酷暑も涼しく

 毎年のことながら、酷暑である。暑さもさることながら、湿度が高い。空気が乾燥していれば、少しは違うのだろうが。
「今日もいい天気だな………」
 雲一つ無い真っ青な空を見上げて、縁は心底うんざりしたように呟いた。
 街を離れれば少しは違うかと、海沿いの別荘を借りてみたのだが、家にいるのと変わらない。それどころか街よりも日差しがきつくて、外にいたら火傷しそうだ。
「お風呂にでも入ってきたら? さっぱりするわよ」
 風呂上がりのが涼しげに声をかける。
 朝風呂とは良い身分である。夜は夜でまた入るのだから、そんなに汚れるのかと縁は不思議に思うほどだ。
 の言う通り、汗を流せばさっぱりするかもしれないが、湯に浸かるというのが怠い。暑いのだから、シャワーだけで済ませたいところだ。
 しかもさっぱりするのは一瞬で、風呂に入ると身体が温まって暑さも倍増だ。風呂は涼しくなる夜だけで良い。
「どうせまた汗をかくから同じだ」
「これ使えばいいじゃない」
 そう言って、が透明の小瓶を見せた。
「何だ?」
「英国直輸入の薄荷油よ。これをお風呂に入れると、お風呂上がりも涼しいの」
「薄荷油ねぇ………」
 そんなもので涼しくなるとは思えないが、の様子を見ると汗一つかかずに涼しげである。風呂上がりというと、さっぱりした直後から汗をかくものだと思っていたから、これは本当に涼しくなる効果があるのかもしれない。
 しかし―――――
「お前、湿布臭いぞ」
 涼しくなるのはいいのだが、の全身からは湿布に似た臭いがするのだ。これは一寸困る。
 はむっとした顔で、
「失礼ね。これが薄荷の匂いなの。スーッとするいい匂いでしょ?」
「うーん………」
 どう考えても湿布の臭いだと縁は思うのだが、あまり言うとが本気で怒り出すので黙っている。この女が臍を曲げると、後が面倒なのだ。
「でね、効果が無くなったら、薄荷油を水で薄めたスプレーをかけるの。そしたらまた涼しくなるし、虫避けの効果もあるんですって」
「へー………」
 ということは、は一日中湿布臭いということである。この暑さと湿布臭さのどちらを取るかというのは、究極の選択のようだ。
 しかし人に会う予定が無いのなら、多少の湿布臭さは我慢できるような気がする。この異常な暑さは、縁も何とかしたいのだ。
「貸せ。俺もその薄荷風呂とやらに入ってくる」
「別に良いけど………。あ、入れるのはほんの少しで良いからね。あんまりたくさん入れると、大変なことになるから」
 が忠告するが、そんなものは軽く聞き流して縁は小瓶を受け取った。





 ほんの少しで良いと言われたから、瓶の蓋一杯だけ入れてみたのだが、思うような変化が無い。内腿や二の腕の裏など、皮膚の柔らかい部分が少しピリピリするような気はするけれど、あまり涼しいという感じはしない。
 もう少し足してみるかと、縁は適当に瓶から直接垂らしてみた。
「あ………」
 ほんの少し足すつもりだったのだが、思いの外、入れすぎてしまったらしい。薄荷の匂いで目が沁みてきた。
 これがの言う「大変なこと」なのかと、縁は理解した。しかし、匂いで目が沁みるなら、目を閉じておけば解決することだ。大したことではない。
 女というのは、つまらないことを大袈裟に言うから困る。湿布と同じ臭いなのだから、これくらいは縁の想定内だ。
 暫くすると全身の皮膚がピリピリしてきた。気のせいか湯が冷たく感じるようになってきたし、これは期待できそうである。





「縁……何してるの?」
 日向に出てガタガタ震えている縁を見て、が唖然とした顔で尋ねる。
 昼になって日差しも暑さもますますきつくなっているというのに、縁は真冬のように震えているのだ。傍から見たら頭がおかしくなったと思うだろう。
「薄荷油を入れすぎた」
 風呂に入っている間は快適だったのだが、上がってからが極寒地獄だった。家の中は寒いから、普段は灼熱地獄のバルコニーに出てみたものの、此処にいても風が吹くと寒いのだ。日陰にいても寒いし、日向に行っても寒い。
 しかも悪いことに、此処は海沿いである。さっきまでは意識していなかったが、一日中風が吹いているのだ。しかも結構強い。
「だから入れすぎちゃ駄目だって言ったのに」
 こんなに震えているというのに、は心配するそぶりを見せない。それどころか、面白いものを見るようにニヤニヤしている。
「こんなになるなんて劇薬だろ」
「天然素材なのに」
「それなら阿片も天然素材だ!」
 天然素材だからといって、何でも体に良いわけではないのだ。ものによっては猛毒にもなるし、劇薬にもなる。この薄荷油だって、縁が若くて体力があるからこの程度で済んだが、老人だったら凍死していたかもしれないではないか。
 ひょっとしたらは縁の凍死を狙っていたのではないかと思えてきた。関係が面白くなくなったときに相手を始末するなんて、よくある話である。
 思い返してみても二人の関係は良好だと縁は思うのだが、はどう思っているのか。薄荷油で殺そうと思っているくらいなのだから、縁の勘違いだったのかもしれない。
 それならそれで一言言えばいいものを、いきなり抹殺とは陰険な女だ。否、女は大抵、陰険な生き物である。
「お前、気に入らないことがあるなら口で言えよ! 何でいきなり殺しにかかるんだよ!」
「は?」
 縁に怒鳴られて、はきょとんとした、話の流れが見えていないらしい。
 勝手に薄荷油の量を間違えて人殺し呼ばわりなのだから、当然である。そもそも、本気でやるつもりなら、もっと確実な方法があるのだ。
「あんたさぁ………」
 は心底呆れ果てたように溜め息をついた。
「こんなので死ぬタマじゃないでしょ。何なら試してあげようか?」
 そう言うと、は持っていた扇子で全力で扇ぎ始めた。
 いつもなら心地いい風も今の縁には凶器である。
「わかった! わかったから止めろって!」
 黒社会の棟梁として上海で恐れられている男が、扇子で扇がれたくらいで涙目とは情けない限りだ。こんな姿は他人には見せられない。
 縁の反応に満足したのか、は扇子を畳むと鼻を鳴らして、
「一寸考えたら分かるでしょ。ほんとに馬鹿なんだから」
「〜〜〜〜〜〜」
 冷静に考えたらその通りなのだが、さっきの扇子を扇ぐの目には明確な殺意があった。不用意な一言で殺意を抱くとは、恐ろしい女である。
 薄荷油の量と女への一言は、一つ間違えると命取りだ。縁はまた一つ賢くなった。

<あとがき>
 節電ムードで何だか注目されているらしい薄荷油、使ってみました。確かにひんやりするね。そして、入れすぎると本当に寒い(笑)
 あと、肌の弱い人は濃度か高いとヒリヒリするらしいです。濃い目に作った薄荷スプレーを友人に貸したら、物凄くヒリヒリしたらしい。なので、肌の弱い人はあんまり使わないほうがいいのかもしれないです。
 しかし普通の薄荷油でこれなら、「探偵ナイトスクープ」でも取り上げられていた“アイヌの涙”の威力はどんなものなんだろう……?
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