他人の悲劇は、常にうんざりするほど月並みである

 珍しく斎藤がまだ来ていない。いつもならが出勤する時間には、斎藤は煙草を吸いながら執務机で新聞を読んでいるのだ。
 ひょっとして寝坊したのだろうか。何にしても始業までは時間があるのだから、そのうち出勤してくるだろう。
 が仕事の準備を始めていると、若い男の職員が入ってきた。斎藤の官舎の隣に住んでいる男だ。
「ああさん、来てたんですね。警部補、今日は休むそうです」
「休む?」
 は意外そうに聞き返す。丈夫さだけが取り柄だと思っていただけに、休むとは珍しい。
「鬼の撹乱かぁ」
 あの斎藤が寝込むなんて、想像がつかない。心配するより先に、思わず笑ってしまった。
 人でなしなの反応に、男も苦笑して、
「酷いなあ。死にそうな顔してたから、家にあった食料を分けてあげたんですけどね。帰りにでも様子を見に行ってあげてくださいよ」
「はあ………」
 斎藤が死にそうな顔だなんて、まさに鬼の撹乱だ。本人が強烈だと、病気も強烈なものになるらしい。
 ともかく、斎藤が死にそうにしているのなら、見に行ってやるのが人の道というものだろう。あの男がそう簡単に死ぬとは思わないけれど、様子を聞いて無視していたら、治った時に何を言われるか分かったものではない。
「じゃあ、お見舞いに行ってみますね」
「女の人が行ったら喜びますよ」
「あー……ははははは………」
 男が冗談めかして言うと、は虚ろな笑い声を上げた。
 が見舞ったところで、斎藤が喜ぶかどうか。そんな可愛げのある男だったら、もう少し円満な関係を築けただろう。
 どうせ、弱った俺を笑いに来たのか、とか訳の分からないことを言われるのがオチだろうが、仕方がないので帰りに斎藤の家に寄ることにした。





 風邪に良いと効くから、食料を買うついでに蜜柑も買った。時季を外しているから美味しくはないだろうが、贅沢は言えない。
 まったく、桜も咲き始めているこの時季に風邪だなんて、流行に乗り遅れるにも程がある。きっと、暖かいからと布団を蹴飛ばして寝ていたのだろう。
「警部補ー、ですー。お見舞いに来ましたー」
 斎藤の家の前で、は声を張り上げる。
 中で人が動く音がした。斎藤が起きてきたようだ。どうやらまだ死んではいなかったらしい。
 が、鍵を開ける音がしたところで、大きなものが戸にぶつかったような凄まじい音がした。
「警部補っ?!」
 が慌てて玄関を開けると同時に、斎藤が倒れ掛かってきた。危うく下敷きになる寸前、はぴょんと横に避ける。
「あ〜、びっくりした〜」
「………受け止めるくらいの優しさはないのか、お前は」
 倒れ伏したまま、斎藤が苦しげに呻く。玄関まで出てきただけで倒れるなんて、相当悪いらしい。
 しかし、倒れてくる斎藤を受け止めたりなんかしたら、が押し潰されてしまう。そういうのは、それこそ隣に住む若い職員に任せたい
「無茶言わないでくださいよ。いや〜、思ったより悪そうですねぇ」
 斎藤を抱き起こしながら、は暢気に言う。
 この様子では、隣人から貰った食料にも手をつけていないだろう。夕食はが作ってやるしかあるまい。
「悪いに決まってるだろ。何しにきた? 弱ってる姿を笑いに来たのか」
 せっかく優しい気持ちになっていたというのに、斎藤の憎々しげな言葉で台無しだ。予想はしていたけれど、ここまで予想通りの台詞を言われると笑いが出てくる。
 そういう発想が出てくるということは、斎藤自身にその程度の上司という自覚があるということなのだろう。それなら、今後は態度を改めてもらいたいものだ。
 が黙っていると、斎藤は憮然として、
「………少しは否定せんか」
「オッサンの構ってちゃんはウザいですよ」
 は思わず冷静に突っ込んでしまった。
 いつもの捻くれ発言かと思いきや、からの優しい言葉を待っていたとは。ひょっとして、一人で寝ている間にいろいろ考えることがあったのだろうか。病気で寝込んでいる時は、何かと心細くなると聞く。
 ここは一つ、特別に優しい言葉をかけてやるべきか。しかし、ウザいと言ってしまった後では、余計に捻くれるだけだろう。こういうことになったのは日頃の行いのせいだと、斎藤には深く反省してもらいたいところだ。
 しかしも鬼ではないから、今日のところは特別に労わってやる。
「その様子じゃ、朝から何も食べてないんでしょ。ご飯作ってあげますから、大人しく寝ててください」
 優しく言ってやろうと思っていたが、こちらも日頃の行いのせいか、が思っていたよりつっけんどんな言い方になってしまった。





 病人食といえば、よく煮込んだ卵入りのうどんだろう。消化が良く、体も温まる。
 はそう思っていたのだが、斎藤は違っていたらしい。出されたうどんを見て、いきなり不満そうな顔をした。
「何ですか?」
「うどん……のびてないか? それと俺は蕎麦派だ」
「消化が良いように、しっかり煮込んだんですよ。さて、いただきましょうかね」
 はそう言うと、軽く手を合わせて丼を取った。
「蕎麦も消化が良いんだが………」
 斎藤はまだぶつぶつと言っている。そんなに蕎麦を食いたいのかと呆れてしまう。
 大の男が食べ物ごときでみっともない。いつもの斎藤なら、出されたものを黙って食うところだろうに、これも病気のせいなのだろうか。
 もともと難儀な性格の男であるが、病気になったらなったで面倒臭い。こんなことでは、斎藤の嫁になってやろうという奇特な女がいても苦労することだろう。
「蕎麦は元気になって好きなだけ食べれば良いでしょう」
 は面倒臭そうに言うと、うどんを啜る。斎藤はまだ何か言いたそうな顔をしていたが、黙ってうどんを食べ始めた。
 二人で無言のまま、うどんを啜り続ける。
 暫くそうした後、斎藤はぽつりと呟いた。
「これが最後の食事になったら嫌だな………」
「何言ってるんですか」
 弱気になるにも程がある。男というものは病気の時は大袈裟になるようだが、斎藤もそうらしい。たかが風邪ごときで不治の病のような台詞を口走るなんて、どうかしている。
 元気な時は難儀な性格で済んでいたが、病気になったらありえないくらい鬱陶しい男だ。は溜め息をついた。
「ただの風邪で、どうやったらそんなに深刻になるんですか」
「………もういい。寝る」
 の態度が気に入らなかったらしく、斎藤は丼を置くと、布団に潜り込んだ。どうやら拗ねてしまったらしい。拗ねて可愛い外見ならまだしも、斎藤のような外見の中年男が拗ねたところで、げんなりするだけだ。
 げんなりはするけれど、このまま放置しておくわけにもいくまい。はない知恵を絞って、斎藤が喜びそうな台詞を考える。
「えーっと……桜がね、咲いてたんですよ。公園に蕎麦の屋台が出てたから、お花見がてら食べに行きましょうよ。だからそんな辛気臭いこと言わないで、治すこと考えましょ。ね?」
 斎藤の気分を盛り上げるために明るい声を出しながら、一体何をやっているのかとはげんなりする。
 今日のところは病気だから特別扱いしてやるが、そうでなければ誰がこんなことを言ってやるものか。斎藤だって、こんな状態でなければ、にこんなことを言われたくはないだろう。
 斎藤は小さく咳をしてモゾモゾ動いたようだったが、何も言わなかった。





 数日後、が出勤すると、いつものように斎藤が執務机で煙草を吸いながら新聞を読んでいた。寝込んでいたことなど無かったかのような、いつもどおりの光景だ。
「もういいんですか?」
「何がだ?」
 の質問に、斎藤は新聞から目を離さないまま惚ける。斎藤の中では、あれは無かったことになっているのだろう。まあ、無かったことにしたい気持ちは解る。
 斎藤がそのつもりなら、触れてやらないのが優しさというものだろう。は空気を読める良い部下だ。
「いえ、お元気そうで何よりです」
 それだけ言うと、は仕事の準備を始めた。
 斎藤が休んでいたせいで滞っていた仕事は山ほどある。まずはこの処理からだ。
 提出する書類を纏めていると、斎藤が思い出したように言った。
「そういえば、桜が満開だった」
「そうですか」
 はそっけなく答える。
「昼は……公園の屋台に蕎麦を食いに行くか」
 が言っていたことを覚えていたらしい。それとも、元気になって存分に蕎麦を食べたかったのか。
 花見をしながら昼飯というのは悪くない。こういう機会がなければ、今年もきっと花見はできないだろう。
「いいですね」
 斎藤も元気になったことだし、快気祝いだ。はにこやかに応じた。

<あとがき>
 春らしい話を……と思ったんですけど、あんまり春は関係ないな。
 斎藤、いくら病気だからって拗ねすぎだろ(笑)。これを「もう、斎藤さんったらv」と思うか、「うわ……うざ……」と思うかが今後の分かれ目ですね。さて、主人公さんは……?
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