囲気には更にドキドキしてしまう。おまけにこんなに接近するというのも夕立の日以来で、それにも心臓が破裂してしまいそうだ。
外は台風で、広い庁内で二人きりで、おまけに停電していて灯りはロウソクしかないなんて状況設定は、本当に小説みたいだ。小説だったらこの場合、絶対二人は“熱い夜”を過ごすと相場は決まっている。今日はお気に入りの下着じゃないのに、そんなことになったらどうしよう。
が、の妄想とは裏腹に、斎藤は冷静な声で周りを見回しながら言う。
「今夜のところは復旧は無理だから、朝が来るまで此処にいた方が良いな。下手に動いて怪我をしたらシャレにならん。幸い水も食料も毛布もあるしな」
「………一晩、此処で過ごすんですか?」
ドキドキしながら、は上目遣いで斎藤を見る。そんなに、斎藤は鼻先で冷ややかに笑って、
「こんな所でお前に手を出すほど飢えてないから安心しろ」
「う………」
今日いきなりそんなことになったら、心の準備もしてないし、下着だって“その時”のために買ってある桜色の長襦袢じゃないし、としては非常に困ったことになっていたから、まあ安心はした。だけど、そんな言い方をされたら、だって立場が無いというものだ。
いきなり求められても困るけど、でもそんな風に釘を刺されるのも情けない気がして、は下を向いてぷぅっと膨れる。
そんな子供みたいな反応が可愛らしくて、斎藤は小さく笑いながらの頭に手を置くと、機嫌を取るように優しい声で言った。
「そういうことは、こんなドサクサに紛れてやるよりも、ちゃんと手順を踏んでからやった方が良いだろ? お前にも都合ってものがあるだろうしな」
「それは………」
斎藤の言葉に、の顔がだんだん紅くなっていく。斎藤の言葉をそのまま鵜呑みにすると、ちゃんと手順を踏んだらそういうことをするということで、つまり彼はのことをちゃんと女としてみてくれているということなのだ。ということは、そのうち上司と部下という以上の関係になることも視野に入れているということで―――――
今後のことを想像して耳まで真っ赤にするを見て、斎藤は喉の奥で低く笑った。もう二十歳を過ぎた大人なのに、まるで15、6の小娘のような反応を見せるが可愛らしくて、思わず抱き締めたくなるのを押さえるのが一苦労だ。もしあと10歳若かったら、きっと衝動のままに抱き締めていただろう。
一度、雷を怖がるを落ち着かせるために抱き寄せたことがあったけれど、あの時も小動物のように小さく震えていた。何でもないあの時でさえそうだったのだから、斎藤に何かされるかもと警戒している今抱き締めたら、きっと悲鳴を上げて逃げ出してしまうだろう。初心な女というのは可愛いけれど、あまり初心なのも困りものだと斎藤は苦笑した。
「………この分だと、まだまだ先だな」
桜色に染まっているのうなじを見下ろして、斎藤は小さく呟いた。
主人公さん、いつもよりも妄想大暴走です(笑)。きっと、今で言うならハーレクィンロマンスを読んでうっとりするタイプの人なんだろうなあ、この人。つか、たかだか台風なのに、「遭難した男女みたい」なんて、想像がぶっ飛びすぎ。
台風の日というのは、子供の頃は“非常事態”って感じでドキドキしながらテレビの台風情報を見ていたものですが、大人になると本当に鬱陶しいだけですね。台風の最中でも出勤しなきゃいけないし。台風の最中でも買い物に来る人が結構いるんです。暴風雨の最中でも、突然財布とかバッグとか欲しくなるんでしょうか? 謎。
それにしても主人公さん、いつの間に勝負下着なんか買ってたんですか? いつか使う日が来るのか? つか、斎藤、多分そんな気合の入った下着なんか絶対見ないと思うんだが。彼にとってはそんなものより“中身”の方が重要なんで(笑)。