星の王女さま

 昔話でよくあるのは、正直で働き者の男のところにある日突然、若くて美しい女が「お嫁さんにしてください」とやって来る話だ。そんな甘い話があるものかと比古は思う。まあ、女は狐だったり鶴だったりするのだが、それにしたって正直で働き者なだけのつまらない男のところに美女がやって来ることがおかしい。男も少しは怪しむべきだろう。
 仮に美女がご褒美としてやって来るのが道理に適っているとして、それならばなぜ比古のところには美女の来訪が無いのか。正直で働き者なだけが取り柄のつまらない男ところに来るくらいなのだから、超絶天才で超絶美形の比古のところには束で来てもいいくらいではないか。
 人間の女と付き合うのは面倒が増えそうだが、狐だの鶴だのの化身であれば後腐れが無い。昔話によれば、適当なところで身を引いてくれるようだ。美女がふらりとやって来て、飽きた頃には勝手に出て行ってくれるなんて、男の夢である。
 まあ、そんなふざけた心がけであるから、美女がやって来ないのだろう。誠意というのが、何より大事なものであるらしい。比古には難しい芸当だ。
 そんなくだらないことを考えながら薪割りをしていると、足元に筒のようなものが転がってきた。
「………何だ?」
 筒のようなものを拾い上げ、比古は中を覗いてみる。
「望遠鏡………?」
「あ―――――っっ!!」
 比古の頭上から、絹を引き裂くような悲鳴が降ってきた。
「え………?」
 何と、女が空から降ってきたのだ。否、そんなことはあり得ないから、崖から足を滑らせたのだろう。
 何故女が一人でこんなところにいるのか、どういう経緯で崖から落ちたのか。不思議なことはいくつもあるが、今はそれどころではない。このままでは女の身体は地面に激突してしまう。
 比古は崖の下に飛び出すと、女の身体を受け止めた。
 女は衝撃に備えるように身を縮こまらせて、ぎゅっと目を瞑ったままだ。一意王、意識はあるようである。
「おい、大丈夫か?」
 比古の呼びかけに、女はゆっくりと目を開いた。
「………あれ?」
 何が起こったのか理解できていないのか、女はきょとんとした顔で周りを見る。そして比古と目が合った瞬間―――――
「ぎゃ―――――っ! いや―――――っ!」
 女はじたばたと暴れる。助けてやったというのに、まるで痴漢扱いだ。
「うわっ! ちょっ……こらっ!」
 下ろしてやろうにも、こう暴れられては落ち着いて下ろせない。宥めるのも無理なようであるし、比古は諦めて女を地面に落とした。
「ぎゃっ!」
 地面に叩きつけられて、女は潰された蛙のような悲鳴を上げた。そして比古を睨み上げて、
「何なの、あなた?!」
「そりゃあ、こっちの台詞だ。上から降ってきたが、どうやら天女様じゃないようだしなあ」
 比古も、女を頭から爪先まで無遠慮に見る。
 昔話のように、美女がやって来ればいいと思っていたけれど、残念ながら目の前の女はどう見ても十人並みといったところだ。当然、天界から足を滑らせた天女とは言い難い。夢の無い話である。
 比古は拾った望遠鏡を女に見せて、
「これ、お前の? こんなの使って、何を見るつもりだったんだ?」
「返して! それ、高いんだから!」
 よほど大事なものなのだろう。女は目の色を変えて望遠鏡を持つ比古の手に飛び掛った。が、比古は女の足を軽く払う。
「ぎゃっ!」
「足長ぇから引っ掛けちまった。っていうか、他に言うことあるだろ」
 転んだ女を見下ろして、比古は言う。
「返せ、泥棒!」
 見た目どころか、心根も可愛くない女である。それが命の恩人に言う台詞か。
 比古は舌打ちして、
「助けてくださってありがとうございます、だろ。ほら、言ってみろ。言わないと返さねぇぞ」
 女はじっと比古を睨みつける。けれどこのままでは望遠鏡を取り戻せないと観念したか、忌々しげに口を開いた。
「………助けてくださって……ありがとうございます」
 嫌々言っているのが丸分かりだが、まあいい。そういう態度をされると、ますます苛めたくなってしまう。
「で、これで何を見るつもりだったんだ? 答えないと返さねぇぞ」
「話が違うじゃない! 嘘つき!」
 眦を吊り上げて怒鳴る女の顔も面白い。これで暫く遊んでやろうかと、比古はにやにやした。





 女の名前はというらしい。あの望遠鏡は、星を見るのに使うのだそうだ。
「星を見るなら、町でもいいだろう。本当は、この超絶美形の風呂でも覗くつもりだったんじゃないのか?」
「びっくりするくらい自意識過剰な人ね。そんなもの見たくないわ」
 比古のからかいに、は憤慨する。冗談が通じない女だ。
 は続けて、
「余計な灯りの無い山の方が、星を見るのに適してるのよ。町では見えない星も見えるし」
「星を見るにしちゃ、時間が早くないか? まだ昼だぞ」
 の言うことが本当だとしても、昼間に星は見えない。望遠鏡を使っても無理だろう。
「今は下見よ。夜になったら足元も判らなくなるから、危ないところがないか見ていたの」
「それで足を滑らせて落ちたのか」
「もういいでしょ! 望遠鏡、返してよ!」
 は苛立たしげに手を出す。まだ望遠鏡は比古の手の中にあるのだ。
 聞きたいことは聞いたし、もう望遠鏡は返してもいいのだが、だらだらと返さずにいる。羽衣伝説ではないけれど、望遠鏡がこちら側にある限り、は出て行こうにも出て行けない。
 比古は望遠鏡を弄びながら、
「まあそう焦るなよ。丁度退屈していたところだ。付き合ってやるよ」
 わざわざ山に来て星を見るなんて、変な女だ。しかし、そんな労力を使ってまで見に来るのだから、望遠鏡で見る星空は面白いものなのかもしれない。
 はぎょっとして、
「何でよっ?!」
「面白いものを独り占めすんなよ。それに、夜道でまた足を踏み外したら困るだろ?」
「………あなたにとって面白いとは思えないけど………」
 は、比古が付いてくるのは嫌そうだ。そういう顔をされると、ますます面白いものを隠されているように思えてくる。
 が何と言っても、この望遠鏡を返さない限り、比古を連れて行くことになるだろう。どうやらの目的のものは、望遠鏡がないと見ることができないもののようなのだ。
 この望遠鏡で何が見えるのだろう。比古は今から夜が楽しみになってきた。





 夜の山道は、足元も見えないほどの暗闇に包まれている。今夜は新月らしく、月も出ていない。
「俺がいてよかったな。女一人でこの道は危ないだろ」
 望遠鏡で肩を叩きながら、比古は前を歩くに話しかける。
 こんな夜に出歩くなんて、山暮らしの長い比古ですらやらない。外に出ても行くところが無いということもあるが、何も見えない暗闇を一人で歩くのは、比古のような男でも危険だ。そんな山道を一人で歩こうと思うなんて、は肝が据わっているか大馬鹿者かのどちらかだろう。
 比古が話しかけても、は無言だ。どういうつもりなのか、表情が見えないから判らない。まあ、暗闇を怖がっていないことだけは、さっさと歩く姿を見れば確実だ。
 暗闇を全く恐れない女というのは珍しい。否、恐れる演技をしない女は珍しい、というのがより正確か。比古みたいないい男と一緒なのだから、普通なら怖がっているふりをして手を握ってきたり、抱きついたりするものだろう。にはそういう可愛らしさが微塵もない。
 それにしても、一言も口を利かないというのはおかしい。ひょっとして、実は怖すぎて話す余裕も無いのだろうか。
「なあ、怖いなら手くらい握ってやってもいいぞ」
 言いにくいならと比古が歩み寄ってやると、はきっと振り返った。
「怖がるくらいなら、最初からこんなところには来ません!」
 これ以上ないほど、はきっぱりと強く否定した。本当に可愛げのない女である。
 星を見るために山に登ったり、真っ暗な山道を怖がらなかったり、変な女なのだから、人並みの可愛げを求める比古が間違っていたのだろう。この超絶美形を前にして自分を可愛く見せようとしない女というのは、興味深い。
 そうこうしているうちに林を抜けて、頭上に満天の星空が広がった。
「へぇ………」
 空を見上げ、比古は感嘆の声を漏らす。真っ暗な林を抜けた後の目には、月の無い星空でさえ明るく感じた。
 月明かりが無いせいか、星がいつもより近くに見える。が見たかったのは、この星空だったのか。確かに此処なら、町の灯りに邪魔されて見えない星も見えそうだ。
「望遠鏡!」
 感心している比古に、が手を突き出す。
「あ……ああ………」
 肉眼でもこんなに見えるのに、まだ望遠鏡を使って何を見ようというのだろう。
 は比古の手から望遠鏡をひったくると、それを使って星空を眺める。何かを探しているようだ。
「何を探してるんだ?」
「天上の宝石」
 望遠鏡を覗き込んだまま、は答える。
 “天上の宝石”とは、詩人のようなことを言う。多分、の考えた言葉ではないのだろう。
 それにしても、望遠鏡を覗くの顔は楽しそうだ。超絶美形の比古と向かい合っている時よりも星を見る方が楽しそうだとは、変な女である。
「なあ、星なんか見て面白いのか?」
「だから、あなたには面白いものじゃないって言ったでしょ」
 木で鼻を括ったような答えというのはこうものだろうという答えだ。本当に可愛くない。
「あった!」
 突然、が嬉しそうに大きな声を上げた。“天上の宝石”とやらが見つかったのだろう。
「本当だ! 本に書いてあったのと同じだ! 凄い!」
 何だかよく分からないが、は一人で興奮している。そう興奮されると、よほど良いものが見えるように思えるから不思議だ。
「なあ、何が見えるんだ? 俺にも見せろよ」
 多分、比古が見ても面白くもないものだろう。けれど、こんなに興奮されると、ひょっとしたら凄いものが見えているのではないかと思ってしまう。
 断られるかと思いきや、は興奮冷めやらぬ様子で望遠鏡を比古に渡す。
「織姫と牽牛の間よ。あの辺り」
「………分かんねぇよ」
 は空を指差すけれど、星に詳しくない比古には何処を見ればいいのか分からない。織姫だの牽牛だの言うけれど、星なんてどれも同じではないか。の目には、それぞれに名札が付いて見えるのだろうか。
 はもう一度望遠鏡を覗いて、
「このまま覗いて。よく見えるから」
 この女にしては親切である。よほどその“天上の宝石”とやらは凄いものなのだろう。
 言われた通り、比古は腰を屈めて望遠鏡を覗き込む。の身長に合わせた高さだから、長身の比古には少々きつい。
「ほぉ………」
 円い窓から見えたのは金と青の光だ。まるで恋人同士のように寄り添っている。確かにこれは、黒い布に置かれた“天井の宝石”である。
 星なんてそんなに気にしたことはなかったけれど、望遠鏡を通すとこのように見えるものなのか。これは山に登ってみる価値があるのかもしれない。
「これは普通に見たら一つの星に見えるけど、望遠鏡で見たら二つの星が見えるの。二重星っていうんですって」
 そう説明するの声は弾んでいる。ずっと攻撃的だったから、こんな声を出すとは思わなかった。
 超絶美形と一緒にいることよりも、星について話す時の方が生き生きしているなんて、やっぱり変な女だ。こんなのでは、町では浮いた存在だろう。天女ではないけれど、町よりも空に近い場所で暮らすのが性に合っているのかもしれない。
「詳しいな。星の勉強でもしてるのか?」
 望遠鏡を覗いたまま、比古は尋ねる。
「勉強はしたいけど………。でも、あんまり星ばっかり見てると、変人だって思われるから………」
 急にの声が暗くなった。見ると、はしょんぼりとしている。
 まあ、年頃の女が望遠鏡で星ばかり覗いていれば、周りは心配もするだろう。超絶美形が目の前にいるというのに無関心というのも、無関係な比古でも心配だ。
 しかし、変人扱いされるからと好きなことを我慢するのも辛いだろう。星について話す時のは、とても楽しそうなのだ。
「好きなら勉強すりゃいいだろ。他人の目なんか気にすんな」
「でも………」
「人目が気になるなら、うちに来ればいい。山は星が見やすいなら、丁度いいだろ」
 変人の気持ちは、人間嫌いの比古にはよく解る。きっと、も無責任な世間の目とやらに煩わされているのだろう。可愛げのない女だが、それには同情する。
 は驚いたように比古を見た。
「いいの?」
「何かお前、おもしろいし。暇潰しに付き合ってやるよ」
 可愛げも無いし美女でもないが、はなかなか興味深い女だ。暇潰しの相手には丁度いい。
 はますます驚いた顔をした。が、すぐに嬉しそうに笑って、
「ありがとう。あなた、本当はいい人なのね」
「“本当は”はいらねぇだろ………」
 やっぱりこの女は可愛げが無い。しかしまあ、その辺の女よりは面白そうであるし、多少の変人ぶりには目を瞑ることにしよう。
 昔話では一人暮らしの男の許には美女がやってくるけれど、比古の許にはおかしな天女もどきがやって来た。どれくらいの付き合いになるか分からないけれど、せいぜい楽しませてもらいたいものだと、嬉しそうに笑うの横顔を見ながら比古は思った。
<あとがき>
 主人公さんが探していたのは、アルビレオという連星。「白鳥のくちばし」という意味の通り、白鳥座のくちばしに位置します。
 ところで、西洋の童話では王子様が美女を救いに行くパターンが多く、日本の昔話は美女が男の許にやってくるパターンが多いというのは、国民性なんですかねぇ。
戻る