回り道

 十五で御頭になって以来、蒼紫はずっと“御頭”を演じ続けていたように思う。それ以外の生き方なんて想像もつかなかった。明治になった今でもそれは変わらない。
 普通の人生というのは、どういうものなのだろう。“普通”の定義もよく分からない。蒼紫にとっては、御庭番衆の中の狭い世界こそが“普通”なのだ。
「お寺と家の往復だけじゃなくて、たまには寄り道でもなさったらいかがですか? 楽しいことが見付かるかもしれませんよ」
 白尉にそう言われて、座禅の帰り道を変えてみた。道を帰れば新しい発見があって、“普通”というものが見付かるかもしれないと期待したのだ。
 明治の世になっても、京の町並みはあまり変わらない。東京は西洋化の煽りで道も建物も変わってしまったけれど、地方はそうでもないのかもしれない。
 と、大きな建物から若い女がぞろぞろと出てくるのが見えた。みんな男物の袴なぞ穿いて、髪形もお近やお増とは違う。近頃よく聞く西洋式の纏め髪というやつなのだろう。
「女子私塾か………」
 建物を見遣って、蒼紫は独りごちる。
 最近、女だけの私塾ができたという話を新聞で見た。作法や裁縫だけでなく、男と同じように学問も教えるのだという。そういうところに通う女は進歩的で、男のような格好をしていると聞く。
 確かに噂通り、女たちの格好はかなり進歩的だ。奇抜と言ってもいい。こういうのが団体で歩いているのを見ると、“普通”とはますます分からなくなってしまう。
 女たちの姿をぼんやりと眺めていると、向こうも蒼紫の方を見てくすくす笑いながら何やら囁き合い始めた。自分の姿が可笑しいのだろうかと確認してみたが、あの女たちほど奇抜な格好はしていないと思う。何がそんなに笑いを誘っているのか、蒼紫にはさっぱり分からない。
 自分の姿を見る蒼紫の様子が可笑しかったのか、女たちはまたくすくす笑う。人を見て笑うなど失礼極まりない。女子私塾というのは、学問は教えても礼儀は教えないものらしい。
「『葵屋』さん!」
 女たちの塊の中から、ハキハキとした声が飛んできた。同時に、一人の女が駆け寄ってくる。
「………………?」
 女はこちらのことを知っている様子だが、蒼紫にはとんと覚えが無い。不審な顔をしていると、女は笑いながら言った。
「『屋』ですよ。斜向かいの。一度品物をお届けに伺ったことがあるんですけど、覚えてないですか?」
「ああ………」
 そう言われたものの、蒼紫には全く覚えが無い。
 『葵屋』の斜向かいに『屋』という菓子屋があるのは知っている。が、こんな娘がいることまでは知らない。
「ひどぉい。覚えてないんですか?」
「いや、その………」
 突き刺さるような鋭い声で責められて、蒼紫は口籠もってしまう。『葵屋』に出入りしている相手をなると、迂闊なことは言えない。
 面倒なものに絡まれてしまったと思っていると、学友らしい女たちが駆け寄ってきた。面倒が増えたような予感がする。
 こういう嫌な予感に限ってよく当たるものだ。女たちはくすくす笑いながら『屋』の娘に口々に話しかける。
「まあ、さん、お知り合い?」
「私たちにも紹介していただけないかしら」
「何をなさっている方なの?」
 どうやら『屋』の娘は“”という名前らしい。
 それにしても若い女の声というのは、どうしてこう頭に響くような音なのか。団体になると、もう音の暴力だ。
 寄り道などするのではなかった。やはり蒼紫には、家と寺の往復生活が性に合っている。
 どうにかして失礼の無いように逃げなければと蒼紫が考えていると、突然が蒼紫の手を掴んだ。
「約束がありますの。ごめんなさいね〜!」
 走り出しながら、は学友たちに叫んだ。





 暫く走った後、は足を止めた。
 よく分からない女に引きずられて、蒼紫は訳が分からない。“普通”を求めて寄り道をしたはずなのに、妙なことになってしまった。
「あの―――――」
「びっくりさせちゃって、ごめんなさい」
 一体何事だったのかと尋ねようとすると同時に、が勢いよく頭を下げた。
「いや―――――」
「『葵屋』さんみたいな人ってなかなかいないから、みんな興味津々になっちゃって。悪気は無いんですよ、ほんとに」
「はぁ………」
 何と応えるべきか、よく分からない。蒼紫は間抜けな声を出した。
 知らない人間から見て、一目で珍しいと判るなんて、蒼紫はよほど普通ではないのだろう。そこまで見に染み付いているのなら、“普通”への道のりは遠い。
「珍しい、か………」
「あっ、ごめんなさい。『葵屋』さんみたいな男前の方って、なかなかいないから………」
 失礼なことを言ったと思ったか、は慌てて付け加える。
「男前………?」
 自分の姿が他人と比べてどうかとか、考えたことも無かった。しかし男前だとして、どうしてあの女たちは蒼紫を見て笑っていたのだろう。
「俺が男前だとして、どうしてあの人たちは笑っていたのだろう」
 蒼紫の問いかけに、はきょとんとした、が、すぐに噴き出して、、
「『葵屋』さんって、意外と面白い人」
「はぁ………」
 面白い人と言われるのも、蒼紫には初めての経験だ。知らない人間から見る蒼紫と、『葵屋』の者たちから見る蒼紫は、どうやら正反対のものらしい。
 しかしは奇抜な格好をしているような女だから、普通の感覚とは少し違うのかもしれない。そうなると、蒼紫は自分のことが分らなくなってきた。
 軽い気持ちで寄り道をして、自分の根幹が揺らぐことになろうとは思わなかった。いつもと違うことをすると碌なことにならないということか。
 これ以上追求しようとしたところで、ますます自分の根幹が揺らぐだけだろう。蒼紫は話を変えた。
「その“『葵屋』さん”というのは………。俺には四乃森蒼紫という名前がある」
「大旦那さんとは違う苗字なんですね。でも素敵な名前だと思います」
「それはどうも」
 素敵な名前だと言われても、蒼紫にはピンとこない。名前というのは個人を識別するための記号だ。良いも悪いもない。
 反応の鈍い蒼紫の様子など目に入っていないのか、は弾んだ声で楽しそうに言う。
「蒼紫さんとは一度お話してみたいと思ってたんです。一緒に帰りましょう」
「はぁ………」
 訳の分らないことばかりで何だか疲れてしまい、一人になって心を落ち着けたいところだが、こう笑顔全開で誘われると断りづらい。帰る方角が一緒なのに此処で別れるのも不自然だろう。
 はご近所様なのだし、翁も近所付き合いは大切だと言っていた。普通の生活をするなら、と親しくするのも大切だ。
 しかし何を話したらいいものか。女が好きそうな話題なんて、蒼紫には思いつかない。
 『葵屋』に着くまでどうやって間を持たせようかと、蒼紫は頭を悩ませた。





 の話によると、蒼紫が『葵屋』に定住することになって間もない頃に一度言葉を交わしているらしい。蒼紫が注文した茶菓子をが届けに行って、直接手渡したのだそうだ。残念ながら、蒼紫はその時のことを全く覚えていない。
 が楽しそうに話すせいで、覚えていない蒼紫がとんでもなく失礼なことをしているような気がする。こんな奇抜な格好をしている女なら、一度見たら忘れないと思うのだが。
「いつの間にか若旦那さんって人がいるようになったって聞いたから、どんな人かなって思ってたんです。でもあまり外に出られないから、こっちから見に行こうと思って」
「随分と積極的な人だ」
 進歩的な女というのは物怖じしないものらしい。その進歩的な女には、蒼紫はどう映ったのだろう。
 はくすくす笑って、
「だって、すごく男前だって評判だったから」
「それはそれは………」
 一体誰がそんな噂を流したのか。見ていないようで、人は見ているものである。
「ああいう噂は当てにならないものですけど、噂通りでびっくりしました。それに楽しい人だし」
「楽しいと言われるのは初めてだ」
 蒼紫は苦笑した。何だかこちらが恐縮するほどの褒めっぷりだ。
 どうやらは、蒼紫に好感を持っているようである。こういう女に好感を持たれるなんて意外だ。こういう女は、彼女と同じく進歩的な男が好きだと思っていた。
「蒼紫さんって、あの道をよく通るんですか?」
「いや、いつもは違う道を通る。今日はたまたま回り道をしただけだ」
「なーんだ。いつも通るなら、一緒に帰れると思ったのに」
 そう言いながら、の口調はそれほど残念そうではない。どちらかというと、これを機に蒼紫があの道を通ることを期待するような言い方だ。
 あの道を通るのは遠回りになる上に、女子私塾という難関がある。あの雰囲気はどうも苦手だ。
 しかし期待されているようなら、応えた方が良いのだろうか。近所付き合いというのは難しい。
「蒼紫さんって、いつもどんなところに行くんですか?」
 どうやらは蒼紫の私生活に興味があるらしい。興味を持たれるほど面白味のある生活をしているわけではないから、正直に話したら折角もらった“面白い人”という評価を取り消されそうだ。
 蒼紫は上手い答えを考えようとしたが、思い浮かばない。結局、正直に答えた。
「今は寺に座禅を組みに行くくらいしか………」
 つまらなそうな顔をするかと思ったら、は弾けるように笑い出した。
「やっぱり蒼紫さんって面白い人ですね」
「………………」
 こういう反応をされるとは思わなかった。やはりは普通とは少し違うらしい。
「私も一緒に行きたいなあ」
 一頻り笑った後、は遊びに行くような口ぶりで言う。
 自分と向き合うために座禅を組みに行っているというのに、のような騒々しい人間がいたら気が散ってしまう。上手く断らなくては。
「あなたのような人には退屈だと―――――」
「じゃあ私はここで。また一緒に帰りましょうね」
 いつの間にか『屋』の前に着いていた。遠回りしていたはずだが、思ったより早く着いたような気がする。今日は一人ではなく、連れがいたからかもしれない。
「あー………」
 ぱたぱたと手を振るにつられて、蒼紫も控えめに手を振る。
 何だか最初から最後まで、に振り回されたような気がする。元御庭番衆御頭ともあろう者が女学生なんかに振り回されるなんて、あり得ない。
「へ〜、女学生とお帰りだなんて、蒼紫様もやりますねぇ」
 突然、背後から黒尉の声がした。振り返ると、何を想像しているのか、にやにやしている。
「帰り道が一緒だっただけだ」
「手なんか振っちゃって、楽しそうだったじゃないですか」
「………………」
 具合の悪いところを見られたものである。女学生と一緒に帰ってきて、楽しそうにしていたなんて―――――
 黒尉には楽しそうに見えていたのだろうかと、蒼紫は考える。此処に来て“楽しそう”と言われたのは初めてのことだ。
 には振り回されただけだと思っていたけれど、あれが世間一般で言う“楽しい”というものなのだろうか。今日はいろいろあったけれど、回り道をしてみて良かったのかもしれない。
 またいつか、回り道をしてみようか。も、また一緒に帰ろうと言っていた。
「たまには回り道も悪くない」
 店の中に入っていくの姿を見遣って、蒼紫も『葵屋』の中に入った。
<あとがき>
 蒼紫も『葵屋』の若旦那として普通の人生を送るなら、それなりにご近所づきあいもしないとね。
 とはいえ、相手が女学生だから「近所付き合いも大切だ」なんて思っただけで、これが書生とかだったらガン無視だったりして(笑)。つられて手を振るあたりも、「近所付き合いって、いいな……」なんて思ってそうです。
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