ハートをあげる。ダイヤをちょうだい。

 欧州の婦人の間で、日本の簪が流行しているらしい。上海租界でも、簪を挿した白人女性の姿をよく見るようになった。
 白人女性の金髪や赤毛に日本の簪が挿されているのは、何とも奇妙なものである。やはり簪は、日本女性の黒髪に挿すのが合っている。
「こういう髪飾りって、あの人たちには新鮮なのよ。扇子も流行ってるんですって」
 雑誌を読みながら、が言う。
 は英語も仏語も読めないくせに、高い金を出して向こうの雑誌を買ってくるのだ。挿絵を見ていれば書いてあることは大体解ると言うけれど、縁には無駄遣いにしか思えない。
「ねぇ、縁ぃ」
 突然、が猫なで声を出した。こういう時は絶対、おねだりに決まっている。
「駄目だ」
 続きは聞かないという意思を前面に押し出して、縁はきっぱりと言い切る。
 どうせ、簪が欲しいだの、扇子を買ってくれだの言うのだろう。ついこの前も、羽飾りの付いた帽子が欲しいと言ったばかりだ。のおねだりを全部聞いていたら、破産してしまう。
 は縁と同じく、幕末のどさくさに紛れて大陸に渡った女である。日本を捨てて未知の国に渡ったくらいだから、日本での生活は碌でもないものだったのだろうと想像できる。だからも、昔のことは全く口にしない。
 そういう女だから、贅沢はしないと思って一緒に暮らすことにしたのだが、とんだ見込み違いだった。碌でもない子供時代の反動か、雑誌に載っている華やかなものをやたらと欲しがるのだ。
 最初のうちは縁も哀れに思って求められるままに買っていたのだが、そうやって甘やかしていたのが悪かった。今では、欲しいものを我慢できない幼児のような女になってしまった。
「まだ何も言ってないじゃない」
 はぷうっと膨れる。
「言われなくても分かる」
「分かってるなら、ね?」
 は拝むように両手を合わせて、可愛らしくお願いする。こうすれば縁が言うことを聞くと思っているのだろう。残念ながら、もうその手は食わない。
 縁がまだ女慣れしていない純情少年だった頃こそ引っかかっていたものの、何度も同じ手を使われていては流石に通用しない。もう少し頭を使ってもらいたいものだ。
「駄目だ」
「う〜………」
 可愛ぶっても駄目だと分かると、今度は上目遣いで睨み付けて、威嚇する犬のような唸り声を出した。こうなると、聞き分けのない子供と同じである。
 簪くらい、高いものではないのだから買ってもいいのだが、こうなってくると値段の問題ではない。も大人なのだから、我慢することも覚えさせなくては。
「そんな顔しても、駄目なものは駄目だ」
 縁はそう言うと、まだ唸るを置いて部屋を出て行った。





 縁の外出先にがついてくるのは少ないのだが、最近はやたらとついて行きたがるようになった。目的は帰りの寄り道だ。どうにかして租界の装飾品店に縁を連れ込もうとして、まだ簪を諦めていなかったらしい。
 どうせいつものようにすぐに飽きてしまうだろうと縁は思っていたから、意外だった。こんなに欲しがるなら買ってもいいような気にもなっているが、買ってやった途端に飽きてしまうのではないかとも思う。流行が終われば、あんなものはゴミと同じだ。
「絶対大事にするからぁ」
 鼻にかかった甘い声を出して、は縁の腕に絡みつく。まるで親に玩具をねだる子供だ。
 子供が親に纏わりつくのは可愛らしくも微笑ましい光景だが、は頭の中身はともかく図体は立派な大人の女なのだし、縁も大人の男だ。そんな二人が人目も憚らずベタベタしていたら、周りは注目する。此処は商売女が媚を売る夜の街ではなく、上流や中流の客を相手にする高級店なのだ。
「ベタベタするんじゃない」
 小声で鋭く言うと、縁はを振り払おうとする。が、は蛭のようにべったりと張り付いて、
「どうして? 縁だって家ではこんなもんじゃないでしょ?」
「人が聞いたら誤解するようなこと言うなっ」
 いつ縁がそんなにベタベタしたのか。たとえ家の中でもそんなに相手に纏わりつくなんて、ただの馬鹿ではないか。
「昨日の夜は放してくれなかったくせにぃ」
「全く記憶に無いが、他の男と間違えてるんじゃないか?」
 まともに相手をするのも馬鹿馬鹿しくなってきた。こういうくだらない出任せで縁の動揺を誘うのが、の目的なのだ。
 冷ややかな縁の反応に、は膨れて、
「ひどぉい! じゃあ、簪買ってくれたら、家に帰ってゆっくり思い出させてあげる」
「いらん」
「じゃあ、今此処で思い出させてあげようかしら?」
 くすくす笑いながらそう言うと、は縁の服の中に手を滑り込ませようとする。
「分かった! 分かったから、離れろ!」
 縁は慌てての手を引き剥がした。本気でないのは分かっているが、とんでもないことをする女だ。
 は縁から離れると、満足そうににんまりして、
「最初からそう言えばいいのよ」





 結局、簪を買わされてしまった。我ながら甘いと縁も思う。
 はというと、買ってもらった簪を見ながらずっとにやにやして上機嫌だ。買ったらすぐに髪に挿してみるかと思いきや、家に帰ってもそんな様子は無い。
「付けないのか?」
 簪を見るだけのに、縁は尋ねる。
「だって、自分で見られないじゃない」
 は当たり前のように言うけれど、簪とはそういうものではないだろうか。これでは何のために買ったのか分からない。
「見るだけでいいなら、簪でなくてもよかったんじゃないか」
「こういうの、ずっと欲しかったのよ」
「ずっと、ねぇ………」
 が簪を欲しいと言い出してから、一月も経っていない。にしては“ずっと”なのかもしれないが、一般的にはそうでもないと縁は思う。
 呆れている縁の声など耳に入っていないらしく、さやはうっとりと簪を見詰めたまま、
「上海でこういうのが手に入るようになるなんて思わなかったわ。もう諦めてたのに」
「………………」
 の“ずっと”は、日本にいた頃からの“ずっと”だったのか。それはそれで、随分と気の長い話だ。
 そういえばの買った簪は、いつも読んでいる雑誌に乗っているような派手な飾りのものではなく、トンボ玉のついた庶民的なものだ。子供だったが欲しかった簪なのだろう。
「それなら尚更、付けてみればいいのに」
「だって………」
 は困ったようにもじもじする。
「何だよ?」
「こういうの、似合うかな………」
「えー………」
 今更そんなことを言われるとは思わなかった。確かにがいつも好んで買う装飾品とは系統が違うけれど、似合うかどうかは自分で判断して買っていると思っていた。
 自分で似合わないと思っているものをわざわざ買うとは、縁には理解できない。あんなに駄々をこねていたくせに、一体何なのか。女心というのは分からない。
「その簪に似合うような髪形にしたらどうだ?」
 男にしろ女にしろ、髪形を変えるだけでも大きく印象が変わるものだ。大人しい簪に合うような大人しい髪型にすれば、にも似合うようになると思う。
「うーん………」
 縁の提案に、は難しい顔をして唸る。まだ悩むことがあるというのか。
「まだ考えることでもあるのか?」
「だって……縁、地味な女は嫌いでしょ?」
「………いつそんなこと言った?」
 の言葉に、縁はびっくりである。地味な女が嫌だなんて、一言も言った覚えは無い。まあ、もっさりとした女は流石に嫌だが、派手とか地味とかあまり考えたことがなかった。
 が、はまだごにょごにょと、
「だって、派手な女の人に囲まれて鼻の下伸ばしてるし………」
「誰の話だ?」
 言いがかりもいいところだ。縁は不機嫌になる。
 誓ってもいいが、縁は女に囲まれて鼻の下を伸ばしたことなんて無い。そんなことになってみたいけれど、そういう機会がありそうな時には必ずがべったりと張り付いていて、女が寄ってくる隙が無いのだ。どうやらには、記憶を自在に改竄する特技があるらしい。
 地味な女が嫌いなのは、むしろの方だろう。派手なものや豪華なものが大好きで、この国の人間のようだ。縁はどちらかというと、清楚な女の方がいい。たとえば、巴のような―――――
「ちょっと貸せ」
 縁は立ち上がると、の手から簪を取り上げた。それから、結い上げられたの髪を解き始める。
「何するのよ?!」
 は慌てて髪を押さえて怒鳴りつける。
「簪に合うような髪形を考えるんだろ」
 考えるといいながら、どうするか縁はもう決めている。
 と巴の顔は全く違うけれど、髪型を似せれば少しは似てくるのではないかと思う。今までの髪型や衣装に口出ししたことは無かったけれど、縁の好みは巴のような清楚な雰囲気なのだ。
「どういう風にするの?」
 縁に手櫛で髪を梳かせながら、は尋ねる。
「姉さんのような―――――」
「お姉さんなんていたの?」
 うっかり縁の口から出た言葉に、は驚いた声を上げた。
 そういえばには、縁の家族のことを話したことが無かった。話したところで、互いに楽しい話でもない。昔のことに触れないのは、二人の間では礼儀のようなものだった。
「………昔のことだ」
「ふーん………」
 はそのまま黙り込む。気にはなるようだが、“昔のこと”の一言の前には何も言えなくなるのだ。
「できたぞ。こっち向いてみろ」
 の髪に簪を挿して、縁は言う。
「どう?」
 は縁の方を振り返る。
「………………」
 やはりというか、同じ髪型にしてもと巴は違う。顔立ちも雰囲気も違うのだから当然だ。
 縁の微妙な表情を感じ取って、は眉間に微かに皺を寄せる。
「お姉さんと違って、残念だったわね。他人なんだから、似なくて当たり前じゃない」
「そういうわけじゃ………」
 流石にこれは縁が悪い。誰かと比べられて嬉しい人間がいるはずもない。
 縁が慌てて言い訳をしようとする前に、は簪を引き抜き、髪を解く。
「お姉さんみたいなのがいいなら、他を当たったら? その人にお姉さんの代わりになってもらいなさいよ!」
 は完全に臍を曲げている。縁の態度は思っていた以上にの怒りのツボを押してしまったらしい。
 考えてみれば、他の女を縁に寄せ付けないように始終立ち回っているような女である。たとえ血の繋がった姉であっても、縁の口から他の女の名前が出てくるのが気に入らないのだろう。
「俺は別に……姉さんのことは………。お前と姉さんは違ってて当たり前だから………」
 情けないことに、縁は言い訳を考えるので精一杯だ。子供っぽくて気分屋で嫉妬深くてどうしようもない女だが、縁にとっては巴と同じくらい大事な女なのだ。
 そのことを伝えたいのだが、にはもう、“姉さん”という単語しか耳に入っていないらしい。の眉間の皺はますます深くなる。
「姉さん姉さんって………。もういい!」
 叩きつけるように怒鳴ると、は部屋を出て行った。





 結局は、あれからずっと寝室に籠もったきり、夕食にも風呂にも出てこなかった。縁の呼びかけにも完全無視である。
 お陰で縁は客用の寝室で寝る羽目になってしまった。不用意な一言のせいで散々だ。縁も悪かったとは思うが、浮気をしたとかそういうわけではないのだから、もそこまで腹を立てることはないだろう。 朝になってもは寝室から出てくることがなく、昼になってしまった。いくらが意地を張っていても、そろそろ腹を空かせて我慢ができなくなる頃だろう。
、此処にメシ置いておくぞ」
 寝室の扉の前に昼食を置いて呼びかけるが、中から反応は無い。まだ腹を立てているのか、不貞寝をしているのか。
「食器は後で取りに来るから、ちゃんと食えよ」
 縁がそう言うと、寝室の扉が開いた。
「あ………」
 出てきたは、いつもの無駄に凝った髪型ではなく、すっきりとした纏め髪だった。それに、昨日買った簪を挿している。
 髪型だけでなく、化粧も変えたようだ。これまでの派手好きなとは別人のような、上品な雰囲気に出来上がっている。
「………何か、随分と変わったな」
 もっと気の利いたことを言うべきなのだろうが、びっくりしすぎて縁は言葉が思いつかない。
 いつもと間逆にして恥ずかしいのか、はぶっきらぼうに、
「簪に合う髪型を考えてたの。縁、派手じゃない方が好きみたいだし」
 寝室に閉じこもっていた間、すっと髪を弄っていたらしい。
 巴のことで臍を曲げても、縁の好みを研究するなんて、可愛い女だ。それが作戦だとしても、喜んで引っかかっておこうかと思う。
「派手でも派手じゃなくても、ならどっちでもいい」
 巴のような清楚な雰囲気が好みではあるけれど、これまでの装いに不満が無かったということは、どちらでもいいということなのだろう。と初めて出会った時も、清楚とは対極の姿だった。
 縁の言葉に、は頬を染める。そういう表情もいつもと違って見えて、縁はどきりとした。
<あとがき>
 ねだられたのはダイヤではないけれど(笑)。縁はこういう一寸扱いに困る女に引っかかるようなイメージです。最初に接した女である姉ちゃんが面倒くさい女だしな。
 主人公さんがイメチェンに成功したとして、姉さんと比べないのが今後の縁の課題です(笑)。
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