夕立

 数日前の新聞の健康欄で、毎日通勤する道順を変えるとボケ防止になるという記事を読んだ。そんなのでボケが防げるのかどうか甚だ疑問ではあるが、物忘れが激しいと常日頃上司から怒られているは、ここ数日それを実行している。
 近道をしたり遠回りをしたり毎日違う道を通っていると、新しい店を見つけたり新鮮な発見があったりして、確かに脳にいい刺激があるような気がする。これがボケ防止に効くと新聞にも書いてあった。
「へー………この辺りにも洋食屋さんが出来たんだ………」
 煉瓦造りの小洒落た建物の前でふと足を止めて、は呟いた。玄関の横に立てかけられているお品書きを見ると、思ったよりも手頃な価格設定である。これくらいの値段だったら、月に1、2回は通えそうだ。
 今度の給料を貰ったら斎藤さんを誘ってみようかな、と少し考えてみる。
 “斎藤さん”というのはの上司で、本当は“藤田五郎”という名前の警部補だ。若い頃に“斎藤”と名乗っていたそうで、そっちの名前の方が好きだからと、周りに人がいない時はそっちの名前で呼ぶように言われている。けれど“斎藤”という名前を知っているのは警視庁では以外では川路大警視くらいで、そんな秘密の名前を教えてくれるというのは他の部下とは違うのかな、とは勝手に思っている。
 斎藤がをどう思っているのかは判らないが、は斎藤を特別な上司だと思っている。斎藤の下に配属された時は、あまりにも悪人面な上に無愛想な上司に泣きそうになったが、見かけによらず優しいところもあるし、何より仕事が出来て、最近では上司として以上に、一寸良いかな、なんて思っている。
 そんな斎藤と二人で洋食を食べているところを想像したら、何だか自由恋愛中の男女みたいで、は一人で顔を紅くしてしまった。二人でワインで乾杯なんかしちゃったら素敵かも……などと店先で妄想に耽りだして、傍から見たら怪しい女だ。
 通行人の不審な視線に気付いて、ははっと我に返った。いつもの癖でつい長々と妄想に耽ってしまっていたらしい。今度は別の意味で顔を紅くすると、はその場から逃げるように走り出した。
 暫く走って洋食屋の建物が見えなくなると、は漸く足を止めた。どれくらいの通行人に妄想に耽っている姿を見られたか分からないが、警官の制服を着ていなかったのが不幸中の幸いだ。女子職員は制服を支給してもらえなくて着物代がかかって大変だと思っていたが、こういう時は助かる。
「あれ、この辺って………」
 周囲を見回して、は呟く。この辺りは確か、斎藤の家の近くだ。一度、酔っ払った彼を家まで送ったことがあるから、憶えている。
 折角此処まできたのだから、一寸家に寄ってみようかな、とふと思いついた。今日は斎藤は非番で家にいるはずだ。
 けれど、何と言って家に行けばいいのやら、都合の良い口実が思いつかない。は斎藤の友人でも何でもないただの部下なのだし、「近くに来たんで遊びに来ました」などと気軽にお宅訪問できるはずがない。というより、ただの部下が意味も無く上司の家に遊びに行くというのは、どう考えても不自然だ。
「ま、いっか………」
 また明日会えるのだし、別に無理して今日会わなくても良い。仕事ではない斎藤の姿というのは見てみたかったけれど、突然遊びに行って鬱陶しがられたら、そっちの方が悲しい。
 そう自分に言い聞かせてみるものの、やっぱり折角近くまで来たのだから一寸くらい顔を見たいと未練がましく思ってしまうのも事実。何か良い口実はないかと考えながら、は何気無く空を見上げた。
 空を見上げると、もくもくと大きな入道雲が出てきている。もしかしたらこのまま夕立が来るかもしれない。
「夕立かぁ………」
 帰り道に上手い具合に夕立が来たら、それを口実に斎藤の家に上がりこんでもそれほど不自然ではないかもしれない。近くを通ったら夕立に遭ったので雨宿りさせてください、と言ったら斎藤も嫌とは言わないだろう。
 夕立でびしょ濡れになった自分を斎藤が慌てて家に上げてくれて、温かいお茶と替えの着物を出してくれたりしたら―――――などと、はまた妄想の世界に入ってしまう。風邪を引いたらいけないから風呂に入って行きなさいとか、折角だからもう泊まっていったらどうだとか言われたらどうしようなんて、そんなありえないことまで想像してしまって、またにやにや笑いながら一人で顔を紅くした。
 そんな不埒なことを考えていたら、突然空が暗くなった。あっと思う間も無く雷鳴が轟いて、いきなり土砂降りになる。どうやら、の願いというか妄想が天に届いてしまったらしい。
 蜘蛛の子を散らすように通行人たちが店の軒下に避難する中、は一目散に斎藤の家に向かって走り出した。
「斎藤さん! ですっ! 雨宿りさせて下さい!!」
 斎藤の家に着くと、は玄関の戸を拳で叩きながら怒鳴った。
 非番の日は家の掃除をしたり溜まった洗濯物を片付けたりして、あまり外出はしないと以前言っていたから、斎藤が家にいるのは確実だ。
 果たして、斎藤が中から出てきた。突然の部下の訪問、しかも全身ずぶ濡れという姿に、言葉も出ないと言った様子で唖然とした顔をする。が、すぐに気を取り直して、
「………どうしたんだ、お前?」
「帰る途中で夕立に遭っちゃって………。雨宿りさせてもらえませんか?」
 前髪から滴り落ちる雫を指で払って、は息切れさせながら言った。
「帰る途中って………。かなり遠回りで帰ってないか?」
「たまにはいつもと違う道を通った方が、ボケないらしいですよ。新聞の健康欄に書いてありました」
 不審げな顔をする斎藤に、はきっぱりと言い切った。言っていることには嘘は無いのだ。
 そうきっぱりと言い切られると斎藤もそれ以上突っ込めなくなって、そのままを家に迎え入れる。どんな理由でこの辺りを歩いていたにしても、自分を頼ってきた部下を土砂降りの中に放り出すわけにはいかないと思ったのだろう。
 戸に鍵をかけると、斎藤は自分だけ先に部屋に上がって、さっき取り込んだばかりと思われる洗濯物の山の中から浴衣と手拭いを引っ張り出す。それを玄関に立っているに投げて寄越して、
「とにかくそんなびしょ濡れの格好じゃアレだから、これに着替えろ」
「あの……此処でですか?」
 投げられた浴衣を両手で握り締め、は不安そうな上目遣いで尋ねる。いくら鍵をかけてあるとはいえ、玄関で着替えるなんて、何となく心許ない。誰かが尋ねて来たらどうするのか。
 そんなの心配に気付いているのかいないのか、斎藤は何でもないように、
「玄関には鍵もかけてあるし、こっちの障子も閉めるから大丈夫だ。それとも、俺が信用できないのか?」
「そういうわけじゃないですけど………」
「大体、そんな格好で畳に上がられたら後が面倒だ。脱いだ着物は絞ってから縁側に干しておけ」
「………はい」
 確かに斎藤の言う通り、今の自分の格好を見たら、このまま他人様の家に上がれる状態ではない。髪からは水滴が滴っているし、着物だって一寸絞ったら水が出てきそうな状態なのだ。この姿で畳に上がったら、畳が湿気てしまう。
 はしぶしぶ返事をすると、障子を閉めて急いで斎藤の浴衣に着替えた。さっき取り込んだばかりのものだから、温かくてお日様の匂いがする。冷え切った身体には気持ち良い。斎藤の肌に触れたものを自分も着ているというのも嬉しい。
 けれど―――――浴衣を着てみて、は一寸考え込んでしまった。斎藤とは大人と子供ほどの身長差があるのだから、借りた浴衣が大きいことは予想していたが、正直ここまで大きいとは思わなかった。丈も袖も余るのは当然だが、それこそ子供が大人の着物を借りて着たような様相を呈している。
 この姿で斎藤の前に出るのは、流石に恥ずかしい。が、いつまでも此処にいるわけにもいかないし、どうやら斎藤が茶の用意をしてくれている気配もあるし、は覚悟を決めて部屋に入った。
「あのぅ………」
「ああ、もうすぐ茶を出すから、その辺に座って待って―――――」
 そう言いながら厨房から顔を出した斎藤だったが、の姿を見た途端、笑いを堪えるように息を止めた。爆笑したいのを堪えているのがありありなその顔に、は恥ずかしいやら腹が立つやら、顔を紅くしてしまう。
「だって、しょうがないじゃないですか! あたし、親も小さいし、子供の頃もそんな良い物食べさせてもらえなかったし………!!」
「や、俺はまだ何も言ってないぞ」
 訊かれもしないことを勝手に喋り出すの反応が可笑しくて、斎藤はますます笑いそうになる。この部下は、勝手に相手が考えていることを妄想して、それで勝手に答えてくれるから可笑しくて堪らない。に対する扱いが他の部下と少し違うのは、傍に置いておくと面白いからだろうと、斎藤は思う。
 声を出して笑うと癇癪を起こすに違いないから、斎藤は必死に笑いをおさめる。そして、心を落ち着けていつものつまらなそうな顔を取り戻すと、
「まあとにかく、その着物を干してこい。雨は降っているが暑いから、すぐに乾くだろう」
「………はぁい」
 はまだ何か言いたそうな顔をしていたが、斎藤がいつもの様子に戻ってしまったので、仕方無さそうに縁側に着物を干しに行った。外は暫く土砂降りが続きそうだけど、それが止んだら嘘みたいに晴れるはずだから、着物もすぐに乾くだろう。
 一方斎藤は、茶を淹れながらさっきのの様子を思い出して、また笑いを堪えていた。資料によるとは23歳ということらしいが、ああいう反応を見せるところは、まだまだ子供だ。部下というよりも、子守をしているような気分になる時もあるけれど、それは別に嫌だとは思わない。
 湯呑みを盆に載せて部屋に入ると、が正座をして待っていた。突然押しかけてきたくせに今は借りてきた猫のように小さくなっていて、その落差が可笑しい。斎藤はまた笑いそうになったが、それを噛み殺しながら茶を出した。
「雨、暗くなる前に止むと良いな」
 の姿をまともに見ると笑ってしまいそうで、斎藤は外を見ながら呟いた。夕立だから朝まで降り続けるということは無いだろうが、暗くなったら家まで送ってやろうかと思う。も一応警察官だが、それ以前に若い女なのだ。夜道で何かあったらいけない。
 も困ったような顔で外に目を向けて、
「そうです―――――」
 答えようとした刹那、爆音のような雷鳴が響いた。
「ひゃうっ………?!」
 びっくりした猫みたいな声を上げて、は小さくなって耳を塞ぐ。稲妻が光るとそれも怖ろしいらしく、ますます身を硬くした。
 大きすぎる浴衣を着て、身を縮こまらせて震えている姿が小さな子供みたいで、斎藤はまた笑いそうになる。二十歳を超えたいい大人がこんなにも雷を怖がるというのも可笑しい。あんなもの、そう簡単に落ちるものでもないのに。それとも、臍を取られるとでも思っているのだろうか。
 音を立てないように座ったままにじり寄ると、斎藤は子供をあやすようにの背中を叩いた。
「こんなの、ただの放電現象だろうが。何を怖がることがある」
 笑いを堪えるような斎藤の声に、は涙を溜めた目をキッと向けて一気にまくし立てる。
「そんなことは解ってます! そう簡単に落ちるものでもないってことも知ってます!! 雲の上で鬼が太鼓を叩いて臍を取りに来るっていうのも嘘だって解ってますよっ。でも―――――ひぃいいっっ!!」
 空を引き裂くような凄まじい雷鳴に、はまたみっともなく悲鳴を上げてしまった。
 雷が簡単に落ちないことは、だって知っている。けれど、あの音がどうしても駄目なのだ。あの音は御一新の戦争の時の大砲の音を思い出させて、今でも怖ろしくて堪らない。
 ぎゅっと目をつぶって力一杯耳を塞いでいるを見ていると、こんなものがそんなにも怖ろしいのかと、そっちの方に斎藤は驚いてしまう。子供がそうやって怖がるのは解るが、大人になってもこんなに怖がるとは。小さく震えるの姿を見ていると、最初は可笑しいと思っていたが、だんだん気の毒になってきた。
「そんなに怖いのか?」
 心配そうに顔を覗き込む斎藤に、はこくこくと何度も頷いた。もう取り繕う余裕も無いらしい。
「そうか………」
 何とかしてやりたいが、雷ばかりは斎藤にもどうしようもない。どうしたものかと腕を組んで考える。
 で、折角斎藤の家に来たのにこんな情けない姿を見せてしまって、そのことにも泣きたくなってしまう。本当はこんなんじゃなくて、二人でお茶を飲みながら良い感じになりたかったのに。こんなだから、斎藤に子ども扱いされてしまうのだ。
 こんなはずじゃなかったのに、と歯噛みをしたい気持ちで縮こまっているの周りの空気が、急に暖かくなった。煙草の匂いが鼻をついて、斎藤の腕の中にいるのだと理解した途端、頭の中が真っ白になる。
「…………うわぁああああっっ?!」
 雷が鳴った時よりも凄い悲鳴を上げてしまっただが、逃げる素振りは全く見せずに大人しく斎藤の腕の中に納まっている。しかし緊張はしているようで、全身の筋肉が強張って心音が激しくなっているのは斎藤にも伝わった。
 ぷるぷると小刻みに震えながら、は必死に心を落ち着けようとする。今まで、色々先回り妄想をして期待外れでがっかりということばかりで、こんな予想以上のことが起きた事なんて無かったから、どうして良いのか分からない。けれど早く落ち着かないと、心臓は爆発しそうだし、顔は真っ赤になっているし、それを斎藤に悟られるのは死ぬほど恥ずかしい。
「鼠とか兎とか―――――」
 何も言わずに俯いたままのに、斎藤が思いついたように口を開いた。
「ああいう小さい生き物はいつも、こんな風にぷるぷる震えて脈拍も激しいんだが、人間もそうらしいな」
「――――――――っっ!!」
 からかうようなその声音に、はますます全身を紅くした。
 怒ったように全身を強張らせるの様子に、斎藤は可笑しそうに小さく息を漏らす。子供ではないのだから、鼠や兎と同じように扱われたら面白かろうはずがない。一寸言い過ぎたかと、斎藤は今度は機嫌を取るようにゆっくりと背中を撫でた。
「こうやって他人とくっ付いていたら、怖いという気持ちも紛れるだろ。雷が止むまで、こうしておいてやるから」
 確かに斎藤の言う通り、こうやってくっ付いていたら雷の音はさっきほどは怖くなくなった。怖くはなくなったけど、でも今度は心臓が破裂しそうだ。雷が止む前に、自分の心臓が止まってしまうのではないかと、はそっちが心配になってしまう。
 けれど斎藤に抱き締められたまま心臓が止まってしまうのなら、それはそれで良いかもしれないとは一寸思う。こうやって抱き締めてもらえるなんて次はあるかどうか分かったものではないし、こんな優しい声を掛けてもらえるのも滅多に無いことなのだ。
 雷は大嫌いだけど、でもこうやって斎藤に抱き締めてもらえるのなら、ずっと夕立が続けば良いなあとは思う。斎藤は鼠や兎を抱っこしているのと同じ感覚かもしれないけれど、でも兎や鼠と同じでも斎藤に抱き締めてもらえるのは嬉しい。
 くすっと小さく笑うと、は斎藤に気取られないようにそっと身体をすり寄せた。
<あとがき>
 初出のWeb拍手版に比べると、主人公さんの妄想が若干(?)激しくなっています。そもそもが妄想の産物であるドリーム小説の主人公さんが妄想系なんて、妄想二階建て状態で一寸クドいかも………。
 こちらの斎藤さんは、とりあえず独身設定です。おお、明治の斎藤さんで独身設定というのは初めてだ。ということは、足枷無しでやりたい放題ということですな。まあとりあえず、今のところはくっ付きそうでくっ付かない設定でダラダラいく予定ですが。
 しかし斎藤さん、これは主人公さんの意思確認をきっちりしとかないと、セクハラですよ(笑)。
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