“カワイイ”は作れる!

 明治になって、町の風景も少しずつ変わってきている。牛鍋屋を始めとして、ハイカラな商売が増えた。
 そして『葵屋』の近くにも、“ミルクホール”なる店が開店することになった。聞き慣れない商売であるが、牛乳を飲ませる店らしい。この牛乳も、明治になって飲まれるようになったものだ。
 何だかよく分からないが、ミルクホールというのはとてつもなくハイカラな気がする。初めて広告を見た時、これは是非行かなければとは思った。
 しかし、残念ながら牛乳を飲むという習慣は『葵屋』の者には無い。新しいものには興味津々の操でさえ、牛の乳など気持ち悪いと言う始末だ。栄養があるらしいとはいえ、確かに獣の乳はゲテモノである。
 ゲテモノではあるが、牛乳というのがどんなものか、は飲んでみたい。今上陛下も毎朝お召し上がりになっているらしい。日本で一番偉い方が口にされるものなら、きっと良いものなのだろう。
 そう思うと何が何でも飲まなくては気が済まなくなってくるのだが、流石に一人で行く勇気は無い。他に誰か新しもの好きはいないものか―――――
「―――あ」
 操以上の新しもの好きがいたではないか。引き籠りだから忘れていたが、蒼紫は誰よりもハイカラに弱い。
 蒼紫と一緒に行けば、それこそ“デート”とかいうもののようではないか。これは想像するだけで楽しくなってきた。
 早くもお出かけ気分で、は足取り軽く蒼紫の部屋へ向かった。





「ミルクホール………」
 の説明を聞いて、蒼紫は真顔で考え込む。興味はあるようだが、わざわざ出かけるのは面倒臭そうだ。
 しかし、もう少し押せば連れ出せそうな雰囲気である。
「この辺りの若い子は行ってるみたいですよ。私の友達もみんな行くって。話の種に行ってみましょうよ」
 一寸大袈裟に言ってみたが、蒼紫にはこれくらいが丁度良い。いかにも流行っているように言えば、遅れてはならじと乗ってくるはずだ。
 陰気で引き籠りな癖に、蒼紫は新しい風俗に敏感だ。洋風のコートも断髪も、明治に入ると同時に取り入れたくらいである。ミルクホールも、誰より早く行きたいと思うだろう。
 案の定、考えるように唸りながらも、蒼紫の表情は行く気満々になってきた。新しいものを体験するためなら多少のゲテモノは厭わない姿勢は、見上げたものである。
「そんなに流行っているのか………」
「そりゃあもう! 飲めば滋養が付いて、西洋人のような身体になるそうですよ。陛下も毎朝お召し上がりになって、こんなに御立派なお身体なんですから」
 新聞に載っている挿絵を差して、は熱くまくしたてる。ここまでくると、まるでミルクホールの回し者だ。
「まあ、身体に良いというのなら―――――」
「じゃあ今から行きましょう! はい、決定!」
 蒼紫が行く気になったら、善は急げだ。元が引き籠り体質なのだから、じゃあ今度、なんて暢気なことを言っていたらグダグダになってしまう。
 予想外の急展開に驚いている蒼紫を引っ張りながら、は立ち上がった。





 ハイカラな商売といっても大抵は和風の内装だが、ミルクホールは完全に洋風だ。英語を使った商売は流石に違う。
 女給は着物に白いフリフリした洋風の前掛け(“エプロン”というのだそうだ)と付けていて、とても垢抜けて見える。美人揃いだから余計にそう見えるのかもしれない。彼女たちは噂によると、数十倍の倍率を突破して採用された、選りすぐりの美女軍団らしい。
 そのせいか、客は学生風の若い男が多い。それぞれ難しそうな本を読んだり、連れと小声で談笑しているが、目はさり気なく女給の姿を追っている。若い男というのは、そういうものなのだろう。
 しょうがないなあ、と呆れながらが蒼紫を見上げると、彼もぼんやりと女給の姿を目で追っていた。
「蒼紫様」
「あ、ああ………」
 に軽く肘鉄を食らわされ、蒼紫ははっとしたような顔をした。
 ハイカラな雰囲気に圧倒されたか、物珍しさに興味を引かれただけなのかもしれないが、蒼紫が他の女をじろじろ見ているのは面白くない。が一緒だというのに、それはあまりにも失礼ではないか。
 別に二人は付き合っているわけではないけれど、としてはゆくゆくはそうなりたいと思っている。蒼紫は男前で背が高くて頭が良くて、まあ陰気過ぎるところはあるけれど、多分日本一いい男だ。狙っている女は多いに決まっているのだから、こんなところでほかの女に興味を持たれて競争相手を増やされてはたまらない。
「蒼紫様、あそこが空いてますよ」
 ひったくるように腕を組んで、は蒼紫を席に引っ張った。
 “メニュー”というお品書を見ると、牛乳以外にもパンや蜜柑も扱っているらしい。パンは兎も角、何故蜜柑を扱っているのか。の知らないうちに蜜柑はハイカラな食べ物に出世していたようだ。
「じゃあ、牛乳を二つ」
 蒼紫が口を挟む間も無く決めてしまうと、はメニューを女給に返した。
「本当に流行っているんだな………」
 改めて店内を見回して蒼紫は呟く。新聞にもそう書いてあるのだから本当も何もないのだが、広告紛いの誇大記事と思っていたのだろう。
 今はまだゲテモノ扱いされたり、物珍しさが先立っているが、そのうちこの手の商売は一般的なものになるだろうと、は思っている。うかうかしていたら、『葵屋』のような古くからの商売は時代に取り残されてしまうかもしれない。
「うちもこういうのやりましょうよ」
 ただでさえ古いものが急速に消えていこうとしている世の中だ。老舗だって時代に合わせて変わらなくてはいけない。
 が、の提案に蒼紫は渋い顔をして、
「何でも西洋化すればいいものじゃない。今は新しいものに飛びついても、すぐに元通りになる」
 服や髪形は新しいものに変えたがるくせに、蒼紫は大きな変化は嫌うらしい。
 維新という国を上げた変化に人生をひっくり返されたのだから、その気持ちはも解らないではない。けれど、若い客がこれだけ集まっているのだから、少しは考えてみても良いと思う。も前掛けではなく、ああいうエプロンを着て働いてみたいのだ。
「前掛けをエプロンに変えるだけでも違うと思うんですけど」
「それはお前が着たいだけだろう」
「まあ、それはそうですけどぉ………」
 あっさりと言い返され、はばつの悪そうな顔をする。
 ああいうエプロンを着てみたいのは事実だが、蒼紫だってああいうのが好きみたいではないか。蒼紫が好きなら、尚更着てみたい。
「でも蒼紫様だってああいうの好きでしょう?」
「お……俺は別にどうでもいい」
 今度は蒼紫が気まずそうな顔をした。図星だったようだが、それを認めるには照れがあるらしい。堂々と認められても、も引いてしまうが。
 やはりあのエプロンは男から見ても可愛いのだ。家に帰ったらあれが何処で売っているのか調べてみようとは思う。
 そうこうしているうちに牛乳が運ばれてきた。
「これが牛乳かぁ………」
 憧れのハイカラな飲み物を目の前にして、は感激したような声を上げた。
 獣の乳も人間の乳と同じく白いものらしい。鼻を近づけると微かに甘い匂いがした。
 些か緊張した面持ちで、二人はコップに口を付けてみる。
「へぇ………」
「うーん………」
 一口飲んで、は感心したような、蒼紫は微妙な顔をした。
「思ったより美味しいですね」
「まあ……不味くはないが………」
 一寸癖があるが、は美味しいと思った。が、蒼紫の口にはあまり合わなかったようだ。
 滋養の付く薬のように聞いていたから漢方薬のような味を想像していたが、少し甘いような感じで子供でも飲めそうだ。もう少し安かったら毎日でも飲みたいとは思う。
 やっぱりハイカラなものは良いものだ。の生活にも、ハイカラなものをどんどん取り入れたい。そうすればあの女給たちみたいに垢抜けたいい女になれる気がする。
 ハイカラな女になったら、蒼紫の見る目も変わるだろう。ひょっとしたら彼の方から言い寄ってくるかもしれない。
 それを想像すると、の顔はだらしなくにやけてしまう。そんな彼女を見て、蒼紫は変なものを見るような顔をした。





 そして数日後―――――
 の新しい装いを見て、蒼紫は微妙な顔をした。
「………それは何だ?」
「可愛いでしょう? やっと見付けたんですよ」
 そう言って、は上機嫌に白いエプロンを見せつける。
 あれからずっと、あのミルクホールの女給と同じエプロンを捜していたのだ。いつも使っている前掛けの倍の値段がしたが、これもハイカラな女になるための投資である。
「まあ、何というか―――――」
「うわー、可愛いー! どうしたの、それ?」
 蒼紫が応える前に、通りがかりの操が興味津々に近付いてきた。
「ミルクホールの女給の服を卸してる店で買ってきたの。どう? ハイカラでしょ?」
「うん、凄く可愛い! ね、蒼紫様?」
「え? あ、うん、まあ……そうだな」
 無邪気に同意を求める操に圧倒されたように、蒼紫は頷く。
 その返事だけで、高価なエプロンの元は取れたようなものだ。今は見慣れない姿への驚きが勝っているようだが、すぐにミルクホールの女給を見ていた時と同じようにを見るようになるだろう。
 ハイカラなものの威力というのは凄い。次はリボンに挑戦してみようか。
 ハイカラのものを取り入れていく自分に見惚れる蒼紫の様子を想像すると、は顔がにやけてくるのだった。
<あとがき>
 主人公さん、突っ走り過ぎだ(笑)。
 リアルな話をすると、ミルクホールの登場は明治40年頃だそうです。牛乳や清涼飲料水、パン、蜜柑を出していたのだとか。まあ、喫茶店のようなものですね。
 エプロンにしろリボンにしろ、蒼紫の好みに合うかどうかは別にして、可愛くなりたいという努力は認めてあげて欲しいものです。
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