ヤンデレに愛されて夜も眠れないバレンタイン

 世間にはバレンタインデーという風習があるらしい。
 女から好きな男へ贈り物をするという風習らしいが、別に好きな男でなくても世話になっている相手とか義理で渡すこともあるという。日本でいう御中元や御歳暮のようなものなのだろう。
 というわけで、縁も最近親しくしている阿片商人の娘から菓子を貰った。「お礼は三倍返しでね」と笑いながら言われたから、多分義理でくれたのだろう。
「うーん………」
 可愛らしく包装された箱を睨み、縁は人生の決断を迫られているような顔で唸る。
 勝手にくれたくせに礼が三倍返しなのは理不尽な気もするが、まあそれは構わない。所詮菓子であるから、三倍といってもたかが知れている。阿片商人は縁の大事な資金源でもあるから、その娘に多少の投資をしておくのは損にはならないだろう。
 問題は、縁の自宅に住み着いている女のことだ。あの女にこの贈り物をどう説明するかが、今の縁にとって最大の問題である。ここで選択を誤れば、比喩ではなく本当に人生を左右しかねない。
 女の名はといい、菓子をくれた娘の腹違いの妹に当たる。菓子をくれた娘が清国人の正妻の娘で、は日本人の愛人の娘だ。そして二人は恐ろしく仲が悪い。が一方的に姉を嫌っているようであるが、姉ものことは疎ましく思っているようである。姉が縁に菓子をくれたのも、妹への軽い嫌がらせなのかもしれない。
 姉妹仲が悪いのは縁の知ったことではないと考えそうなものだが、それ以上に問題なのがの異常な嫉妬深さだ。縁が他の女(年齢問わず)と親しく話すだけで癇癪を起すのだから、嫌いな姉から物を貰ってきたとなればどれほど荒れるか、想像するだに恐ろしい。
 かといって捨てたら捨てたで、そのことが姉に知られでもしたら縁の立場が無い。捨てることもできず、かといって持って帰っての癇癪に付き合わされることを考えると、胃の辺りが苦しくなってきた。
 いっそのこと今夜は帰らないという選択もあるが、それは今の縁にはありえない。一度それをやったら、帰って来た時に刃物を振り回された。は恐ろしいほど気性の激しい女なのである。そういうところは清国人の血を引いているのだろう。こっちの女は日本の女と違って気性が激しすぎるのが多いのだ。
 さんざん考えても結論が出ないまま、家に着いてしまった。多分、は玄関で待ち構えていることだろう。いつもは何とも思わないことであるが、今日ばかりは気が重い。
「おかえりなさいっ!」
 玄関の扉を開けると同時に、笑顔のが飛びついてきた。縁が帰る時間を見計らってずっと待っていたのだろう。これもいつものことである。
 癇癪を起さない時のは可愛いと縁は思う。彼の帰りを毎日出迎えて、子犬のようにじゃれついてくる。まだ十六歳という若さと見た目の可愛らしさ、そして父親の財力と、非常に魅力的な女だ。ただし、異常な嫉妬深さと癇癪さえ無ければ。
「今日はバレンタインデーだからケーキを用意したのよ。私が焼いたの」
「それは楽しみだ」
 楽しそうに報告するに、縁はコートを脱ぎながら応じる。今夜のはとても機嫌が良いようだ。ケーキが上手く焼けたのだろう。
 が、安心したのも束の間、腕に絡みつくの表情が急に険しくなる。
「………あの女の匂いがする」
「えっ?」
 別人のような低い声に、縁の顔も引き攣った。こんな声を出すのは癇癪の一歩手前である。
 馬車に乗る前に一度香りが移っていないことを確認し、念のために窓を開けて馬車を走らせ、更に馬車を降りるときにも駄目押しで匂いを確認したから、姉の香が移っているはずはない。そもそも、香が移るほど近付いてはいないのだ。これはが鎌をかけているか、姉を嫌うあまりの妄想としか思えない。
 ここでうろたえては、の妄想が暴走するのは確実。縁は心の中で深呼吸をして、ゆっくりと落ち着いた声で応えた。
「ああ、お前の父上に会いに行ったからな。でも匂いが移るほど姉さんと話しもしないし、近付いてもいない」
「ふーん………」
 縁の言葉を一応信用したようだが、まだしつこく匂いを嗅ぎまわっている。まったく犬のような女だ。子犬のようにじゃれつかれるのは可愛いと思うのだが、こうやって嗅ぎまわられるのは不愉快である。
 とはいえ、不快な顔を見せれば疾しいことがあるからだと言いだすに決まっているから、縁はじっと堪えるしかない。父親の資産さえなければ、さっさと叩き出すところなのだが。
 一頻り匂いを嗅ぎまわった後、は満足げににこっと笑った。
「そうよね。縁があの女を近付かせるはずがないわ。あの女、香を焚き過ぎて、近付くだけで気持ち悪くなるくらいだもの。そんなに近付かなくても匂いが移っちゃうのは仕方ないわよね」
「…………………」
 確かにの姉はいつも濃い香を焚き染めているが、近付くだけで気持ちが悪くなるほどというわけではない。気持ち悪くなるのは、が姉を極端に嫌っているせいだろう。
 ともかく、の機嫌が直って良かった。今夜を穏便に乗り切ることができれば、暫く平和な日々が続くのだ。癇癪さえ起こさなければ可愛い娘なのだから、要らぬ揉め事は避けたい。
 ところが―――――
「あ、そのコート、私にちょうだい」
 使用人が持っているコートにが手を伸ばす。いつもはそんなものは気にも留めないくせに、何かを察しているとしか思えない。
 実はコートのポケットの中に、例の菓子の箱があるのだ。いつもは使用人がコートを片付けての手に触れることはないから、彼女が寝ている間に処分できると思っていたのに、どういう風の吹き回しなのか。
 あの箱がに見付かったら、もう目も当てられない。どうやって彼女を宥めるか、縁は必死に考える。
「あら」
「あ―――――」
 案の定、菓子箱を見付けられて、縁には一気に血の気が引くのを感じた。
 とりあえず辺りに凶器になりそうなものは何も無い。が今履いている靴も、踵の低い平らなものだ。これで殴られても大して痛くはないだろう。細くて高い踵の靴で殴られた時は、突き刺さるかと思うほど痛かった。
「ねえ、縁。あの女には近付いてないって言ったわよね?」
 縁に背を向けたまま、が地を這うような低い声で尋ねる。縁から表情は見えないが、声の感じからして般若のような顔をしているのだろう。
 こうなったらもうを止められる者はいない。の気が済むまで暴れさせ、いかに縁の被害を小さく済ますかを考えるだけだ。幸い、今回は凶器になりそうなものが無いから、素手で殴られるか引っ掻かれるかで済むだろう。が玄関で気付いてくれたことに、縁は心から感謝した。
 気が付けば、周りにいた使用人たちが全ていなくなっていた。流石こんな家に仕えているだけあって、危険を察知する能力に長けている。
「あ、いや………」
 縁も逃げ出したい気持ちは山々なのだが、逃げたところで何処までも追いかけ回されて、手近にある凶器になりそうなもので攻撃されるだけである。それも身を以て何度も学習させられたことだ。
 本当なら女の一人くらい、縁の手にかかれば瞬殺なのだろうが、厄介なことにそうもいかない。大事な資金源の娘ということは勿論、あの年頃の女はどうも駄目なのだ。多分、自分の姉を連想してしまうのだろう。だからどんな攻撃を受けても、嵐が過ぎ去るのを待つようにじっとしているしかない。
「どうしてそんな嘘をつくの?! 今日がどんな日か解ってるでしょ?! 何であんな女からこんな物貰うの?!」
 振り向いて金切り声を上げるの顔は予想通り般若のようだが、目は泣いているように涙を溜めている。縁が他の女から贈り物を受け取るというだけでも腹立たしいのに、その相手が大嫌いな姉だと思うと、嫉妬と裏切られた思いでどうしようもないのだろう。
 気持ちは解らないでもないが、やはりこの激しさは異常だ。一寸拗ねるくらいの可愛い焼きもちなら縁も悪い気はしないが、たかが菓子でここまで怒り狂われると引いてしまう。
「ああ、臭い臭いっ! あの女の匂いがする! 縁、こんなものを食べる気だったの?! 信じられない!」
「あ……いや………」
 毎度のことながら、の剣幕に圧されて言葉が出ない。
 臭い臭いと金切り声を上げているが、多分これはの妄想だ。妄想で匂いまで感じるとは重症である。
 これは一度医者に診せるべきなのだろうが、生まれつきの性質であれば薬で解決できるものではないだろう。いっそ阿片を吸わせて地下にでも監禁してしまおうかと、縁は物騒なことを考えてしまう。
 しかし別腹とはいえ、血を分けた姉をこれほど嫌う感覚が縁には理解できない。縁にも巴という姉がいたが、嫌いになるなどあり得ないことだった。男と女では違うものなのかもしれないが、それにしてもは異常だ。
「あの女、やっぱり縁に気があるんだ! 他人のものを横から掠め取ろうなんて、いやらしい! 泥棒猫じゃない!!」
 般若の形相で喚き立てるの姿には、毎度のことながら縁もドン引きである。父親のことさえ無ければ二人の関係を見直したい。
「と……とりあえず落ち着け。お前の姉さんは別に―――――」
「あの女を庇う気?! 信じられない!」
 金切り声と同時に、縁の顔面に箱が叩きつけられた。
 幸い、今回は紙の菓子箱だったから思ったより痛くはなかった。これが陶器に入った高級菓子だったなら、鼻血が出ていたことだろう。安物をくれたの姉に、縁は心から感謝した。
 とはいえ、紙の箱でも顔が赤くなる程度には痛い。しかしこれを避ければの怒りはさらに激しくなるだけで、彼女を大人しくさせるためには黙って箱を投げつけられるしかないのだ。これもとの付き合いで学んだことである。
 それにしても女というものは何故こうも感情の起伏が激しいものなのか。これでは猛獣と同じである。いつも物静かで控えめだった巴は本当に完璧な女だったのだと、縁はしみじみ思った。
 無言で赤くなった顔を擦っている縁の姿に、漸くも我に返ったらしい。般若顔が一転、泣きそうな顔では縁の顔に手を当てる。
「ごめんなさい、縁っ! 私ったらつい………。あの女のことになると自分でも訳が分からなくなっちゃうの。ごめんなさい。痛かったでしょう? 痛かったわよね?」
 さっきまでとは別人のようなしおらしさである。最初の方こそその豹変ぶりに混乱した縁だったが、今ではもう慣れた。
 本人の言う通り、姉のことさえ絡まなければ可愛い女なのである。おまけに父親の財力が付いているのだから、今の縁には必要な女だ。荒れるのは他所の女が絡む時で、特に姉が絡むことに気を付ければ良いのだから、そこさえ解決できれば何とでもなると縁は思っている。
 多少のことは、札束が暴れていると思って我慢すればいい。何だかんだ言って、普通に“恋人”として扱える時の方が多いのだから、命の危険を感じないうちはこのままでも良いだろう。
「まあ一寸は痛かったが、大丈夫だ」
「ごめんなさい。縁をあの女に取られると思ったら、頭に血が上っちゃって………。お願いだから私のこと嫌いにならないで」
 また感情が昂ってきたのか、は今度はぐすぐすと泣き始めた。女というものは本当に感情の起伏の激しい生き物である。
「嫌いになんかならないから。お前の姉さんのことも、俺にはどうでも良いことだ」
 を落ち着かせるように、縁は優しく言う。子供を宥めるのと同じようなもので、これももう慣れた。
 とりあえず今日のところはこれで大丈夫だろう。あとはが作ったケーキを食べて寝かしつければ、暫くは“可愛い恋人”でいるはずだ。





 そしてその夜―――――
 かさかさと妙な音で縁は目が覚めた。
「……………?」
 隣で寝ているはずのがいない。妙な音は隣りからしているようだ。ということは、隣の部屋でが何かをしているということか。
 何だか嫌な予感がして、縁は音をたてないようにベッドを下り、そっと続き部屋の扉を開けた。
「――――――――っっ?!」
 そこで行われている恐ろしい光景に、流石の縁も一気に血の気が引いた。
 床に座り込んでいるが、例の菓子箱に何度も何度もペーパーナイフを突き立てていたのだ。しかも一点を見詰めた無表情なのだから、恐怖も倍増である。何かに憑かれたかのような無表情は、般若顔より恐ろしい。
 あの箱はの目の前で捨てたはずなのに、わざわざゴミ置き場から拾ってきたのか。それほどまでに姉が憎いのか、ただの行き過ぎた嫉妬なのか縁には判らないが、こうなってくるといつか彼が滅多刺しにされる日が来るかもしれない。
 覗いていることをに気付かれたら、縁が刺されるかもしれない。ペーパーナイフとはいえ、先が尖っている物は危険だ。縁は細心の注意を払ってそっと扉を閉めた。
 大富豪の娘で一番の資金源だからと今日まで耐えてきたが、本気でと手を切ることを考えなければ大惨事になるかもしれない。しかし別れ話を切り出そうものなら、それはそれで大惨事である。今の縁には資金を断たれるのも痛い。
 否、出資者は縁が上海中をかけずり回れば何とでもなる。もいざとなれば始末することも―――――といきたいところだが、それは無理だ。あの年頃の女は巴を思い出してしまうから、縁には殺せない。誰かに始末させるというのも無理だ。がただの金持ちの娘なら兎も角、裏社会に顔の利く阿片商人の娘なのだ。そんなことをしたら、縁は父親の手で全力で潰される。
 どう考えても今の縁にはと手を切る方法が無い。が彼に愛想を尽かしてくれない限りは。
「………姉サン、どうすれバ………」
 長く使うことの無かった日本語が思わず出てしまうほど、縁は絶望的な気分になってしまうのだった。
<あとがき>
 ヤンデレのヤの字も理解していないけど書いてみた。………これって、普通にDVじゃね?
 縁、全力で逃げて―――――っっ!!
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