夏終わる

 いつの間にか、聞こえてくるセミの鳴き声が変わっていることに気付いた。ツクツクボウシの声が聞こえるということは、夏も終わりということだ。
 今年の夏は色々なことがあったなあ、とは改めて思う。蒼紫と出会ってから、二人で色々な所に行った。二人で縁日に行って花火見物もしたし、念願の鴨川での食事もした。芝居小屋や見世物小屋にも連れて行ってもらって、数ヶ月の間にこんなにいろんなところに行ったのは多分、明治に入ってからは初めてのことだ。
 蒼紫と出会うまでは、の時間は許婚が死んでしまったあの日から止まっていたも同然だった。仕事先である小間物屋と家との往復で、どこかに行くとすれば“あの人”の墓参りくらいなもので、何も無い静かな毎日を送っていた。こういう風に四季の移り変わりに気を止めることも無く、花火を見ることも川床料理を食べることも思いつきもしなかった。蒼紫と出会わなければ、今年の夏も何もしないまま終わっていたことだろう。こうやってセミの声の変化に気付けるようになったのも、蒼紫のお陰かもしれない。
「どうしました?」
 いつの間にか洗濯物を畳む手を止めてぼんやりしていたに、蒼紫が声を掛けた。
 二人の仕事が休みの日の前日は、蒼紫はこうやって夕方からの家にいるのだ。家族でもない男がこの家で寝泊りするようになったのも、この夏からだ。許婚が死んでから、の傍に男の気配がある日が来るなど想像もできなかったのに。本当に今年の夏は沢山の変化がありすぎたと、は改めて思う。
 セミの声がする方を見詰めて、は穏やかに微笑んで応える。
「セミの声が………。もう夏も終わりなんだなあって」
「ああ、ツクツクボウシですね」
 納得したように呟くと、蒼紫はの隣に座った。
「言われてみれば朝夕も過ごしやすくなったし、もうそんな時期ですか………。早いものだ」
 感慨深げに蒼紫は呟いた。ついこの間知り合ったばかりのように感じるのに、もう一つの季節を過ごしてしまったのだ。二十歳を過ぎると時が過ぎるの早いというが、本当にあっという間だった。否、楽しい時間だったからこそ、過ぎるのが早く感じるのだろうか。
 蒼紫にしみじみと言われて、も改めて過ごした時間の長さに驚かされる。春の終わりに出会って、梅雨があって、もう夏も終わろうとしてるのだ。今まで止まっていた時間がこれまでの分を取り戻そうと一気に流れたような感じがする。
 許婚の“あの人”と一緒にいた時は、こうやって時の流れの速さに驚いたことはあっただろうかと考えてみるが、昔のこと過ぎてもう思い出せない。彼のことを思い出そうとすると、頭の中に靄がかかったようになって、あまり詳しく思い出せなくなってしまうのだ。それはきっと、時間の流れのせいだけではない。
 “あの人”のことをよく思い出せなくなってしまったのは、きっと隣にいるこの人のせいだ、とは蒼紫をちらりと見る。死んでしまった“あの人”との思い出だけしか見ずに寡婦のように生きてきたに、人生をもっと楽しまなくてはいけないと教えてくれたのが蒼紫だった。“あの人”を忘れて自分だけ幸せになってはいけないと自分を抑えてきたけれど、蒼紫に出会ってからはそんな必要は無いのだ思えるようになった。そう思えるようになったら、の中での許婚の影は少しずつ薄らいできて、こうやって思い出そうとしても靄がかかったようになってしまったのだ。
 きっとそのうち、“あの人”のことを忘れてしまう日が来るだろう。“あの人”の顔や存在は一生忘れないけれど、もう完全に遠くに行ってしまった人になるというか、の中にある“あの人”の視線を全く感じなくなる日が来ると思う。その時がきっと、本当にが蒼紫のものになる時だ。
「どうしました?」
 の顔を見て、蒼紫が怪訝そうに尋ねた。ちらっと見ていたつもりが、いつの間にかじっと見詰めていたのだ。
「いえ、別に………」
 気まずそうに、は慌てて視線を逸らす。許婚のことを思い出していたとは言えなくて、はそのまま口を噤んで膝の上の洗濯物に視線を落とした。
 もう遠い昔のことなのに、今は蒼紫がの一番なのに、それでもまだ死んでしまった男のことを引き摺っていると思われるのは嫌だった。それに、蒼紫が隣にいるのに他の男のことを考えるというのは、彼に対してとても失礼なことだと思う。それを口にしたら、きっと蒼紫はとても嫌な気持ちになるだろう。だって、蒼紫の昔の恋人の話をされたら、一寸嫌な気分になる。
 だから代わりに、違う話題を振ってみた。
「セミはあんなに一日中必死に鳴いていて、疲れないのでしょうか?」
 言ってしまってから、なんて馬鹿なことを言ってしまったのだろうと、は後悔した。こんなこと、小さな子供が尋ねるなら可愛いけれど、いい歳をした大人が尋ねるのは、一寸足りない人みたいだ。なんて馬鹿な女なのだろうと思われてしまったらどうしよう。
 案の定、蒼紫はきょとんとした顔をした。いつもは落ち着いた大人の顔をしているがこんな子供じみた質問をするということに驚いたらしい。操がこんな質問をしても驚きはしないが、の口から出るのは新鮮だ。
 少しの間、その表情のまま固まっていた蒼紫だったが、今度は腕を組んで真剣に考え込んでしまった。冗談で言っているのか真面目に質問しているのか、迷っているらしい。冗談だったら気の利いた返答をしなければならないし、本気だったらちゃんと答えなくてはいけないのだ。
 暫くそうやって考え込んで、蒼紫はゆっくりと口を開いた。
「まあ、セミは鳴くのが仕事ですからねぇ………。疲れるかもしれませんが、7日間しか生きられないといいますし、その間につがう相手を見つけなければならないのですから、疲れたなんて言ってはいられないでしょう」
 笑われると思っていたのに真剣に返されて、今度はがどうして良いか解らなくなってしまった。けれど何も言わないのは、折角答えてくれた蒼紫に対して失礼だし、かといって話題を変えてしまうのはもっと失礼だ。
 本当はセミのことなどどうでも良いのだが、自分が振った手前、責任持って終わらせなくては。どうやってオチを付けようかと考えながら、は言った。
「7日間しか生きられないなんて、可哀想」
「土の中では7年ほど生きているらしいですけどね」
「へーえ………」
 土の中で7年も生きることも、地上では7日間しか生きられないことも、には初耳だった。蒼紫は御飯の炊き方や洗濯板の使い方など、生活に必要なことは知らないことが多いのに、こんなどうでも良いことはよく知っている。そういうことを教えられる度には感心するけれど、でも何となく可笑しい。
 7年間も土の中にいて、それで外の世界を自由に飛びまわれるのは7日間だけなんて、そんな一生は楽しいのだろうかとは思う。一日中必死に鳴いて、番う相手を見つけて卵を産んで終わりなんて、何一つ楽しいことがなさそうな一生だ。
「セミに生まれなくてよかったぁ。そんな一生じゃ、楽しい思いなんてできなさそうだもの」
「セミもセミなりに、きっと楽しい事はありますよ。番う相手が見付かれば嬉しいでしょうし」
 しみじみと言うの言葉に、蒼紫は苦笑して言った。
「でも、死ぬまで一緒にいられるとしても、きっと2、3日ですよ? 相手に先に死なれたら、セミだってきっと悲しいわ」
 そう言いながら、は許婚とのことを思い出して目を伏せた。
 が許婚と一緒にいたのは、大体3年間くらいだった。縁談が纏まったのが、が11歳、“あの人”は15歳になったばかりだったはずだ。当時は子供同士だったから好いた惚れたの感情は全く無くて、家同士の繋がりだけが優先された縁組だったけれど、いつも遊んでくれる許婚のことは兄のように慕っていた。手を繋いで歩くだけで、夫婦になる約束をした男女らしいことは何一つすることも無く終わってしまった関係だったけれど、それでも“あの人”が死んでしまった時は身が引き裂かれるほど悲しかった。
 セミも、番う相手が突然死んでしまったら悲しいと思うのだろうか、と考えてみる。虫でも感情はあるだろうから、少しは悲しいと思うのかもしれない。けれど人間と違って、すぐに相手の後を追うことができるから、悲しいと思う間も無いかもしれない。そう思えば、セミの一生はそれほど悪いものではないと思えてくる。好きな人がいない世界で生きていくというのは、寂しくて辛いものなのだから。
 目を伏せて黙り込んでしまったを蒼紫も無言で見詰めていたが、悲しげな表情が痛々しくて、言葉も無く彼女を強く引き寄せると背中から抱き締めた。こうでもしないとがどこか遠くへ行ってしまいそうで不安だったのだ。
「あっ………」
 突然抱き締められて、は驚いたように小さな悲鳴を上げたが、大人しく蒼紫の腕の中に納まっている。けれど身体が急速に熱くなっていくのと、心拍数が上がっていくのが着物の上からも感じられて、その反応が愛しくて蒼紫はを抱き締める腕に力を込めた。
 許婚のことを考えていたことは、最初から知っていた。親同士が決めた相手だとは言っていたけれど、でも兄のようにも慕っていたと言っていたし、そうそう忘れられるものではないことも解っている。自分だけを見て欲しいけれど、死んでしまった男のことは忘れろとは言えなくて、蒼紫にできることといえば、こうやってを抱き締めてやることしか思いつかない。慣れた男だったらきっと、気の利いた言葉の一つも言ってやって慰めてやることも出来るのだろうが、残念ながら蒼紫にはそんな器用なことは出来ない。
 気の利いた台詞は言ってやれない自分が情けなくはあるけれど、でもその代わりにこの約束だけは絶対に破らない。
「俺は、あなたより先に死にませんから。絶対にあなたの前からいなくなりませんから」
 大切な人を亡くした痛みは、蒼紫だって知っている。蒼紫は部下で、は許婚だから痛みの種類は違うかもしれないけれど、でもどれくらい辛いかは解るつもりだ。解っているから、もう二度とにはそんな思いはさせたくない。一日でも良いからより長生きをして、彼女を独りにしないことが、蒼紫が死んだ男に確実に勝てるたった一つのことだ。
 蒼紫の言葉に、は嬉しくて目を潤ませてしまった。この世に“絶対”なんて無いけれど、今この瞬間は本気でそう思ってくれていることが嬉しい。それよりも嬉しいのは、が許婚のことを考えていたと知りながら、一言も責めもせず、それどころか何も知らない振りをしてくれていることだ。幾百の陳腐な慰めの言葉よりも、その沈黙が嬉しい。
 この人と出会えて本当に良かった、とは改めて思った。“あの人”の墓の前で初めて出会ったのも、もしかしたら彼が蒼紫と引き合わせてくれたのではないかとさえ思えてくる。ずっと独りで死んだように生きていたのために、“あの人”が連れてきてくれたのかもしれない。
「四乃森さん………」
 自分を抱き締めてくれる腕をきゅっと握って、溢れそうな涙をせき止めるように、はそっと目蓋を閉じた。
<あとがき>
 夏の終わりの夕方というのは、一寸せつない空気の匂いがするように感じるのでしょうが、どうでしょう? というわけで、何だかんだ言いながら楽しそうな斎藤編とは打って変わって、一寸せつない蒼紫編です。
 『他人行儀な蒼紫と主人公さん』シリーズは本編でもWeb拍手でもダラダラと続いていて、この二人でこんなに話がかけるとは私自身も驚いています。意外と書きやすいんですよね、この二人。しかもこのシリーズの蒼紫は結構評判が良いですし。
 この話を書いていた当時、そういえばこの二人もワンシーズン過ごしちゃったんだなあ、と私自身が一寸しみじみしていました。リアルタイムでもワンシーズン続いているわけです、この連作短編。我ながら凄いな。そろそろ最終回を迎えさせてやりたいとは思っているのですが、書きやすい二人なのでこのままずるずると続けたいなあとも思っているのです。
 本編のラストは大体決まってきたので(今のシリーズは50のお題の中で終わらせるつもりなので)、本編は終わっても、もしかしたらこちらで思い出した頃にこっそり続いているかもしれないですけどね(笑)。
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