恋は闘争

 庶民の生活にも西洋化が進み、今までに無かった行事も増えた。バレンタインデーも、その一つである。
 文明開化とは無縁の生活をしているであるが、今回ばかりは違う。バレンタインデーは女から愛の告白をする日なのだ。気になる男がいるには、何としても利用したい行事である。
 の想い人は、父親の店に出入りしている新進陶芸家の新津覚之進だ。“新進”といっても、不惑を超えているのだが。の歳よりも父親の歳に近い。
 けれど見た目は非常に若く、二十代と言っても通用するだろう。恐ろしく無愛想で、超が付くほどの自信家だが、それが許されるだけの才能を持っている。おまけになかなかの美形なのだから、が惚れないわけがない。
 しかし親子ほどの歳の差があるせいか、どうも本気で相手にされていないようだ。頑張って好意を示しても、軽く受け流されてしまう。歳の差があろうが何だろうが、の気持ちは本物なのだが。
 そんな男が相手だから、今回のバレンタインデーは絶好の機会だ。チョコレート持参で告白すれば、いくら何でも本気だと思うだろう。
 この日のために洋酒の入ったチョコレートを用意した。新津は酒好きだから、きっとこれは喜んでくれるだろう。そして、こんな細かい気遣いができるに惚れるに違いない。
 新津に惚れられることを想像したら、は興奮のあまり鼻血が出そうになる。「ありがとう」なんて笑顔で受け取られるところを想像するだけでも、恍惚としてぶっ倒れそうだ。
「うふふ………」
 綺麗に包装された箱を見詰めて、はにやにやし続けた。





 新津は山の中の一軒家に住んでいる。山道を歩いていくのはきついが、今日のの足取りは軽い。何しろ今日は愛情たっぷりの贈り物持参なのだ。
 このチョコレートを渡す瞬間のことを想像すると、にやけが止まらない。これをきっかけに二人の中が進展し、二人でお出かけということもあるだろう。のために何か焼いてくれるかもしれない。それを照れながら渡してくれちゃったりなんかしたら、もうたまらない。
 チョコレート一つでの夢は広がりまくりだ。チョコレートより甘い毎日を想像しながら坂道を上っていると、新津の山小屋が見えてきた。ところが―――――
「あ………」
 小屋の前に女が立っているのが見えた。新津には決まった女はいないはずだから、と同じく彼を狙う女なのだろう。
 は雑木林に入って、こっそりと小屋に近付く。こちらが隠れる謂われは無いのだが、鉢合わせというのは流石に気まずい。
 女はよりも年上のようだ。なかなかの美人である。
 比古ほどの男なら、以外にも好意を寄せる女はいるだろう。ただでさえ新進陶芸家というのはもてるらしい。美形の新進陶芸といったら、女が放っておくはずがない。
 小屋から新津が出てきた。
「何だ、お近か。どうしたんだ?」
 女はお近というらしい。新津の様子は特に嬉しそうでもないが、迷惑そうでもない。ただの知り合いがやってきたという感じだ。
 ただの知り合いでも、女というだけで油断はできない。だって“ただの知り合い”なのだ。この女も新津に好意を持っていることは確実だろう。女の表情を見れば判る。
「まあ、比古様ったら。今日はバレンタインデーですよ」
 お近は可笑しそうにころころ笑う。
 “比古様”というのは一体何なのだろう。“新津覚之進”陶芸家としての名前だったのか。それなら彼の本名を知っているというのは、一寸ただ事ではない。
 も知らない本名を知っているなんて、お近というのは一体どんな女なのだろう。ひょっとして、が知らなかっただけで、実は恋人だったりするのだろうか。
 二人の様子を観察しながら、は胸がざわざわしてきた。特に仲の良さそうな雰囲気は無いが、二人とも大人だから、今更いちゃいちゃすることも無いのかもしれない。本当に二人が付き合っているとしたら、が入り込む余地が無いではないか。
「バレンタインデーって何だ?」
「好きな男の人にチョコレートをあげる日ですよ。外国の風習なんですって」
「へぇ」
 比古はチョコレートの箱を受け取るが、あまり関心がないようだ。この様子では二人は付き合っていないのだろうか。
 けれどチョコレートの箱からは只ならぬ気合いが感じられる。包装紙もリボンも、のものより綺麗で洒落ている。
 のものも可愛く包んでいるけれど、よく考えたら比古は大人なのだから、大人っぽいものが良いに決まっている。違う包装にして貰えば良かったと少し後悔した。
「比古様、今日はお暇ですか? もしお暇だったら―――――」
 お近が意味ありげに艶っぽく微笑む。
 これはまずい。お近はこのまま小屋に上がり込んで、下手すると泊まっていくつもりだ。それだけは絶対に許さない。
「駄目駄目っっ!!」
 は雑木林から飛び出して、比古とお近の間に割り込んだ。
「新津さんはとぉぉぉぉっても忙しいの! 貴女なんかと遊んでる暇なんて無いんだから!」
 暇そうに見えるかもしれないが、陶芸家の一日は忙しいのだ。何もしていないように見えていても、窯の火加減を気にしたりして、遊ぶ暇なんて無い。お近は自分が暇だから、比古も暇だと思っているのだろうが、大きな間違いだ。
 料亭の仲居には比古の忙しさなど理解できないだろうが、陶磁器店の娘であるはよく理解している。こんな来客を追い払って比古に陶芸に集中させるのも、の大事な役目だ。
 二人の間に立ちはだかるを、比古とお近がきょとんとして見ている。その微妙な空気に、ははっと我に返った。
 こんな風に横から飛び出したら、二人の様子を覗き見していたのがバレバレだ。これはかなり気まずい。
「………いつからいたんだ、お前?」
 比古が心底呆れたように尋ねる。
「あ、いや………」
「あらぁ、隠れていなくても良かったのに」
 狼狽えるに、お近は可笑しそうに笑いながら言う。突然の乱入者にも全く動揺する様子を見せないとは、なかなか肝の据わった女である。
 その笑いが勝ち誇っているように見えて、はむっとする。
「お邪魔をするのは野暮かと思いましてね。でも新津さんのお仕事の邪魔をされるようでしたら、黙ってられませんので」
 は気を取り直し、胸を張ってお近を睨み付けた。その様子が可笑しかったのか、お近はますます笑う。
「邪魔なんかしないわよ。お暇だったら、って思っただけだもの」
「だから暇なんかじゃないんですっ」
 噛みつきそうな勢いでは反論する。
 暇とか暇じゃないという問題だけでなく、お近が比古の小屋に上がり込むのが駄目なのだ。上がり込んだら最後、良からぬことをするに決まっている。
 歳は取っているが、美形の陶芸家というのは女が寄って来るものだ。そういう女を追い払って、比古に陶芸に集中させるのも、陶磁器店の娘であるの大事な仕事だと思っている。
「比古様がお暇かどうかなんて、貴女が決めるものじゃないでしょ。ねぇ、比古様?」
「え? あ、うーん………」
 いきなり話を振られて、比古は困ったように唸る。わざわざ山奥までやってきた客を無碍に追い返すわけにはいかないと思っているのだろう。
 はっきり断れとは思うが、そこが比古の優しさなのだろう。そうやってはっきりしないから、お近のような女が調子に乗るのだ。
「新津さん、はっきり言ってくださいよ。今だって窯に火を入れてるんでしょ」
 薄く煙を上げている煙突を指差して、は比古に訴える。
 比古はますます困った顔をして、
「まあな。うん、悪いが今日のところは………」
「あらぁ………」
 お近は少し残念したような顔をした。対するは勝ち誇ったように小鼻を膨らませている。
 やっぱりが悪役になってでも、邪魔者を追い払ってやらなくてはならないのだ。比古の仕事のことまで理解しているのはだけなのだから。
「それは残念ですわ。じゃ、一緒に帰りましょ」
 残念そうにしながら、お近はどさくさに紛れても連れ帰ろうとする。
 は慌てて、
「私は新津さんに大事な用があるから」
「じゃあ、用が終わるまで待っててあげるわ」
「お近さんがいちゃ駄目な用なの!」
「ふ〜ん………」
 お近はにやりと笑う。の“用事”を察したのだろう。
「まあいいわ。私は覗きなんて悪趣味なことしないから安心してちょうだい」
 お近の痛烈な一言にはぐうの音も出ない。確かに覗いていたのは悪かったが、チョコレートを渡している時には出ていきにくかったのだから仕方が無いではないか。
 顔を紅くしてぷるぷる震えるを見て、お近は可笑しそうに笑う。そしてそのまま山道を下りていった。
 お近を追い返すことができたのだから、の勝ちなのだろう。が、何だか軽くあしらわれただけのような気もする。お近は笑ってばかりで、が一方的に噛みついたみたいだ。
「で、お前の用は何なんだ?」
 比古の声は完全に呆れている。あんな言い合いを見せられたら呆れもするだろう。
 こっそり覗いたりお近に噛みついたり、このままではが悪役だ。何とかして挽回しなくては。
「あの、これ。バレンタインだから、その………」
 気の利いたことを言わなければと思うのだが、上手い言葉が出てこない。あんなことをやらかしてしまった後では、恥ずかしくて顔も上げられない。
 本当ならチョコレートを渡して比古の心を射止めるはずだったのに、さっきので全部台無しだ。お近が大人の対応だっただけに、の子供っぽさが余計に際立って見えただろう。
「新津さん、お菓子が好きじゃないみたいだから、お酒の入ったチョコレートにしたんですけど………」
「ふーん………」
 箱は受け取ってもらえたが、比古の態度は素っ気ない。お近を追い返したことを怒っているのだろうか。
 あんな風に敵意を剥き出しにした姿を見たら、誰だって引くに決まっている。しかもは比古と付き合っているわけではないのだ。ただの知り合いがあそこまでやったら、だったらドン引きだ。
 そう思ったら、恥ずかしくて逃げ出したくなってきた。
「ごっ……ごめんなさい、さっきの。私、出しゃばっちゃって………」
「別にいいけどさ。後でお近に謝っとけよ」
 怒ってはいないようだが、比古はを対等な大人としては見ていないようだ。困った子供に説教するように言う。
「………はい」
 はしょんぼりして頷いた。
 お近と比べたら、はまだまだ子供に違いない。認めたくはないけれど、お近を見習わなくてはならないところは沢山ある。あんな風に余裕を持つことができたら、は絶対にお近には負けない。
 しょげているの頭に、比古は手を置いた。
「反省してるならいいさ。チョコレート、一緒に食うか?」
「へ?」
 意外な誘いに、はびっくりして顔を上げる。
「甘いものは苦手なんだよ。残すのは勿体無いだろ」
 比古はもういつもの彼に戻っているようだ。笑っているようにも見える。
 チョコレートを渡して惚れて貰う作戦は失敗だったが、一緒にチョコレートを食べられるなんて嬉しい。恋人同士のようにいちゃいちゃしながらというわけでなくても嬉しい。
「いいんですか?」
「食ったら窯出し手伝えよ。結構あるんだ」
「はい!」
 手伝いを任せてもらえるなんて嬉しい。まだまだ子供扱いだが、仕事を手伝っているうちに頼りにされる日が来るかもしれない。
 ここでいいところを見せて、お近に差を付けたいところだ。はぐっと気合いを入れた。
<あとがき>
 流石は師匠、モテモテ(死語)ですな。
 主人公さんの作戦は失敗のようですが、お手伝いからコツコツとお近付きになっていきましょう。お近さんに一歩リード……となればいいですね。
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