死ね! バレンタインデー

 近所に洋菓子店が出来てから、『葵屋』のおやつはハイカラになった。フルーツケーキだのビスケットだの、見たことも無い菓子が毎日のように登場している。
 ついこの間まで何処そこの饅頭がいいだの、煎餅はあの店でなければ駄目だの言っていたくせに、女たちはそんなことはすっかり忘れてしまっているようだ。蒼紫が煎餅を食べたいと言っても、何故かクッキーが出てくる始末である。
「………これは何だ?」
 蒼紫はお茶受けに出された四角いものを凝視する。
 見たところカステラのようであるが、カステラよりもしっとりとしているようだ。楊枝で押すと何やら汁が滲み出るようで、何とも不気味だ。
 はにこにこして、
「ブランデーケーキです。洋酒のケーキですよ」
「俺は下戸だ」
「大丈夫ですよ。酔っぱらうほど入ってませんから」
 そう言うと、はケーキを口に入れた。
 酔うほど入っていないと言うが、押すと酒が滲み出るくらいだ。顔に近付けると強い酒の匂いがする。これは相当入っているに違いない。
 蒼紫は無言で皿を置いた。
「どうしたんですか?」
 不機嫌になる蒼紫を見て、は怪訝な顔をした。
「こういうのは好かん」
 酒が入っているのは勿論気に入らないが、洋菓子特有の甘ったるいのも気に入らない。こんな味では折角の茶が台無しになるではないか。日本人は饅頭や煎餅を食っていれば良いのである。
 はますます不思議そうな顔をして、
「美味しいのに。蒼紫様、西洋のものはお好きじゃないですか」
 の言う通り、蒼紫は西洋のものが好きである。いち早く断髪をして、洋風のコートも手に入れたくらいだ。先日は洋服を一揃い購入した。
 けれど食べ物に関してだけは、日本のものでなければ駄目だ。外国製のものは何にしても口に合わないし、日本人が作る洋食も好きではない。見た目は西洋に馴染んでも、中身はどうにも変えられないのだろう。
「服は好きだが、食い物は好かん」
「変なのー。じゃあこれ、いただきますね」
 自分の分を平らげる前に、は蒼紫の皿に手を伸ばした。





 西洋にはバレンタインデーなる風習があるらしい。恋人同士で贈り物をするのだそうだ。
 が、世間では何故か女が好きな男にチョコレートは送るのだという。たちがいく洋菓子店にそう貼り紙がしてあった。
 女が菓子を貰うなら兎も角、菓子を貰って喜ぶ男などいるものだろうか。蒼紫ならもっと違うものが嬉しいのだが、それを言うのは野暮というものなのだろう。
 何にしても蒼紫には関係無い風習である。チョコレートで男女関係が円滑に運ぶなら良いものだと、生暖かく見守るつもりだ。
「黒さーん!」
 廊下を歩いていると、の声が聞こえた。続いて小走りする音が聞こえて、止まる。
「黒さん、お一つどうぞ」
「おっ、バレンタインデーってやつかい?」
 黒尉の嬉しそうな声に、蒼紫は思わず聞き耳を立てた。
 どうやら黒尉はチョコレートを勧められているらしい。流行に敏感ながバレンタインデーを知らぬはずがない。そのつもりで勧めているのだろう。
 否、そんなはずはない。の普段の様子からは、黒尉に気があるようには見えなかった。とりあえず流行に乗っているだけだろう。
 蒼紫はそれで自分を納得させるが、の楽しげな声で見事に打ち砕かれた。
「えへへ〜、よく知ってますね〜。ま、お一つどうぞ?」
「いやぁ〜、参っちゃうなあ」
 黒尉は絶対、鼻の下を伸ばしているに違いない。デレデレした声に、蒼紫は軽く苛ついた。
「美味しいですか?」
「うん。あんまり甘くなくて食べやすいね」
「よかったぁ。じゃ」
 嬉しげな声に続いて、が去っていく足音が聞こえる。
 が菓子を配り歩くのは珍しいことではないが、この日にチョコレートを、というのは問題だ。しかも休憩時間ではなく、わざわざ呼び止めてである。特別な意味があるとしか思えない。
 が黒尉に気があるとは予想外だった。長い付き合いであるから、何となくそういう流れになることもあるのだろうが、意外な展開である。
 蒼紫はゆっくりと黒尉に近付いた。
「チョコレート、そんなに美味いか?」
「うわっ!」
 背後からの陰気な声に、黒尉は大袈裟な悲鳴を上げた。
「びっくりするじゃないですか。見てたんですか?」
 まだへらへらしている黒尉の態度が気に入らない。たかがチョコレートがそんなに嬉しかったのか。
 確かに嬉しかったのであろう。今日はバレンタインデーである。たかがチョコレートであるが、今日は意味のあるチョコレートなのだ。
 たかがチョコレートに浮かれやがってとか、日本人のくせに西洋の風習に振り回されやがってとか、思うことはいろいろある。何より気に入らないのは、蒼紫を差し置いて貰いやがったことだ。
 別に蒼紫とは付き合っているわけではないし、チョコレートを送る送らないは彼女の自由なのだから、周りがとやかく言うことではない。解ってはいるのだが、苛つく。
「たかがチョコレートがそんなに嬉しいか」
「は?」
 黒尉はきょとんとした。蒼紫の不機嫌の理由が解らないらしい。因縁を付けられているだけなのだから、解らなくて当然なのだが。
「あ、いや……普通………」
「普通に嬉しいか。女からチョコレートを貰って、普通に嬉しいか」
「えー………」
 そこまで問い詰められると、黒尉も困ってしまう。たかがチョコレートでそんなに問い詰められる理由が解らない。
 黒尉がもじもじしていると、白尉がやってきた。
「白尉!」
 助けがきたとばかりに黒尉が呼び止める。
「蒼紫様の様子が変なんだ」
「は?」
 白尉は怪訝な顔をした。
 蒼紫が不機嫌なのは一目で判るが、それはいつものことである。上機嫌な顔をしている時の方が珍しい。
「チョコレートが美味いかとか何とか、しつこく訊いてくるんだよ」
「美味かったですよ。一寸苦味がありますけど。いつもの洋菓子よりは食べやすかったですし」
 まだ貰っていなくて、味を気にしていると解釈したのだろう。白尉は訊いてもいない味の説明をした。
 蒼紫にはチョコレートの味なんてどうでもいいのである。そんなことより、白尉までチョコレートを貰っていたことの方が問題だ。
 黒尉に気があると思いきや、白尉にまでチョコレートを分けていたとなると、は両方に気があるということか。否、彼女に限って、そんな移り気なはずはない。二人に渡したとなると、チョコレートに深い意味は無かったのかもしれないが、そうなると深い意味の無いチョコレートすら貰えなかった蒼紫の立場は一体何なのか。
 の行動に意味が無かったことは良かったが、貰えなかったことにはますます腹が立ってきた。いくら蒼紫が洋菓子を好まないとはいえ、一言くらいあるべきだろう。
「あ、そうか。蒼紫様も欲しかったんですね。じゃあ貰ってきますよ。ちゃん、まだ持ってたみたいですし」
「蒼紫様が欲しがってるっていうのがアレだったら、俺がもう一つ欲しいってことにしときますから」
 蒼紫の内心に全く気付いていない黒尉と白尉は暢気に提案する。本人たちは親切心のつもりなのだろうが、完全に僻んでいる蒼紫には、優越感に浸っているようにしか見えない。
「うるさい! お前らまとめて蟻にたかられて死ねっ!」
 鬼の形相で怒鳴ると、蒼紫は足を踏み鳴らして歩いていった。





 蒼紫が調べたところによると、翁もチョコレートを分けて貰ったらしい。更に聞くと、お近とお増も操も男三人にチョコレートを配り歩いたそうだ。ちなみに蒼紫は、お近とお増からも、操からさえ貰っていない。
 こうなってくると、どう考えても蒼紫だけが避けられている。確かに彼は愛想が悪いし、女たちと親しく話すことも無いが、避けられるほど嫌われているということはないはずだ。どうしてこんなことになったのか、蒼紫には全く解らない。
 別にチョコレートが食いたいわけではないが、人望を計るものだと思うと、貰えないというのはゆゆしきことである。ここまで人望の無い御頭というのは他にはいないだろう。そう思うと情けなくて死にたくなる。
 こうも人望が無いと判った今、このまま『葵屋』にいるわけにはいかない。再び流浪の旅に出るか。同じ孤独でも、周りに人がいる孤独より、全くの孤独の方が気が楽だ。
 今夜にでも出ていこうかと考えていると、部屋の外で人の気配がした。
「蒼紫様、入りますよ」
 の声がして、障子が開いた。
「どうしたんですか? そんな深刻な顔して」
 いつにも増して陰気な蒼紫を見て、は怪訝な顔をする。
 お前たちが深刻の理由だと言いたいところだが、蒼紫は黙っている。それを言ってしまったら余計に惨めだ。
 返答が無いのを気にしない様子で、は蒼紫に近付く。そして明るい声で、リボン掛けされた小さな箱を差し出した。
「はい、どうぞ」
「………え?」
 差し出された箱に蒼紫は唖然とする。その顔が可笑しかったのか、はふふっと笑って、
「今日はバレンタインデーっていって、女の子が好きな男の人にチョコレートをあげる日なんですよ」
「あ、うん………知ってる」
 自分だけは貰えないものだと思っていたから、嬉しさよりも驚きで一杯だ。
「あんまり甘くないから大丈夫ですよ。白さんと黒さんと翁に味見して貰ったから、ばっちりです」
「あ、ああ………」
 みんなに配っていたのは味見のためだったのかと納得した。わざわざ味見をさせてから蒼紫に渡すなんて、これは本気のチョコレートに違いない。
 チョコレートは別に欲しくはないけれど、それに付いてくるいろいろなものが嬉しい。蒼紫にはちゃんと人望があって、から好意を寄せられていたのだということが嬉しい。
 はずいっと蒼紫に近寄る。
「もしかして、私のが一番でした?」
「ああ」
「やったぁ! 後でみんなも持ってくると思いますけど、私のを一番に食べてくださいね」
 ぴょんぴょん跳ねそうな勢いでは大喜びする。
 そうやって喜びたいのは蒼紫も同じだ。たかがチョコレートだが、涙が出るほど嬉しい。実際に泣きはしないが。
「うん」
 洋菓子は好きではないけれど、このチョコレートはきっとどんな菓子よりも美味しいに違いない。箱を見ているだけで胸が一杯になって、蒼紫は頷くので精一杯だった。
<あとがき>
 藤岡藤巻とは、ポニョを歌ってた大橋のぞみちゃんの後ろで歌っていた二人組のオッサンです。何でこの二人にポニョ歌わせたんだ?
 初めてこの曲を聞いた時から「絶対このネタ使ってやる!」と意気込んでたんですが、蒼紫、ちっちぇえ男になったなあ(笑)。いや、自分だけもらえなかったら僻みたくもなるか。
 背景はマカロンですが、あんまり気にしないでください。チョコレートが無かったんで。
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