文明開化いろいろ

 普段の生活では意識することは無いが、文明開化の波は確実に押し寄せている。かつては江戸と読んでいた東京は、完全に蒼紫の知らない町だ。
「確かこの辺りだったはずだが………」
 久々に上京したついでに、馴染みの店に寄ってみようと思っていたのだが、その店が見付からない。街並みは変わっても道は変わっていないのだから、場所に間違いは無いはずなのだが。
「移転したか廃業したんじゃないですか?」
 は蒼紫の買い物には関心が無いようだ。そんなものよりも、周りの洋菓子店や煉瓦造りの建物が気になるようである。
 蒼紫の買い物は筆だから、にはつまらないのだろう。それなら別行動したらいいのにと蒼紫は思うのだが、何故か強引についてきたのだ。お近やお増と一緒にいれば、それこそ洋菓子店やカフェを梯子できるだろうに。
「廃業するとは思えないんだが………」
 つい数ヶ月前、蒼紫が観柳邸にいた頃は、それなりに繁盛していた店なのだ。店主もまだ隠居するような歳には見えなかった。
「じゃあ移転したんですよ。そうだ、あのカフェで訊いてみましょうよ。何か分かるかも」
 そう言って、は洋風の建物を指差す。筆屋のことなど関係無く、単にカフェに行きたいだけなのが見え見えだ。
 あのカフェは、蒼紫が東京にいた頃は魚屋だったところだ。主人も変わっているだろうし、筆屋の行き先など知らないだろう。
「行ってもも無駄だと思うが………」
「そんなこと、訊いてみないと分らないですよ。一寸行ってみましょうよ」
 にはカフェに行くことが目的なのだ。筆屋のことなど、ただの口実なのだろう。
 渋る蒼紫の腕を掴んで、は強引にカフェに引きずり込んだ。





「わあ、ラムネがある〜」
 出されたお品書きを見て、ははしゃいだ声を上げた。
 カフェの店員に筆屋の行方を訊いたらすぐに出るつもりだったのだが、何故か蒼紫はカフェのテーブルに座っている。まあ、に強引に座らされたのだが。
 洋装には強い関心を持っている蒼紫だが、口に入れるものとなると話は別だ。西洋のものは得体の知れないものが多く、腹を下すのではないかという心配が先立って、口にするのには躊躇いがある。できることなら出ていきたいところなのだが、がどうしてもと言うから付き合う羽目になってしまった。
 蒼紫が聞いた話によると、ラムネというのは刺激のある飲み物らしい。おまけに腹が膨れるというから、きっと危険な飲み物に違いない。そんなものを飲もうとするなんて、の勇気には感心する。
「ラムネはやめとけ。口の中で破裂するらしいぞ」
「あはは〜。それ面白〜い!」
 無駄だと思いながらも忠告してみたが、やっぱり無駄だった。は陽気に笑い飛ばすと、さっそく店員にラムネを注文する。は蒼紫よりも勇気があるのかもしれない。勇気というか、蛮勇なのだろうが。
 蒼紫はというと、口の中で破裂する危険な飲み物を頼む勇気は無く、無難に珈琲にすることにした。これなら観柳邸でも飲んだことがあるし、少なくとも腹を下したり破裂したりすることは無かった。
「此処のラムネって、国産なんですね。本場のラムネを飲んでみたかったけど、まあいいか」
 注文は終わったというのに、まだお品書きを見ながらは独り言のように言う。
 無謀なことに、は米国のラムネを飲みたかったらしい。舶来ものを飲ませる店もあるらしいが、外国製の飲み物なんて、ますます腹を下しそうではないか。
 に限ったことではないが、女というのは舶来ものが好きらしい。これは好みの問題だから蒼紫には口出しする権利は無いけれど、飲み食いするものに考え無しに飛びつくのはどうかと思う。
 そうこうしているうちに、ラムネと珈琲が運ばれてきた。
 珈琲は普通にカップに入っているが、ラムネは小皿に乗せられて硝子の瓶に入っていた。口には丸いガラス玉が嵌め込まれていて、これが栓になっているらしい。
「へー、これがラムネかぁ………」
 好奇心で目をキラキラさせて、は瓶を眺める。
 ラムネというのは冷やして飲むもののようで、瓶にはうっすらと水滴が付いている。見たところ普通の水と変わらないようだが、口の中で破裂するという危険物だ。油断したら爆発するかもしれないと、蒼紫は身構える。
「これで硝子の球を押すと、瓶が開きますので」
「へー……」
 店員に硝子の塊を渡されて、は感心したような顔をする。
 ラムネとは、口の中で破裂する奇妙な飲み物であるが、容器も奇妙なものである。客にあけさせるというのも失礼な話だ。
 けれどはそうは思っていないようで、は楽しげに硝子の塊で蓋だという硝子玉を押し込んだ。と同時に瓶の口から泡が吹き出す。
「わあっ!!」
 が店中に響き渡るような悲鳴を上げた。
「何これ、面白〜い!」
 何が面白いのか分らないが、ははしゃぎである。こんな泡を吹く飲み物なんて、蒼紫には気味が悪いのだが。
 泡が落ち着いた後、は興味津々な面持ちでゆっくりと瓶に口をつけた。
「うっ………!」
 口いっぱいに含んで、喉に詰まったような声を漏らした。やはり噂通り、口の中で破裂したに違いない。
 さっきの瓶みたいにの口からラムネが噴き出すのではないかと、蒼紫は咄嗟に腰を浮かせた。ここで噴き出されたら、蒼紫はラムネまみれの大惨事である。
 口を塞ごうと手を伸ばしかけた時、は少し顔を顰めてラムネを飲み下した。そしてさっきまでが嘘のように笑顔全開で、
「美味しい! ねえ、蒼紫様、口の中でしゅわしゅわするんですよ。凄い!」
 何だかよく分らないが、大喜びのようである。あの苦しそうな顔は何だったのかと思うが、本人が喜んでいるのなら、まあいい。
「東京って凄いですねぇ。こんなのを普通に飲めちゃうんだ」
 余程ラムネの味に感激したのだろう。の頬は紅潮し、目をキラキラさせている。
 ラムネが東京で一般的な飲み物になっているか蒼紫は知らないが、京都にいるよりは手軽に飲めるのだろうとは思う。京都だったら、大阪か神戸まで足を伸ばさないと手に入らない。
「京都も早く東京みたいになるといいのになあ」
 若い娘らしい率直な感想なのだろうが、の言葉に蒼紫は胸を突かれる思いがした。
 東京は急速すぎるが、地方都市も同じように西洋化していくのだろう。馴染みの老舗も消え、昔ながらの風景も消えていく。
 街の風景に思い入れがあったわけではないが、あの筆屋のように知っている店が無くなるのは寂しいものだ。明治の幕開けと共に消えてしまった御庭番衆のように、今ある風景も消えていく運命なのかもしれない。
「どうしたんですか?」
 考え込んでしまった蒼紫に、が訝しげに尋ねた。
「いや………」
 話したところで、には理解できるはずがない。彼女が物心つく頃には、もう西洋化の波が押し寄せ始めていたのだ。新しいものを善しとする価値観の中で育ったと蒼紫では、同じものを見ても正反対に感じるだろう。
「京都も近いうちにそうなるさ」
 京都の街が東京のようになるのは想像できないが、西洋化の流れはもう止められないだろう。『葵屋』もいつかは消えてしまうのかもしれない。
 無邪気に喜ぶかと思いきや、の表情が曇った。
「………蒼紫様は、こういうのはお嫌いですか?」
 好きとか嫌いとか考えたことも無かったけれど、には蒼紫が西洋化を嫌っているように見えたらしい。
 生活が便利になるのは良いことだ。機能的な西洋の生活様式は、蒼紫も評価している。
 嫌っているように見えるとしたら、それは見慣れたものが消えていくことに対して感傷的になっているせいだ。自分でもくだらない感情だとは思うが、こればかりは仕方がない。
「そういうわけではないが………。急に変りすぎてついていけないだけだ」
 何だかんだ言って、結局そういうことだ。外見はいち早く適応したものの、内面は無血開城のあの日から何も変わっていない。
「じゃあ、これから慣れていきましょうよ。そうだ、東京に来た記念に写真館に行きましょう」
 蒼紫の憂鬱を吹き飛ばす勢いで、が明るく提案した。
 黒船の来航と共にやってきた写真は、文明開化の象徴だ。以前は一部の者しか撮ることができなかったが、今では各地に写真館が建てられ、記念写真や見合い写真など、庶民にも身近なものになった。
 京都にも写真館ができたけれど、蒼紫もも写真を撮ったことは無い。今時“魂が抜かれる”なんて噂話を信じているわけではなく、単に機会が無かったのだ。“上京記念”というのは、いいきっかけかもしれない。
「ああ、そうだな」
 蒼紫は頷いた。





 昔に比べて撮影時間は短縮されたと聞いていたが、写真撮影というのは難儀なものだった。姿勢や手足の位置まで写真屋に指示されて、撮影が終わった頃には肩が凝ったほどだ。写真は後日郵送されるそうで、写真の基になる銀板を特別に見せてもらうことができた。
「こういう風に写るんだあ………」
 が感激したように呟く。銀板に写る二人の顔は緊張で少し強張っているが、は十分満足しているようだ。
 こうやって自分の姿を見るというのは、蒼紫も不思議な感じがする。写真になったら、また違うように見えるのだろうか。
「何か、本当に文明開化って感じですねぇ」
「ああ」
 自分の姿をそのまま残すことができるというのは、画期的な技術だ。写真機は高価なものだと聞くが、蒼紫も欲しくなった。
 最近は人物だけではなく、街の風景を撮ることもあるらしい。写真機を買って、西洋化する前の風景を残すのもいいかもしれない。
「また撮りに行きましょうね」
「ああ」
 も写真を気に入ったようだ。京都に戻っても、記念だの何だの理由をつけて写真館に連れて行かれそうである。
「誕生日とかお正月とか」
「ああ」
「お祭りの時なんかもいいですね。浴衣の写真も撮らなきゃ」
「ああ」
「そうそう、結婚する時も撮らなきゃですね」
「ああ―――――えっ?!」
 流れでうっかり応えてしまった後、蒼紫はぎょっとしてを見た。蒼紫の反応が可笑しかったのか、はにこにこして彼を見上げている。
「流行ってるんですよ、結婚写真」
「あ……ああ………」
 この場合、蒼紫との結婚写真ということなのだろうか。一応確認した方がいいかと迷ったが、わざわざそうするのも間抜けな気がして、蒼紫はそのまま黙った。

<あとがき>
 ラムネも写真も、この頃には割と出回ってたみたいですね。炭酸飲料を初めて飲んだ人って、どんな感想だったんだろうなあ。
 しかし『葵屋』みんなで上京って、何の用事だったんだ? 剣心たちの結婚式?(笑)
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